卒業後アリスとアキが世界中を巡るだけのお話 待ち望んだチャイムの音に、張り詰めていた緊張が切れる。
ぐでんと力無く机に突っ伏したぼくは、息も絶え絶えに呟いた。
「あぁ、えらい目に遭った……」
──どうしてホグワーツを卒業したはずのぼくが、夏季休暇中のホグワーツで、誰もいない教室の中、たった一人机に向かっているのかと問われれば。
事のはじめは、一月ほど前に遡る。
「そう言えばアキくん。いもり試験の再試はいつ受けますか?」
我らが恩師、フィリナス・フリットウィック先生から、そんな言葉をにこやかに投げかけられたのは、もう夏本番、外では耐えがたいほどの暑さが猛威を振るっている八月のことだった。
ホグワーツの戦いから三ヶ月。ヴォルデモートの脅威も消え、世間はすっかり元の落ち着きを取り戻した。
ぼくの切り落としてしまった利き腕も晴れて義手を取り付けることになり、あーあー手術やだなぁ麻酔が怖いんだよなぁと、病室のベッドでアリス相手に管を巻いていたそんな折、お見舞いに来てくださったフリットウィック先生は、ぼくがとっくの昔に記憶の彼方へとすっ飛ばしていた「いもり試験」の単語を、休みで惚けてぐずぐずになっていたぼくの脳みそに叩きつけてくださったのだった。
「い……いもり試験ですか……?あの……?」
「はい。あの『めちゃくちゃ疲れる魔法テスト』、通称『いもり試験』です。本当は7年生の6月に受けるものなんですけど、ほら、アキくん、入院してたじゃないですか。流石に先生も、入院している生徒に無理なんて言いませんよ」
「いやまだぼく入院してるんですけどっ!?」
そういやこの前受けたなぁと、アリスは腕を組みつつ頷いている。
嘘マジで、いつの間に? 気付かなかったんだけどと言えば「だってお前、腕切ったりとかで色々大変だったじゃん」と返ってきた。
……なるほど、あの頃か。
「いや、その、待ってください……えぇ……?」
ぼくは無事な右手で顔を覆う。
……試験勉強? そんなものしているわけがない。
今は体力も戻ってきたものの、腕を切り落とした直後はそれなりに体調がジェットコースターだったのだ。読書くらいならともかく、根を詰めての試験勉強などもっての他だった。雨のせいで寝込むなど、幣原時代を含めても生まれて初めての経験だった。
「えぇ、だから、アキくんが退院したらすぐに試験が受けられるよう、先生が取り計らっておきましたからね。どうです、私って優しいでしょう?」
「本当に優しい人はそんなこと言いません!」
喚くぼくに、フリットウィック先生はむぅっと口を尖らせた。
「全く、往生際が悪いんですから……何をおっしゃる。言っておきますが私、いもり試験すら受けなかった人に呪文学教授の席を譲り渡す気は一切ありませんよ。本来ならば再試もないところを、私やミネルバが無理を言って試験管理委員会にお願いしたんですからね」
「……せめて、ハーマイオニーやジニーと一緒に来年受験する形で良かったんですけど……? 今年じゃないとダメですか?」
「その場合は留年という形で、もう一年分学費を振り込んでいただくことになりますが、それでも宜しいですか?」
「……よろしくないですね……」
ガックリとため息をつく。
……なんてことだ、まさかそんなダークホースが潜んでいたなんて。義手の手術が終わった後は身体を押して勉強だなぁ……と思っていた矢先、ぼくは最も大事なことを思い出した。
「ちょっと待ってください、ぼく今までの杖壊しちゃったから新しいのを買わないとだし、それに今から義手を嵌める手術をするんですよ!? 利き腕なくなっちゃってるわけで、しかも義手だって、まともに動くようになるまで半年は掛かるとライ先輩に言わしめたわけで、そんな手じゃ羽根ペンなんて持てないし筆記試験だって厳しいし、それに……」
「アキくん」
厳しい声に思わず背筋が伸びた。
フリットウィック先生はぼくの目をじっと見つめている。真面目な表情に、ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。
「いいですか。君は魔法使いなわけです」
「……はい」
「魔法使いとは、魔法を使うことができる人です」
「は……はい」
「ホグワーツ魔法魔術学校は、魔法使いや魔女が是非とも学びたいと憧れる名門校なわけです」
「えぇと……はい」
「首席のアキ・ポッターくんは、そう、言い換えればそんなホグワーツの頂点に君臨していたわけです」
「は? ……はい」
「またアキくんは類い稀なる才能の持ち主です。私は呪文学において君以上に優秀な生徒を見たことがありません」
「いやいや、そんなぁ……はい」
「さて、アキくん。私の言いたいこと、分かりましたか?」
「いえ、何も分かりません」
ぼくの返事に、フリットウィック先生は失望しましたとばかりにため息をついた。
いや、今ので何を分かれと言うのさ?
