なんてったって恋 やさしさ、というものがなんなのか、真島はよくわからないまま年を重ねてきた。
噂に聞くそれの正体はどうやら、あたたかく柔らかで、穏やかに凪いだものらしい。探れば探るほど、自分には縁のない感情に違いなかった。そんな浮ついたものを100%の純度で真島に向ける人はいなかったし、何より己が他人にそういう感情を抱いたことがあるのかすら、わからなかった。一見やさしさのように見える感情の背後にも、怯えや同情、憐憫がびっしりと蔓延っていたりする。物事には裏表があるのが普通で、澱みなく澄み切った想いなんていうものは、滅多にお目にかかれない。ただ、それは真島からすれば当然のことだった。ここはそういう世界で、暴力が物を言うなんて日常茶飯事だ。周りにいるのは力でのし上がってきた男ばかりで、人の情緒の機微に不満を言う意味すら見出せなかった。
けれど、最近になってようやく自分は、やさしさの意味を知り始めている。雲のように掴みどころがなくて、疑いたくなるほどあやふやなものではあったが、確かに真島はその存在を認めざるを得なかった。それはひとえに、桐生一馬という男と出会ったからだ。
桐生がかすかに見せるやさしさに触れたとき、真島の心中はよくわからない感情で覆われた。もっと知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちはどんどん貪欲になっていって、執着という妙な形で落ち着いた。この男の、やさしさのその先は、どうなっているのだろう。いったいどこまで、ゆるしてくれるのか。さわりたい。たしかめたい。彼の持つ柔らかさに手を突っ込んで、ぐちゃぐちゃにして乱したい。桐生との関係が深くなるにつれて、そんな衝動が頭をもたげていった。それがまともなものじゃないなんてことはわかっている。けれど決して、痛めつけたり絶望させたりしたいわけじゃない。他の誰をも寄せ付けないようないでたちのくせして、数多の男から羨望を集める4代目。そんな彼が抱いている感情を、一欠片でもいいから、ひとりじめしたかったのだ。突き詰めればそれは、桐生一馬という存在が、ずっと近くにあることを望んでいるだけで。
それでも桐生はいつだって、真島の思い通りになんてなってくれやしなかった。彼には彼の人生があって、真島はそこに時折割り込むので精一杯だ。向こうからも少なからず想われている気はするが、2人の関係ははっきりしない。桐生は言葉ではなく拳で語るような男なのだから、なおさらだ。だからこそ、東城会に戻ってくれという彼の頼みに応える義理もなかった。桐生がそうしているように、真島だってやりたいことをやって生きていくし、他人に指図されるのはごめんだ。沈みかかった組織の行方なんて、知ったことではない──はず、なのだが。
結局はこちらが折れてしまったのだから、どうしようもないなと思う。可愛がっていた弟分に頼られるのは、悔しいことに悪い気はしなかった。助けてやりたい気持ちの不意を突かれて、勝負に敗れた自分はやはり桐生に甘いのだろう。腹にぶち込まれた拳は相変わらずの苛烈さで、他の奴らと比べ物にならない強さは1年経っても衰えていなかった。あの情け容赦ない獰猛さが、真島の興奮をいとも簡単に駆り立てる。いつか絶対に、あの男を手にかけてやる。そう決心して、握りしめたドスをひと撫でした。磨かれた刃に反射して映り込んだ自分は、ひどく楽しそうな顔をしていた。
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面と向かって桐生から助けを求められたことは、思えばこれまであまりなかったかもしれない。1年前の騒動のときは真島も事を引っ掻き回した記憶があるし、付きまとっていたのは己の方だ。今はあのときとは立場も違って、真島も桐生も一応はカタギとして過ごしている。就任してすぐに4代目を引退した桐生が神室町から去ったとき、隣には小さな子どもも一緒だった。
少女の手をとって、歩幅を合わせてゆっくり歩く桐生の背中を思い出す。誰よりも平穏を望んでいるくせに、自分から渦中に飛び込んでいくものだから、その手はいつも血に塗れることになる。そんな桐生のちぐはぐなやさしさは、真島を大いに惹きつけた。あるときはすげなくあしらわれて、助けてやったのに冷たい態度を取られたり、かと思えば深い懐で受け入れてくれて、ひどいことをしても簡単にゆるしてくれるような。わがまま極まりない態度の男を、どうしてか可愛がってしまうのだ。だから、自分の力が必要だと言われてしまったが最後、真島はもう、助けてやるという選択肢ひとつしか選べなかった。どれだけの敵を前にしても、その意思は揺るがない。桐生との約束を守ることに必死になって、がむしゃらに敵を屠っていく。気づいたときには、自分以外に立っている奴は一人としていなかった。
