美しい鰭 その会員制クラブに入るには、多額の金を積まなければならない。その上で身辺調査を行われ、問題なしと判断されればようやく会員となり入ることができる。
クラブで酒を酌み交わすのは、社会の上澄みに属する人々だ。上品な顔をして、腹黒く悪趣味な話で盛り上がる。
このクラブで働くオクジーは、彼らをそう思いながら見ていた。
クラブの目玉は多々あるが、人気があるのは――人魚だった。
どの席からも見えるよう作られたステージには水槽が造り付けられている。そこに、一週間に一度、木曜日にだけ人魚が展示されるのだ。だから、木曜日のクラブは盛況だった。
人魚は美しかった。首元までを鱗が覆い、人間のように生えた腕には鰭が揺らめいている。
脇には鰓。そして、すらりと伸びた脚は人間と変わらず二本の脚のように分かれ、やはり足の先に長い長い鰭がたなびいている。
顔は人間そのもので、このクラブに運ばれてきた時には二本の傷が付いていた。
鱗は光を受けて青く輝き、金色の髪は丁寧に紡いだ金糸のようであった。
彼は――そう、人魚は雄だ――バデーニという名だった。
これは、彼とオクジーとの間の秘密で、他のクラブのスタッフは「魚」や「魚類」と小馬鹿にしたように呼ぶ。彼の世話をしているオクジーにだけ、心をひらいてくれていた。
「バデーニさん、今日も美しかったですよ」
クラブが閉まって、客が引けた後。オクジーはバデーニを労う。
「ふん。なにが美しかった、だ。中指を立てたら、皆大騒ぎだったじゃないか」
そう、バデーニはプライドが高い。ただ泳いでいれば良いものを、客に向かって中指を立てることがざらなのだ。
その度に、オーナーから鱗を剥がされている。オクジーはその後の手当を担当していた。
「痛かったでしょう」
「媚を売るよりましだ」
「機嫌を直してください。今日もとっておきの話を用意してきましたから」
そう言うと、バデーニは目を輝かせた。
「本当か? 人間は愚かだが、オクジー君の話は好ましいからな」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
ひとつに結んだ髪を掻きながら、オクジーは照れくさそうに笑う。
「なぜ、波があるかを勉強してきました」
「なんだ、そんなことか」
「……知ってましたか?」
バデーニは水槽の淵に肘をついて、目を細める。
「父が起こしているんだ」
そう言うからには、彼の父も人魚なのだろう。得意げなバデーニに、くすくすと笑ってしまう。彼は眉を寄せた。
「なにを笑っている。失礼なやつだな」
「すみません。それが、違うんですよ」
「違う?」
「はい。海の満ち引きは、月と太陽の引力によって海水が引っ張られることで起こっているんです」
それを聞いたバデーニは、思わずといった様子で水槽の中に落ちた。
「バデーニさん? バデーニさん! 大丈夫ですか!」
人魚だから大丈夫だろうとは思いつつも、案ずる声を上げる。しばらくして浮き上がってきた彼は、鰭をひらひらとたゆたわせていた。
「……幼い頃、父が得意気に言ったんだ。波は自分が起こしている、海の満ち引きもだ、と」
幼い相手にはそれで通じるだろう。父親としての威厳もあったのかもしれない。それを、バデーニはずっと信じていたのか。
「可愛いですね、バデーニさんは」
「可愛いだと? 馬鹿にしているのか、君は」
「いいえ、全く。むしろ尊敬しています。その知識欲、どこから来るんですか」
「知らないことは知りたいと思うものだろう。オクジー君は、そう思わないのか?」
「恥ずかしながら……バデーニさんに会うまで、思ったことがありませんでした」
「これだから、人間というものは」
はあ、と大仰にため息をついて呆れるバデーニを、微笑ましく見る。
「オクジー、いつまで魚の世話してるんだ!」
先輩スタッフの怒鳴り声が聞こえる。
「すみません、今行きます!」
もっとバデーニと話をしていたかったというのに。けれど、ここを追い出されては住む場所を失ってしまう。
「バデーニさん、また明日」
「ああ。明日はもっと詳しい話をしてくれ。どうして月と太陽の引力で満ち引きが起こるのか。その理由を聞いていない」
「分かりました」
それじゃあ、と挨拶をして後ろ髪を引かれながら水槽の傍を離れる。明日は、バデーニは休みの日だ。鱗を剥がされることもない。
木曜日の夜は、特にバデーニと会話をする時間がある。それもこれも、バデーニが客に愛想を振りまかず、鱗を剥がされてしまうからなのだが。オクジーはその手当をしている。
バデーニに、少しでも笑って見せたらどうかと訊ねたことがある。
「私が? なぜ人間に媚びなければならない」
そうだろうなあ、と思う。彼が人間に媚びる姿など想像できないし見たいとも思わない。口にしてから後悔した。