簡単なことじゃないですか、としょんぼりしながらフリットウィック先生は言った。
「アキくんはただ、魔法を使って羽根ペンを動かし、答案用紙に文字を書き入れればいいだけでしょう? ほんの十二時間ほど、ぶっ続けで、精密に魔法を使い続ければいいだけの話じゃありませんか」
フリットウィック先生の言葉に、ぼくは呆然と固まってしまった。ぼくとフリットウィック先生の話を傍で黙って聞いていたアリスは、とうとう耐え切れなくなったように肩を震わせている。
その時病室の扉が開いて、病院の先生方が入ってきた。ライ先輩までが珍しく苦笑を浮かべている。なんだい随分と無邪気な表情で笑うじゃないですか。
手術を担当する先生方の紹介を受けた後、ぼくはあれよあれよという間にストレッチャーに乗せられた。そこでやっと我に返る。
「じ、十二時間もの間魔法をぶっ通しで!? 試験に加え、あんなちっちゃい解答欄に文字を書くために魔法を精密に使えって!? 正気じゃない、そんなの闇祓い試験でも出さないような難易度ですよ!?」
「おや、かつて合格したじゃないですか」
「それはぼくじゃなくて幣原だけどな! えっ、マジで言ってます? ちょっと、ねぇ!?」
ストレッチャーから身を乗り出そうとした途端、身体を押さえられて口元に呼吸器を当てがわれた。数呼吸のうちに意識が落ちる。
意識が消える寸前までいもり試験のことで頭がいっぱいだったせいで、手術中の夢見は最悪だった。
…
……
………
そして、冒頭に相成る。
……ひとまず、答案は埋め切った。成績は……どうだろ、分かんない。フリットウィック先生には「首席たるもの、無様な成績なんて取らないですよね?」と滅茶苦茶煽られたものの、はてさてどうだろうか。一応は『二度目』のいもり試験だったわけで、前回の──つまり、幣原秋の時よりは、良い点数が取れていたら嬉しいんだけどな。
あぁ、それにしてもぐったりと疲れた。頭も身体もくたくただ。指先すら動かせないほどのじっとりとした疲れが身を包む。瞬きすらも億劫だが、かと言って眠気は来る気配すらない。過集中の余波でハイになっている気がする。
「よぉ、お疲れ。生きてるか?」
その時、そんな声が上から降ってきた。ぼくは緩慢に瞼を上げ、声の主であるアリス・フィスナーを見遣る。
もうホグワーツを卒業した身だからか、今日のアリスは私服だった。でも半袖のラフな黒Tシャツにビンテージ物のダメージジーンズは、いくら卒業生だとしても学校に着ていく服装としては如何なものか。
ちなみにぼくの今日の格好は、制服としていつも纏っていた白のワイシャツに黒のズボンと、所属寮を示すネクタイを外した以外は、ホグワーツに通っていた頃から何ら変わり映えのしないものだ。……いや、ずっと入院していたものだから、服を買いに行く暇がなかったんだってば!