桐生は、この街を見て何を思うだろうか。相変わらず頭に浮かぶのは、我を通してあちこちを奔走している男のことだ。近江の狙いは読めた。あいつに、伝えてやらないと。自分の働きがただの足止めだろうが、少しも構わなかった。真島がここまで桐生に手を貸してやったのは、別に役に立ちたいとか、見返りが欲しいとか、そんな動機ではなかった。ただ、また何かに首を突っ込んでいる桐生が背負っているものを、少しでも軽くしてやりたかった。それで後から、兄さん、とひとこと呼んでくれれば、じゅうぶんだった。だから真島は血みどろになりながらも、なんとか戦い抜いてみせた。
からだがぐちゃぐちゃにぬめって気持ちが悪い。もう少しまともな身なりで出迎えるはずが、こんなに汚れてしまった。真剣な顔をした桐生が駆け寄ってきて、その逞しい腕で真島の背を受け止める。桐生のあたたかいからだは、血で冷えた真島にとって夢のように心地が良いものだった。己の惨状を見た桐生が顔を曇らせて、瞳が揺れて、その純粋な反応に思わず笑みを浮かべてしまう。いつもは少しの躊躇もなく真島を殴りつけるその拳が、今のようなやさしさを抱くことができるなんて、変だと思った。それでも、その感情が向けられていることが、胸が痛くなるくらいに嬉しかった。
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「あんた、意外とやさしいよな」
グラスを片手にぽつりとそう言い放った桐生は、どこかとろけた瞳をこちらへ向けていた。明らかに真島へと投げられた言葉のはずなのに、その意味が汲み取れず、一瞬思考が停止する。やさしいって、いったいなにが。
近江連合の絡んだ事件が終結を迎え、桐生は再び神室町を去ることになった。真島はそれを素直に惜しんで、何年も前、桐生がまだ堂島組の構成員だった頃そうしていたように、飯に連れていってやることにした。桐生は口数が多い方ではないが、真島が上機嫌のときはつられるように表情もやわらかいものになるし、不機嫌なときはそれをつぶさに感じ取って、何気なく咥えたタバコに火をつけてくれるときもあった。けれど今日はそのどちらでもなく、ただ2人並んで酒を酌み交わすだけだった。
桐生に妙なことを言われたのは、何杯目かになるグラスを傾けたタイミングだった。喉を焼くような強さのアルコールを飲み干して、その言葉の意味を考える。あろうことか桐生は、真島の中にやさしさを見出しているのだろうか。まさか、と思う。自分にそんな感情は似つかわしくない。なぜって真島は、今に至るまでずっと、それを表に出さないように振る舞っているのだから。カタギとして縛られながら生きていた若いときならまだしも、その後極道に戻った自分はただ暴れていたいだけの男なのだ。真島の覚悟を、桐生は何も、わかっていない。
「……ふざけたこと抜かすな。いくら桐生ちゃんでも、それ以上言うなら容赦せえへんからな」
「……? 褒めたつもりだったんだが……気に障ったんなら謝る」
すまない、と素直に口にした桐生は、それでも相変わらず疑問符を浮かべてこちらを見ていた。威嚇するように絞り出した低い声も、この男の前では何の意味もなさない。桐生の態度に毒気を抜かれて、酔いも醒めてきてしまった。空になった目の前のグラスに目を向ける。そろそろお開きにしようか。自分と違って、この男には帰る場所も、待っている人もいるのだから。
桐生の人生も大概だとは思うが、真島もそれなりに、大切なものを失ってきた。家族なんていないし、唯一の兄弟は声も聞けないほど遠くにいる。愛した女すら、自分の元にはもういない。だからひとりでいることは平気だし、失うことにも、慣れている。隣に座る男が真島のもとから去ったとしても、少し寂しくなるだけで、耐えられる出来事なのだ。帰るで、とぶっきらぼうに一言だけ告げて、勘定をしようと席を立つ。手早く会計を済ませて外に出ると、少し遅れて桐生も着いてきた。
「兄さん、悪い。これで足りるか」
「そんなもんいらんわ。餞別やと思って奢られとけばええ」
「いや、でも」
かなり飲んじまったし、そう言いながら代金を支払おうとする桐生をあしらいながら通りを歩く。確かに今日は酒が進んだ。桐生も意識ははっきりしているようだが、その足元はおぼつかないほどだ。からだの制御がうまくいっていないみたいに、まるでまっすぐ歩けていない。どこかにぶつかりそうだと思った矢先、桐生はその千鳥足をしっかり維持したまま、飲食店の看板に真正面から突っ込んでいった。思いも寄らない展開に、目を見開く。