「……すみません」
「君がどう思おうと構わない。」
つん、とした態度で返される。バデーニはいつもこうだ。そこが、美しさを際立たせて好ましくもあるのだけれど。
「今日はどこを剥がされましたか」
「右腕と、左腕。あと、腹と両脚」
「全身じゃないですか」
「背中は剥がされていない」
「屁理屈ばかり」
「それよりも。この前、君が話してくれた潮の満ち引きの話。興味深かった」
「それは良かったです」
図書館に通って勉強をした甲斐があったというものだ。
いっそのこと、バデーニを図書館に連れて行ってあげられたならと思うが――。
「……無理だよなあ」
ぽつりと呟く。バデーニはそれをしっかりと聞いていた。
「なにが、無理なんだ?」
「いや――その……」
「言ってみろ。私に隠し事をするのか?」
「……バデーニさんを、図書館に連れて行ってあげられれば、と思ったんです」
「図書館! あの、本がたくさんあるという?」
「はい」
「行ってみたいな! どうやって行くんだ?」
「……ここから一番近いのは、バスに乗って……」
そう言うと、バデーニは頬を膨らませる。
「私に、どうやってバスに乗れと?」
「そうですよねえ……」
まず、オーナーが許さない。バデーニを外に出すなど。態度が悪かろうと、彼はこのクラブで一番の人気なのだ。彼がいなくなってはクラブは立ち行かない。
もっとも、こんな裏世界のクラブなど潰れてしまえばいいとは思うけれど――。
「いいなあ、オクジー君は。脚があって。肺で呼吸できて。すべらかな肌を持っていて」
ぱしゃん、とバデーニが脚を上げて水面を叩く。その間も、オクジーは彼の鱗を剥がされた箇所に軟膏を塗っていた。
連れ出してやりたい。どうすれば良いだろうか。その答えは分からないけれど。
「……いつか、連れ出しますよ」
「君が?」
「はい。バデーニさんに、外の世界を見せてあげます」
「本当だな?」
「本当です。本当に――バデーニさんを連れ出して。俺の家の浴槽、狭いですけど」
「構わない。狭くたって、ここから出られるのなら。外の世界を見られるのなら!」
バデーニはするりとオクジーの手から離れ、水槽に潜る。そして、勢い良く水面から飛び上がった。こんなことをしたならば、木曜日の客はたいそう喜ぶだろうけれど。
バデーニはオクジーの前でしかしないのだ。
その日は火曜日だった。相変わらずバデーニは芸をするどころか愛想をふりまくことをしなかった。木曜日は明後日だ。最初は人魚という物珍しさに人が集まってきたが、近頃は苦情があるらしい。
――あの人魚は見目が良いだけで愛想がない。
――水をかけられたぞ。
――それよりも、もっと珍しい生き物を展示してはどうだ?
バデーニは高額で購入されたのだそうだ。だから、元を取らないといけない。だから、もっと客を呼べるようにと芸を仕込むなり愛想を振りまかせるなりしたいようだった。
だが、思い通りに従うバデーニではない。
「私に命令するのか?」
水槽の淵に肘をついて、オーナーを見下ろす。オーナーは顔を真赤にして吸っていた葉巻を床に叩きつけた。
「お前の命なんざ、わたしにかかればどうとでもできるんだからな……」
地の底から響くような声音で恐ろしいことを言う。
「オーナー、彼にはしっかり言い聞かせますから。お願いです、今日はもう大目に見てください」
見かねて止めに入ると、オーナーの怒りの矛先はオクジーへと向いた。
「お前、この魚と仲が良いと言っていたな」
「いや――そんなことは……」
それは、バデーニの名前を教えてもらった時の秘密だった。
――私が心を開くのは、オクジー君だけだ。
――これは私たちだけの秘密だ。
あまりにオクジーがバデーニに構っているから、いつの間にか噂になってしまったのか。
「いいか。今度の木曜日、あの魚に愛想を振りまかせろ。そうしなければ、お前が海に沈むことになるぞ」
「……わ、分かりました……」
床に落とした葉巻を踏みつけ、オーナーは立ち去った。残されたのは、オクジーとバデーニ。ステージの脇から階段を上り、バデーニの水槽の淵に座り込む。
「……海に沈むんですって、俺」
「許されるか、そんなこと! 愛想くらい、いくらでも振りまいてやる」
バデーニは怒りに任せて水面を殴る。
「大丈夫ですよ、無理しないで」
「無理じゃない。君を助けるのだから、お安い御用だ」
「そんな……」
オクジーを助けるというだけで、バデーニのプライドを崩してしまっても良いのか。そんなことが許されるとは思えない。そもそも、オクジーが受け入れられない。
しばらくの間、沈黙が続いた。そして。
「そうだ。取引をしよう」
「とりひき、ですか?」
「私は明後日、客に愛想を振りまく。客のためじゃない。君のためだ」
「でも――」