アリスは「ほらよ」とぼくに飲み物が入ったプラスチックのカップを差し出してくる。重たい頭をなんとか上げ、刺さっていたストローを咥えれば、その中身はアイスティーのようだった。ガムシロの甘みが疲れた脳みそに染み渡る……味の好みを完全に把握されているのはご愛嬌だ。伊達に七年間もの間、ずっと一緒にいたわけではない。
ぼくの前方の座席を引いて腰掛けたアリスは、疲労困憊なぼくの顔を面白がるように眺めている。
「魔法関連でお前がそんなにへばるなんてなぁ。そんなにヤベェのか?」
「君もやってみれば分かるさ。フリットウィック先生は鬼だね、間違いない」
特に、試験の途中で「ん?これ自動速記羽根ペンを用意してれば良かったんじゃね?」と気付いてしまってからは余計に疲労感が増した気がする。せめてあと半日早く思いついていればやりようもあっただろうに。
「アリスの方の用事は終わったの?なんか、フィスナーのお仕事があるって言ってたような記憶が微かにあるんだけど」
怒涛の試験のせいで、試験前の記憶が曖昧なのだが、そんなことを話していたような気がする。
あぁ、とアリスは頷いた。
「一旦はな。ほら、新年度で校長が変わるだろ?ホグワーツは《中立不可侵》の管轄だから、代替わりの儀式をしないといけなくってさ」
そう、セブルス・スネイプ校長時代はたった一年で終わりを告げた。儚い栄華だったなぁ。次の校長は順当にマクゴナガル先生となる。スネイプ教授は魔法薬学教授に戻ることもなく、そのまま優雅な隠居生活に入るのだと聞いた。早期リタイアってやつだね。
どうも世間の一部では、教授はホグワーツの戦いで死んだものだと思われているらしい。「馬鹿共にそう思わせておけばいらん苦労も減るだろう」とせせら笑っていた。
本当に辞めて良かったのかと尋ねたところ「私が教師に向いていたなどと、貴様、本当に思っていたのか?」と逆に問い返された。うーん、そう訊かれるとねぇ。まぁ間違いなく向いてはいなかったよねぇ。
「私を教職に縛り付けていたのはダンブルドアだ。そのダンブルドアもいない今、ホグワーツ魔法薬学教授などという席に興味など微塵もない」
だから貴様ももう『教授』なんて呼び名で呼びかけるんじゃないと、つれなくあしらわれてしまった。めげずにこれからも『教授』呼びを続けようと決心した瞬間だった。
「ところで……ねぇアリス、まさかその格好で儀式をしたとか言わないよねぇ……?」
恐る恐る尋ねたところ、アリスは「何を纏うかなんて重要じゃねぇ、大事なのは『心』だろ」などと嘯いた。何馬鹿なこと言ってんだコイツ。
もうコイツに服装云々を言うのは諦めているものの、Tシャツにダメージジーンズはさすがにアウトだろ。儀式に同席していたであろうマクゴナガル先生の頭痛を察するに余りある。気の毒なことだ。クールビズにも程がある。せっかく何を着ても似合う容姿なのに、本当に勿体ない。暑いのは分かるけどさ。
アリスは面倒そうに眉を寄せた。
「儀式に服装が関係あんだったら俺も着るがよ、ンな決まりなんてねぇんだしさ。ラクな格好でいいだろ」
「でもぼくはアリスの儀式服姿も割と見たかったよ。アリスが着ると服が映えるからね」
ぼくの言葉に、アリスはびっくりした顔で目を瞬かせた。「お、おう」と頷き頬を掻いている。アリスは案外直球の褒めに弱いところがある。ニヤニヤしていたところ、ぐにっと頬をつねられた。痛い痛い。
ハァァとクソデカため息と共にぼくの頬から手を離したアリスは、持っていたカバンから一枚の紙を取り出した。次いで羽根ペンとインク壺も。何をする気かとぼくは緩慢に視線を向ける。
グリンゴッツの紋章が入った細長の紙だ。小切手だろうか?でも、一体何を?