「っおい、危ないやろ!」
咄嗟に手が出て、全身で桐生の胴体をこちら側へと引き寄せる。顔に出ないからわからないが、これは相当酔っているようだ。よくよく考えると、桐生の強靭な肉体であれば今の行動で怪我をするようなことはないだろうし、むしろ粉々になるのは看板の方だと思う。それでも助けずにはいられなかったし、こんな状態で帰れるのだろうかと心配にもなる。送ってやった方がいいだろうかと考えていると、腕の中の桐生が悪びれもせず、おもむろに真島に向かってはにかんだ。
「ほら、やっぱり、やさしいじゃないか」
そう得意げに目を細める桐生を見て湧き起こった感情の名前に、心当たりがある。たぶんこれは、やさしさなんていう言葉では片付けられない。もっとごちゃごちゃとして、それでいて単純な衝動。激しく脈打つからだの中身が、その正体を伝えたがっている。抑えきれないときめきが全身に回って、視界が渦を巻いた。不思議そうに自分を呼ぶ桐生の声を遠くに聞きながら、真島は恋を自覚してしまったのだった。
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いつの時代も、男という生き物は、惚れた相手の前では格好つけたいものだ。
もちろん真島も例外ではなく、だからこそ今、ふらふらの脚に力を込めて、なんとか起き上がろうとしている。向かい合った桐生は、息を切らしながらもしっかりと地を踏み締めて真島を見つめていた。やっとのことで、敗北を悟る。ああやっぱり、この男は手放し難い。これで桐生は神室町から出ていってしまう。真島を置いて、こことは似ても似つかないようなところで、新しい生活を始めるのだ。飛行機でたった2、3時間くらいの距離だとしても、遠いものは遠い。
いつか平和な暮らしに飽きたら、戻ってきてくれるだろうか。いや、どうだろう。桐生は少女の小さな手を引いて生きている。大勢の子どもを育てることだって、きっと桐生ならうまくやるに違いない。なんだかんだで器用な男だ、あの大きな掌におさまるくらいに幼い頭を撫でて、時にはあたたかな胸で抱きしめてやって、溢れんばかりの包容力で立派に家族として暮らしていくのだろう。その光景はまるでこの目で見てきたようにありありと視界に広がって、真島の胸に満ちる寂しさを増幅させた。疲れがどっと押し寄せて、地面に大の字に倒れる。瞼を下ろして、すぐにまた開くと、視界一面に映り込んできたのは、今にも崩れそうな薄曇りの空だった。
目線を動かすと、まだ肩で息をしている桐生がそこにいた。妙な既視感を覚えて記憶を振り返ると、今のように倒れている真島に手を差し伸べる桐生の姿が重なった。派手な歓声と大勢からの視線に囲まれながら、それに頼らず立ち上がった自分は、次に同じような状況になればどうするのだろうか。他人事みたいに、あのとき握らなかったぬくもりを想像した。また拳を交わすようなことがあれば、今度は手を取ってみても、いいかもしれない。
軋むからだに鞭打って、いつものジャケットを着込む。タバコを取り出して、ライターの小さな火を近づけた。ほのかな明かりを見つめていると、じわじわと寂しさがしのびよってくる。行くな、ずっとここにいてくれだなんて、今の真島が本気で言えるわけがない。高潔な顔をしながら、一方ではどこまでも泥臭く真島の狂気を受け止めてくれる相手は、なかなかいないというのに。きっと一度懐にいれたら、死ぬまで面倒を見てくれるに違いない。小さな子どもの世話をするかのような、見返りも対価も求めてこない、まっすぐで純粋なやさしさ。それを享受できることを、世間は幸せと呼ぶのだろう。
それでも、真島は桐生のそんなやさしさに付け込んだりはしない。理由は単純で、桐生に恋をしているからだった。好きな相手の助けになりたいと思うのは当然のことだ。桐生の気持ちを無視してこのままカタギでいるのは簡単だが、真島の色めいた思考がどうしたってそうはさせてくれない。報われなくても、そばにいてくれなくても、そのやさしさをひとりじめできなくても、満足だった。真島のやさしさを桐生が受け取ってくれたらそれでいい。こちらばかり追いかけるはめになっても、それが楽しいと思えてしまうのだから、恋とは厄介なものだ。真島が手を貸すのを当たり前だと思っている桐生は知らない。こんなに甘く、やさしくしてやってるのなんて、お前だけなこと。
いつまでも眠らない街を眺めながら、2人で並んでタバコを吸った。つくづく不思議な男だ。横目で桐生の精悍な顔つきを何度も盗み見る。その度に視界の端の、東京の夜景が、目に染みた。
この男がどこまでも、好きだと思った。