「だから、キスをしてくれ」
その無邪気な要求に、オクジーは顔が一気に赤くなるのが分かった。
キスを、してくれ。
確かにそう言われた。
「バ……バデーニさんは……良いんですか……俺、男ですよ」
「良いに決まっている。私は君のことが好きだからな」
それは、愛している、という意味ではないだろうけれど。急に言われて心臓がばくばく鼓動を打つのが分かった。
「どうだ? 名案だろう?」
「それは――はい……」
そして。
オクジーはバデーニの頬に触れる。ずっと水に浸かっている彼はひんやりと冷たかった。身を乗り出し、そっと唇を重ねる。バデーニとのキスは、海の味がした。
木曜日の夜。
バデーニは芸こそしなかったけれど客に愛想を振りまいた。蠱惑的な表情を浮かべて、客を見渡す。口許には笑みすら浮かべていた。大いに盛り上がり、席を立ち上がり「もっと近くで見せろ」とせがむ客もいた。オーナーは追加料金を札束で要求し、客もそれを受け入れる。
ステージに上がった恰幅の良い男は、水槽越しにバデーニを手招きしていた。こっちに来い――と。
バデーニはそれに応じた。そして、水槽越しに投げキスをする。
オクジーは給仕をしながら、その一連のショーを横目で見ていた。胸が、張り裂けそうだった。
閉店後、オーナーは上機嫌だった。
「よくやったぞ、オクジー。どうやって言うことを聞かせたんだ」
「……頼んだだけですよ、愛想振りまいてくださいって」
「オーナーのわたしが言っても、ちっとも言うことを聞かなかったぞ、あの魚は」
「気分が良かったんじゃないですか?」
「まあいい。今日は餌を奮発してやれ。もっと鱗が綺麗に見えるよう、照明も手入れしないといけないな」
そう言って、オーナーは上機嫌で立ち去る。対してオクジーの気持ちは沈んでいた。
いつものように梯子を上り、水槽の淵に腰掛ける。
「バデーニさん」
そう呼びかけると、彼は勢い良く水面に顔を出した。
「どうだった、今日の私は。よくできていただろう?」
「はい……とても」
とてもよく、媚びていた。思い出すだけで苛立ちが募る。
「どうした、オクジー君。どこか痛むのか?」
「……」
痛むと言われれば、痛む。
胸が痛いのだ。
あのバデーニが、オクジーからのキスひとつであんなどうしようもない金の亡者たちに媚びる姿など見たくはなかった。
「プライド、傷付いていませんか……?」
傷付いていてほしい、と思いながら訊ねる。
「いや。あの醜い人間たちが群がる様は面白かった。私のウインクひとつで腰砕けになるとは思わなかったね」
バデーニは、そう言って快活に笑う。
ようやく気付いた。オクジーはバデーニが好きなのだ。そして、独占したい。
これまで、心を開いてくれていたのはオクジーだけだったから、彼の笑顔も水をたゆたう美しい鰭もオクジーだけのものだった。
それが、どうだ。この夜でバデーニは皆のものになってしまった。
「オクジー君……? どうした、いつもと違うぞ」
「バデーニさん、俺は――」
あなたを、独占したい。
喉元まで出かかったその言葉を飲み込む。それは言ってはいけないことだ。オクジーには、バデーニを買い上げる金もないのだから。
「……褒めてくれると思ったんだが」
寂しそうにバデーニが言う。そうだ、彼はオクジーのために媚びてくれたのだ。それを忘れるなど。
「綺麗でしたよ。なによりも」
「だったら、褒美を贈るのが筋というものじゃないか?」
「褒美?」
「君からのキス」
バデーニは変わっていないじゃないか。たまらず、涙がこぼれた。
「オクジー君?」
バデーニが手を伸ばし、オクジーの涙を拭う。それを、ぺろりと舐め取った。
「海の味だ」
オクジーはそんなバデーニの頬を両手で包み、身を屈める。そして、火曜日よりも長い長い口付けをした。
あの日以来、木曜日の夜はバデーニにキスをする日になった。
「あの客、水槽越しにでもキスを強請っていたろう。面白かったな」
バデーニは笑いながら、オクジーに言う。オクジーはといえば、あまり――というよりも、全くいい気はしなかった。バデーニの微笑みは、楽しげに笑う表情は、全て自分のものだったのに。
そして、オクジーの心を曇らせている案件がまたひとつ、あった。
――芸をさせてみろ。すぐにとは言わん。仕込むための日が必要だろう。
オーナーにそう言われたのだ。このプライドの高いバデーニを、人間などの前で芸をさせるなど。バデーニが、というよりもオクジーの気持ちが許さなかった。
「オクジー君」
バデーニは無邪気に水の中から手を差し出す。オクジーが身を屈めると、触れるだけのキスを何度も繰り返した。
こんなことをするのは、オクジーにだけだ。
だが、いつかオーナーが言い出すのではないかと戦々恐々としている。
――あの魚を、皆の慰み者にしてはどうだ?