アリスは羽根ペンでサラサラと記名をした後、顔を上げてぼくを見る。
「アキ。先の戦いでホグワーツを守ってくれたこと、心から感謝する。これはフィスナーからの心ばかりの礼だ」
「礼……?そんな、律儀だな……」
「いいから受け取れよ。正当な報酬だろ。お前が受け取らないと天秤が傾きっぱなしなんだよ。正しい功績には正しい褒賞で報いるもんだ」
む。正しさを引き合いに出されると弱いな。レイブンクロー生の性質として、釣り合いは取らねばならないという価値観がある。
……仕方ない。最近は割と物入りではあったし、正直言ってこの収入はかなり助かるのだ。具体的には、ハリーの逃亡中の資金と就職準備、それにぼくの伸びた入院期間分の費用で、ぼくらポッター家のグリンゴッツの金庫は底を尽きそうなのである。正当な報酬だと言うのであれば、ぼくの方もちゃんと受け取ろうじゃないか。
「スネイプ教授にも小切手を?」
「あぁ。そっちは親父がな」
言いながら、アリスは相変わらずの綺麗な字で金額を記していく。いち、じゅう、ひゃく、せん。単位はガリオンが最初から印字されていた。
……1000ガリオン。ハリーがトライウィザードトーナメントの賞金でもらったのが確かその額だった。まぁそのくらいかなと思った瞬間、アリスは更に数字の右隣にゼロを書き入れた。
……い、おぉ、一万ガリオン……幣原の二年目の年収が、確かそのくらいだったっけな? 研修が終わって実戦にぶち込まれた直後あたりから給料が跳ね上がったのだ。それと同額……ひぇ。
「あ、あの、アリスさん、そいつは少々……」
「…………」
「違っ、金額に不満があったわけじゃなくって! 更にゼロを書き足すやつがあるかよバカじゃないのぉ!?!?」
十万ガリオン!? 日本円で換算すりゃあ、ポンドの具合で下手すりゃ億行く値段だぞ!?!?
更にアリスが頭の「1」を「4」に書き換えようとするので、半ば奪い取るようにストップを掛けた。半泣きでぼくも署名を記す。底を尽きかけていた金庫が、あっという間にいっぱいになってしまった……。
ガリオン金貨が十万枚か。……入るだろうか。魔法界が紙の通貨を使い始めるのはいつになるのだろう。
アリスは心底からの呆れ顔を浮かべている。
「あのなぁ、お前こそ勘定できてねぇんじゃないのか? 今回ホグワーツの戦いにおけるホグワーツ側の犠牲はゼロ。人の命に値が付けられるもんじゃねぇが、お前がいなけりゃ死人がゴロゴロ出ていたのは事実なんだ。これが《中立不可侵》と世間が出した真っ当な評価だ、分かったかよ」
「ひゃい……」
しょんぼりしながら頷く。
小切手に書かれた額面を見ていると、なんだか変な汗が出てきた。高額宝くじが当たった時のような気分だ。そんなもの当たったことがないので妄想だけど。
あぁ、でも、これだけあったら何ができるだろう。ハリーとぼくが二人で住む用に、新生活のための家は借りたものの、家賃を切り詰めたのであちこち古びてガタが来ている。それらを全部修理して、家具だって買い揃えて……それでも全然使い切れない額なのだ。
ぼくが頭を楽しい妄想に浸していた時、アリスはぐいっとぼくの方に身を乗り出してニヤッと笑った。
「お前、楽しいこと考えてるな?」
そりゃ楽しいさ。皮算用こそ楽しいものはないだろう?
「じゃあその『楽しい予定』に、俺も一枚噛ませろ」
「──行くぞ、世界旅行!」
アリスは、まるで子供のようにキラキラと目を輝かせたまま、弾む口調でぼくに笑いかけたのだった。
(プロローグ Fin.)