そんなことを。
そんな日は遠くないような気がしていた。オーナーの要求は日々エスカレートしているのだから。
「バデーニさんは、辛くないですか?」
ぽつりと訊ねると、水槽の淵に肘をついたバデーニが、意地悪げに笑った。
「……辛い、と言わせたいのか?」
言わせたい。プライドを傷つけられて辛い、こんな所は早く逃げ出したい。どうか助けてくれ――。
そんな言葉を望んでいる。
だが、どうすれば良いのか。
「そんなつもりじゃ……ありません」
そう言って誤魔化した。オクジーにはなんの甲斐性もないのだから。
「嘘をつけ。木曜日の君は、いつもより元気がない。もっと正しく言えば、木曜日が近付くにつれて、どんどんくまが深くなる」
慌てて顔を覆った。気付かれていた。木曜日が近付くにつれ、どんどん眠れなくなることに。
「……嘘です。そんなつもりじゃない、なんて嘘です。俺は、バデーニさんが媚を売っている姿を見るのが嫌だ。他の人に媚を売って欲しくない。俺だけを見ていて欲しい。我儘だと分かっているんです。でも――」
バデーニの手が、オクジーの手首を掴む。
「そうしていちゃ、キスができないだろう」
「そうやって、俺の機嫌を取るんですか」
「機嫌を取って欲しいのか?」
「……欲しくありません」
「じゃあ、機嫌を取るためじゃないキスをしよう」
バデーニの手に誘われるようにして、顔の覆いを解く。
「オクジー君は、私が好きなんだな」
「……好きじゃなければ、こんなこと、しません」
海の味のするキスをして、緩く唇を開く。ぬるりと侵入した舌を絡め合い、唾液を混じらせ合う。
長いような、短いような――キスだった。唇を離して、バデーニは笑う。
「私もだ。こうして触れ合うなど、好きでないと気持ちが悪くてしたいとも思わない」
「……本当ですか」
「私が、嘘をつくとでも?」
「いいえ……」
オクジーの視界が揺らぐ。
「なんだ、オクジー君。悲しいのか?」
シャツの袖で乱暴に目元を拭う。
「嬉しいんです。バデーニさんも、俺のこと好きだって言ってくれたから……だから」
「だから泣くのか。人間は厄介な生き物だな」
嬉しそうに、バデーニは笑って言うのだった。
水曜日の夜。
バデーニは海藻を食べながら上機嫌だった。
「近頃、食事の質が良い」
「そうですか」
「なんだ、オクジー君。そんな覇気もない声では叱られてしまうぞ」
「そうですね」
先日、オーナーに訊ねたのだ。いつまでバデーニをこうして見世物にするのか、と。
――死ぬまでに決まっているだろうが。
当たり前だというように返された。
バデーニはそれを知らない。自分はいつか海に帰ることができると思っている。
「バデーニさんの住んでいた海は、どんなところなんですか?」
口にして、残酷な問いだと気付いた。もう二度と戻ることの出来ない海。そんなことを知らないバデーニは、嬉しそうに答える。
「いい場所だよ。私は、どうも仲間とはあまり反りが合わないのだけれど。海の生き物は皆、私たちに敬意を払ってくれる」
「そうですか……」
「いつかオクジー君も連れて行ってあげたいなあ」
しみじみと言った後、あ、と気付いたように目を瞬かせる。
「君には鰓がないんだった。それじゃあ駄目だな」
「ははは……そうですね。鰓がないと、呼吸ができない」
そんな楽しげな会話をしている時だった。裏で、大声が聞こえたのは。
「オクジー君、音が聞こえる。誰か来るぞ」
「オーナーですか?」
「足音が違う。もっと大勢で……」
それで、ぴんときた。
ここのところ、落ち着いていたけれど、オクジーが片足を突っ込んでいるこの裏社会というものは、他の組織を潰してのし上がるのだ。
「バデーニさん、逃げましょう」
「どうやって」
「どのくらい、息を止められますか」
「試したことがないから分からない」
ならば、懸命に走るだけだ。今から台車を用意してそこに水槽を置いて海水を入れて――など間に合わない。ステージの暗幕を引き千切り、水槽に満ちる海水に浸す。
「これに包まって下さい」
「どうして――」
「生きたかったら! 速く!」
オクジーがあまりに焦っていたからだろう。バデーニは速やかに言うことに従ってくれた。
ここから一番近い裏口までの経路を頭の中で線を引く。黒い布に包まれたバデーニを抱え、ステージを下りた。早足で、けれど怪しくないように。
バデーニもまた、緊急事態と察してくれたのだろう。黙っていてくれた。
「どこに行くんだ、オクジー」
「今日は早めに帰る」
「なに抱えてるんだ?」
「ちょっと、オーナーから頼まれて」
そして、裏口の扉を開ける。外の空気を吸って歩き出したオクジーがすれ違ったのは、オーナーとしのぎを削る組織の連中だった。
早足が、いつの間にか駆け足になっていた。人混みを避け、裏路地に面している年季の入ったアパートに駆け込んだ。階段を駆け上り――エレベーターがないのだ――ポケットに突っ込んである自室の鍵を取り出す。手が震えて、鍵穴に鍵が入らなかった。
落ち着け。
落ち着いて、鍵を開けろ。
深呼吸をしてようやく、鍵穴に入った。
鍵を捻ると、施錠が解かれる音がする。急いで扉を開けて、バスルームに駆け込んだ。
バスタブに水を勢いよく出し、その中にバデーニを包んだ暗幕を優しく浸す。だが、これは真水だ。海水でなければ。
キッチンに駆け込み、ありったけの塩を入れる。
「バデーニさん、大丈夫ですか」
バデーニは力なく手を持ち上げる。海水の濃度はどのくらいだったろう。
「塩、塩を買ってきますから!」
そう言って、部屋を飛び出した。鍵をかけ、近くのまだ開いている商店へと急ぐ。食品棚の隅に置かれた、ありったけの塩を買い込んだ。レジの中年女性が不審げにオクジーを見たが、そんなことには構っていられない。
会計を済ませ、塩を手にアパートへ戻る。
「塩、まだ要りますよね。入れますから、もうちょっと我慢して下さい」
バスタブから水が溢れていた。水を止め、今度は次から次に塩を入れる。まだだろうか。バデーニは大丈夫だろうか。そればかりを思いながら、買ってきた塩のほとんどをバスタブに注ぎ込んだ。
「そろそろ……大丈夫」
かすかな声でそう返ってきて、オクジーはようやく安堵の息をついた。
バスタブは狭いのだろう、バデーニは淵から脚の鰭を出していた。蛍光灯の中でも映える、美しい鰭。
「あの音はなんだったんだろうね」
「……よその組織が、うちのクラブに押し入ったんだと思います」
「よその組織? 押し入る? 仲が悪いのか?」
「そうですね。商売敵ですよ」
もしかすると、バデーニの噂を聞きつけて来たのかもしれない。それを彼に伝えるつもりはなかったけれど。バスタブの隣に腰を下ろす余裕ができた。
「君は仕事がなくなったのか?」
「まあ、恐らくそうでしょうね」
裏社会のクラブを襲撃した事件、果たしてニュースになるだろうか。いずれにせよ、命を落とした同僚は多いだろう。
そして、落ち着いてきてようやく大きな問題に気付く。
バデーニを、どうするか――だ。
海に帰すのが一番だ。
いつまでも、こんな狭いバスタブに入ってもらう訳にはいかない。
「海に、帰しますから」
意を決してそう言うと、バデーニはきょとんと目を瞬かせた。
「ありがたいが――海には、君がいない」
「それはそうですよ。俺は人間で、海で暮らすようにはできていません」
すると、バデーニは眉を寄せて不満気に口を曲げる。
「オクジー君がいないのは嫌だ」
「……そんなこと言わないでくださいよ、バデーニさん」
オクジーも、離れたくはないのだ。けれど、ここに置いておく訳にはいかない。
「私が、陸で暮らせないから駄目なのか?」
「それは――……」
そうだ、とは言えなかった。それを言ってしまうのは、あまりに残酷に思えて。
「私も人間ならよかった」
ぽつりと漏れ聞こえた呟きが、ざくりとオクジーの心に突き刺さる。
どうやってバデーニを海に帰そうか。そればかりを考えている。
バデーニは明らかに弱っていた。オクジーの前ではそんな素振りを見せないよう努めているようだけれど。
クラブ襲撃については、案の定報道されなかった。
その代わりに。
「すみません、オクジーさん……ですかね。ちょっと話を、良いですか」
髭面の刑事が訪ねてきた時は肝が冷えた。散らかっているんで、と追い返そうとしたが刑事は頑なで玄関先で構わないという。
「あのクラブに勤めていらっしゃいましたよね」
「ええ……まあ」
「まあ、あそこは違法ギリギリのところだったんで、あなたを逮捕する訳にはいかないんですけれど」
「そうですか」
ほっと安堵したのも束の間。
「どうしてあなたは、あの日逃げられたんです?」
刑事は的確に痛い所を突いてきた。
「その……体調が悪くて……」
「生き残った同僚が言うには、なにか抱えていたそうですが?」
この刑事、オクジーが手引きをしたと疑っているのか、容易には逃がしてくれない。
「もう辞めようと思って、クラブに置いていた私物を……纏めたんです」
「ほう。そうですか」
納得したような言葉を吐いたが、刑事は明らかに信じていなかった。
「それはいい、それはいい。長く勤める所じゃありませんからね」
「はい、そうでしょう」
「では、また。なにか引っかかることなどありましたらこちらへ」
そう言って、刑事は名刺を置いて去っていった。
急いで玄関扉を閉め、施錠する。渡された名刺は握り潰した。
今の会話はバデーニにも聞こえただろう。
「バデーニさん、安心して下さい。俺が――」
バスルームの扉を開けると、バスタブの中でバデーニはぐったりとしていた。
「刑事が……来たんだな」
懸命に笑顔を浮かべ、無事であることを伝えようとしている。
今日までバデーニをここに留めていたのは、オクジーのエゴでもあった。バデーニと離れたくないから。だから、ずっと真水と塩で海水もどきを作って誤魔化してきた。
けれど、それも限界だ。
「バデーニさん、海に返します」
「……どうやって?」
「車を借ります。荷台があるやつを。そこに、水をたっぷり貯めて、バデーニさんを乗せますよ。海までどのくらいで着くかな……。夜出れば、朝には着くでしょうから。だからどうか、あと少し我慢して下さい」
「我慢なんて……していない。君が、私のために……力を、尽くしてくれているのは……知っている……」
だから大丈夫だ、とでも言うように、バデーニはオクジーの頬を撫でる。
「キスを、して……」
「いくらでも」
バデーニが望むことなら、なんだってしてやる。オクジーはそう思いながらバデーニの唇に自分のそれを重ねるのだった。
バデーニはみるみる弱っていった。
オクジーハ天気予報とにらめっこをしながら決行日を考えている。雨の日が良い。交通量も少ないだろうから、スピードを出せる。
『明後日の予報は雨。予報では大雨になっており――』
テレビの気象予報士がそう告げた瞬間、思わずガッツポーズをした。急いでバスルームへ向かい、バデーニの手を取る。指と指の間に薄い膜のある、しなやかな手。
「バデーニさん。明後日の夜、海に連れて行きますよ」
「海……?」
「そうです。それで、住んでいた場所に帰れるでしょう?」
「……君は?」
「俺は――……」
仕事を失った。そして今度はバデーニと別れる。なにも残っていない、空っぽだ。
「近い内に仕事を見つけますよ」
「……そう」
バデーニは、クラブでの威風堂々とした態度はどこへ行ったのか。そんな弱々しい言葉で返事をした。
「私が人間か、君が人魚なら……一緒に居られたんだろうな……」
「はは。でも、人間と人魚だから出会えましたよ」
「そうか……そうだな……」
「車借りる手配とか、ビニルシートの用意とかしてきます。ちょっと留守にしますけど、鍵をかけておきますから」
だから、誰が来ても大丈夫だと告げ、オクジーはアパートの部屋を出た。
まずは車。小型のトラックがいい。レンタカーのショップで手続きをすると、なにを積むのかと訊ねられた。
「ちょっとしたものですよ」
「汚さないでくださいね」
そう言われ、はい、と適当な返事をしてショップを出た。明日から、二泊三日のレンタルだ。
次はスーパーでビニルシートを調達する。トラックの荷台に敷き詰めるものだ。そうすれば、多少なりとも水漏れは防げる。それと、大切な塩。それらをカゴに入れレジを通す。店員はガムを噛みながら会計を済ませてくれた。
大急ぎで部屋に戻る。施錠をして荷物を玄関先においてバスルームへと足を踏み入れた。
「バデーニさん、戻りました」
「お帰り、オクジー君」
ほほ笑みを浮かべたバデーニは、天使のようだった。たまらず、近寄って口付ける。
「……寂しかったですか、バデーニさん」
「ああ。寂しかった。君がいないと、どこに居ても寂しい」
どうしてそんなことを言うのだ。別れ難くなるではないか。
けれど、このままバスタブの中で窮屈に囲うのは弱らせる一方だ。そんなバデーニの姿は見たくない。
「大丈夫、すぐ思い出になりますよ」
元気付けるために言った一言だったが、バデーニは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「……したくないから、言っているんじゃないか。君は、私のことを簡単に思い出にするのか」
「――……」
すぐに答えられなかった。けれど、言わなければ。思い出に、しなければ。
「しますよ」
すると、バスタブの中の塩水をかけられる。
「もういい。はやく海に帰してくれ。君のことなんて忘れてやる」
「分かってます。……分かってますよ、バデーニさん」
バデーニの言葉がぐさぐさとオクジーの心に突き刺さるけれど。知らぬふりをした。傷付いているのは、お互いだろうから。
翌日、車を借りてきた。それから急いでオクジーは支度をする。荷台にビニルシートを敷き詰め、水が溢れないか確かめる。揺れればこぼれるだろうが、ある程度の深さのある荷台が付いた車を選んだから大丈夫だ。
塩を撒き、ちゃんと注水するのは――とはいっても、バケツで何往復もするのだが――明日の夕暮れから。
支度は整った。後はもう、運を天に任せるのみ。
だから、残された時間はバデーニと過ごしたかった。
「バデーニさん」
バスルームを覗くと、バデーニは不機嫌そうにバスタブの中で丸まっている。頭まで水に付けて。
「話、しませんか」
バスルームのタイルの上に腰を下ろし、バデーニの様子を伺う。少しして、バデーニが顔を上げた。
「……どうせ忘れるやつと話をして、なにが楽しいんだ」
「忘れませんよ」
思い出にするとは言ったが、忘れるとは言っていない。それはバデーニには屁理屈にしか聞こえないだろうけれど。
「バデーニさんを好きな気持を、簡単に忘れられる訳ないでしょう」
「だったら、離れてもいいのか? 私と離れても、君は平気なのか?」
「平気じゃありませんよ……。できるなら、ずっと一緒に過ごしたい」
「だったら――」
「でも、無理でしょう。このバスタブの中で、弱っていくあなたを見ているのは、俺が辛い」
「そんなこと……そんなこと……やってみないと分からない」
バデーニの目が潤む。思わずオクジーは目を逸らした。ぽつん、ぽつん、と水面に物が落ちる音がする。泣いているのだ、バデーニが。
「……分かりますよ。俺は、どこかの海でバデーニさんが元気にしてくれているだけで幸せなんです」
「私は――オクジー君が好きだ」
「俺もです。俺も。バデーニさんが好きです。できるなら、離したくない。この気持ち、分かって下さい」
このプライドの塊のような人魚を、いつから好きになったのだろう。気付けば、目が離せなくなっていた。オクジーの言葉に従って、客に媚びる姿を見るのが嫌だった。いつまでも、自分だけのバデーニでいてほしかった。
好きで、好きで好きでたまらない。
「……本当だな」
「本当ですとも」
「私は生涯、君だけを愛している」
「俺も。バデーニさん以上に想える相手なんて出てきませんよ」
バデーニに向き直り、唇を重ねる。いつもの、海の味のするキスは心地良くて、大好きだ。それと同時に切なくもなる。お互いの住む場所の違いを明らかにするからだ。
息を継いで、何度も口付けた。
ああ、このまま時間が止まってしまえば良い。今日のまま、明日にならなければ良い。そうすれば、こうしていつまでもバデーニと取り留めのない話ができるというのに。
終わりは、来るのだ。
唇を離したバデーニは、微笑んでいた。目元はまだ赤かったけれど。
「オクジー君。ありがとう」
「礼を言うのは俺の方です。ありがとうございます。バデーニさんのお陰で、本当に好きな相手に出会えました」
これまで惰性で生きてきて、裏社会に足を突っ込んだクラブで働いて。それももう、終わりだ。バデーニを無事に送り届けたら、真っ当な生き方をしよう。
「出発は、いつだ?」
「明日の夜です」
「だったら、今日は明け方まで一緒に過ごしてくれないか。なんでもいい。話をしよう」
「喜んで」
そうして。
空が白みはじめるまで、バスルームでの他愛ない会話をして過ごした。オクジーの幼い頃の話。バデーニの海での暮らし。それはもう、なににも代えがたい宝石のような時間だった。
決行の日になった。オクジーは午前中に仮眠を取り、昼から借りたトラックの荷台に水を運んだ。何往復しても水は溜まらず、隅から漏れてしまう始末で、その度に養生テープで補強した。
雲行きは次第にあやしくなり、雨が降り出す。荷台にも、大粒の雨が叩き付け始めた。
ここから海まで五十キロ弱。水が溢れないように気を付けなければならないが、バデーニの体力も気になる。人工的に作った塩水にしか浸っていないのだ。体力もすっかり落ちているだろうから。
日が暮れて、すっかり水を貯め終えた荷台にバデーニを運ぶ。
「すみません、少し苦しいでしょうが」
そう断りをいれると、バデーニは「なんてことはない」と笑った。バデーニの、決して軽いとは言えない身体を抱え上げ、荷台に作った即席の水槽に入れる。
不安そうにするバデーニに、オクジーは笑顔を作って言った。
「大丈夫ですよ」
「そうじゃない」
「でも、不安そうな顔……」
「……君と話せない」
ああ、だから。思わず微笑ましくなって、作ったものでない笑顔になる。
「産みに着いたら、また話をしましょう」
「本当だな」
「本当ですとも」
約束をして、荷台にビニルシートを掛ける。そうしてオクジーは運転席に乗り込んだ。エンジンをかけると、車が揺れる。
海まで、最短ルートを取るべきか。それとも遠回りをして人気のない道を行くべきか。最後まで答えが出なかった。悪い癖だ。答えを先延ばしにして。
結局、最短のルートを取ることに決めた。荷台はビニルシートで覆ってある。水は少しずつでも漏れているだろうが、雨だから気にされないだろう。
大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせて、大通りを急ぐ。制限速度はオーバーしていただろう。それでも、バデーニの無事の方が大切だ。
景色は次第にビル群から外れ、家は点々としてきた。
「バデーニさん! もうすぐ海ですよ!」
荷台のバデーニに聞こえるように、声を張る。
辿り着いたのは、入り江。大急ぎで運転席から降り、荷台のビニルシートを剥ぐ。半分ほどに減っていた水の中で、バデーニは弱りきっていた。
「バデーニさん! バデーニさん!」
頬を軽く叩いたが、意識は戻らない。ありったけの力で抱え上げ、入り江へと急ぐ。岩場で傷付かないよう気を付けながら、海の中に戻す。
バデーニの身体は沈んだ。どうか、無事でありますよう。ひたすらにオクジーは神に祈った。沈んで――しばらくして。
「ぷはっ!」
水面から顔を出したのは、紛うことなきバデーニの姿。
「オクジー君、君は凄いな!」
満面の笑みで、そう褒めてくれる。
「……よかった……バデーニさんが、無事で……」
「私がそう簡単に死ぬものか」
先ほどまで、死の瀬戸際にいた人魚は、自信満々に言う。
「そうですね。本当に……」
「泣いているのか? オクジー君」
気付けば、涙が溢れていた。拭おうとすると、バデーニが手を伸ばす。身を乗り出すと、涙を唇で舐め取られる。
「海水より甘いな、君の涙は」
そう言って、バデーニは笑った。
言葉を交わしたのは、少し。互いに愛を囁くばかりだった。
離れ難いけれど、離れなければならない。
空が白みはじめる頃、バデーニは海の底へと帰っていったのだった。
車を返却する時に、荷台になにを積んだのかとネチネチと嫌味を言われた。
まさか人魚を積んでいたとは思うまい。いやあ、ちょっと、とのらりくらりと返し、事なきを得た。
部屋に帰ると、静かだった。バスルームを覗いてみたが、当然ながらバデーニの姿はなかった。
仕事も失って、そのうち家賃も払えなくなる。どうしようかと考えながら、バデーニの残り香を消していった。
大量に余った塩は同じアパートの住人にお裾分けした。
バスルームのタイルを掃除したが、バスタブの水は中々抜く勇気が出なかった。これを抜いてしまえば、バデーニとの縁が完全になくなってしまう気がして。
それでも、いつまでも放っておく訳にもいかない。意を決してバスタブの中を覗いた。
「……?」
底に、きらきらと光るものが敷き詰められている。
一粒取り上げてみると――それは、真珠だった。
「……人魚の、涙」
人魚の涙は真珠になるという。オクジーのいない所で、バデーニは涙を流したのだろう。それが、こんな大量の真珠になっている。
やはり、バデーニが好きで、好きで。
離れているこの数日は空虚で。
できるなら、あの美しい鰭をもう一度見たくて。
たまらず、オクジーは底にたまった真珠をさらう。それを袋に詰めて、宝石の買い取り商へと急いだ。
「これはこれは、立派な真珠だ」
「これで、小さな家を買えるだけの金になりませんか」
「そこまでお出しはできませんが――」
そう言って、宝石商は電卓を叩く。
「このお値段で、どうでしょう」
提示されたのは、オクジーが手にしたことのない金額だった。
「よ――喜んで!」
現金でその金額を受け取り、部屋に戻る。家具一式を売り払えば、多少の金になるだろうか。急いで買取業者を呼び、部屋中をすっからかんにした。
今欲しいのは、バデーニの声。バデーニの笑顔。バデーニの存在なのだ。
急遽出来た金を持ち、彼を逃がした海へと向かう。
オクジーはただ、小屋が欲しかった。寝て起きて、雨風を凌げるだけの建物が。
地主に直談判し、手持ちの金で譲ろうと言われたのは、あばら家。それでもよかった。修理はオクジーがすればいいのだから。
仕事は考えていなかったが、どうにかなるだろう。しばらくは――バデーニに会うまでは、入り江で釣りをしていよう。
そう決めて、新しい暮らしを始めた。
何年でも、何十年でも待つつもりだったのに。
翌日。
釣り竿を垂らしているオクジーの名を呼ぶ声があった。
「思いの外、早かったな」
「バ……バデーニさん……!」
水面から顔を出しているのは、紛うことなきバデーニ。
「ど……どうして――」
「君なら、あの真珠を売ってここに移り住むだろうと思ったんだ」
ああ、読まれていたのか。全て。
「お陰で、小屋が買えましたよ」
「それはよかった。金に困ったら、君のためならいつでも泣こう」
「は――働きます!」
「あはは。律儀だなあ。だから好きなんだけれど」
そう言って、バデーニは両手を伸ばす。オクジーもそれに応じて――久しぶりの、再会のキスをするのだった。