機構の隙間から(サンプル) 時刻は深夜二時過ぎ。昼間ならば明るく賑やかな通りも、この時間は月明かりと路上に等間隔に並ぶ街灯のみとなる。人だけでなく、建物も眠ってしまっているかのような静けさだ。この世に自分一人だけなんじゃないか、という孤独感に陥りそうになる。
僕が働かせてもらっているブラックニードルは、刺青スタジオ兼バーだ。そのため営業時間は夕方から朝方まで。僕の勤務時間も夕方から深夜辺りとなっている。店の周辺であれば、ミズキさんのお店同様の深夜営業の店のネオンや人通りもあって、賑やかすぎるほど。けれど、家に近付いていくうちに、その賑やかさは姿を消して行ってしまう。だいぶ慣れてきたと言っても、この置いて行かれるような帰り道は少しだけ寂しかった。
「蒼葉さんも、眠っているんでしょうか」
寂しさを紛らわすために呟いたが、それは辺りの静寂に飲み込まれてしまい、孤独を露わにしただけだった。
「ただいま戻りました」
物音を立てないように、コソコソと玄関を開ける。きっともう寝ているであろうおタエさんと蒼葉さんを起こさないように細心の注意を払う。そんな気にしなくていい、とお二人は言ってくださるけれど、睡眠の邪魔になるようなことはしたくなかった。
玄関から伸びる廊下には、居間の温かな明かりが差し込んでいて、不思議と先ほどまでの寂しさが拭われたような気がした。居間に人がいる気配はないけれど、僕が帰ってくるから明かりは点けたままにしてくれている。
居間を覗いてみると、ラップがかけられた料理がテーブルに置かれていた。どうやら今日のメインは肉じゃがだったみたいだ。他のおかずは一人で食べるには量が多いけど、肉じゃがだけきっちり一人分の量だ。肉じゃがは蒼葉さんの大好物だから、きっといっぱい食べたんだろう。蒼葉さんが美味しそうに食べる姿が頭に過ぎり、思わず顔が緩んだ。それと同時に少しばかりの寂しさが再びやってくる。
この頃僕を悩ませている悩み。まだ蒼葉さんに言えずにいることだ。
しばらくその場で立ちすくんでいれば、不自然に床が軋む音がした。
誰かが近付いている。
顔を上げ、反射的に音がした方向を振り向いた。
居間に入るドアの手前。そこにいたのは
「おかえり、クリア」
蒼葉さんだった。
***
玄関が開く音がした。
枕元に置いたコイルを起動して確認すると、時刻は深夜二時半。クリアからは「先に眠っていてください!」と言われてあるが、どうにも眠りが浅くなってしまう。クリアが細心の注意を払って物音を立てないようにしていても、起きてしまうほどに。
それに眠りが浅いのは、ここ最近クリアの様子がおかしいのが気になっているせいもある。食べる量も少ないし、どこかぼんやりしている。気にしないほどではあるが、そんな些細な違和感が日々積み重なっていた。尚更ちゃんと無事に帰ってきたのか気になってしまい、俺は様子を見に行くことに決めた。
枕元で丸くなっている蓮はそのままで、ゆっくりベッドから降りる。二階の足音は意外と階下に響くから、婆ちゃんを起こさないように、そっと。
階段を降りてる途中で、明かりをつけっぱにしていた居間から、クリアのものだと思わしき影が伸びているのが見えた。
居間を覗くと、テーブルの前でクリアがこちらに背を向けて立っていた。無事に帰ってきたんだ、という実感に息を吐くと、徐々に沸き立ってくる悪戯心。
ゆっくり近づこうと足を一歩二歩前へ出す。このまま気付かれないように近付いて飛びつこうとしたら、踏んだ床が軋んでしまった。
ドッキリ失敗だ。
存外早く目論見が外れて、先程までの悪戯心があっという間に霧散してしまった。諦めた俺は、音に気付いて振り返ったクリアに向けて「おかえり」と声をかけた。
するとクリアは大きく目を見開いて、
「うわぁ!! 蒼葉さっ!?」
大きな反応を見せた。
深夜のこの時間帯。万が一にも婆ちゃんの怒声が響いたら、近所迷惑どころではすまない。
俺は慌てて駆け寄って、クリアの口を塞いだ。
「き、気付いてたんじゃないのかよ!」
「すいまふぇん……。まさか蒼葉さん起きていらっしゃるとは……」
俺の掌の下でクリアがもごもごと答える。そもそも驚かそうとした俺が悪いけれども。
「つーか、俺以外だったら逆に怖いだろ」
婆ちゃんの怒鳴り声が聞こえてこないことに安心し、クリアから手を離した。
「とりあえず、おかえり。クリア」
「はい、ただいまです。蒼葉さん」
クリアの緩んだ笑顔を見て、強張っていた肩の力が抜ける。
「今から夕飯……といっても夜食か」
「……はい」
テーブルにラップをかけておいた夕飯の残りを見やって聞けば、クリアの反応がどうも怪しい。
「どっか調子でも悪いのか?」
「そういう訳では、ないのですが……」
最近のクリアの違和感を思い出し、不信感が募る。
以前よりもマシになったとはいえ、クリアは元々心配かけさせまい、と弱った部分を隠したがる。
無理にでも聞き出すべきか悩んでいると、クリアが口を開いた。
「もし……良かったら蒼葉さんも、一緒に食べませんか?」
「え、俺も?」
思ってもみなかった言葉に間抜けな声を出してしまった。しかも、タイミングを計ったかのように俺の腹が大袈裟な音をたてた。考えてみれば、今日の夕飯は十七時ごろ。いつもより早い時間に食べたことを思い出す。小腹が減るには丁度いい時間だ。
クリアの方を見やれば、期待に満ちた目と目があってしまった。
……仕方がない。
「じゃあ、俺もいただきます」
「はい! 是非」
その答えを待っていたかのように、クリアの表情がまたまた明るくなった。先ほどまでの怪しい反応は、俺を誘うか否かの悩みだったのだろうか。
どちらにせよ、身体に不調がでていたわけではなさそうだ。多少安心したけれど、未だに拭いきれぬ不信感を抱えたまま俺は食卓に座る準備を始めた。
炊飯器の中は、クリアの分をよそってもまだ半合ほど残っている。明日の朝飯に混ぜるか冷凍して後日炒飯にでもすれば良さそうだ。
お茶を用意し、食器の準備をし、各々支度を終えて椅子に座れば、深夜なのにすっかりいつもの夕食の光景と重なる。
「そんじゃ、だいぶ遅いけど」
「「いただきます」」
揃えて手を合わせた後、俺は多めに残っているキノコとピーマンの炒め物に箸を伸ばした。つい肉じゃがを食べ過ぎてしまって、他をあまり食べれていなかったからちょうど良い。婆ちゃんの飯は冷めてても美味いし、この時間に食べる背徳感が飯をさらに美味くする。
空腹に促されるまま、黙々と箸を進めていると、正面に座るクリアから再び違和感を感じた。
「……食べないのか?」
クリアが箸を持ったまま、俯いていた。
皿によそった形跡もない。
俺の問いかけにクリアは僅かに反応を見せた。
「蒼葉さんは……僕が食事をすることに、どう思いますか?」
視線は合わない。俯いたまま、クリアは食卓に並んだ料理を眺めていた。
「食事は、生物にとっては生きるために必要不可欠です。何かを食べ、何かに食べられ、そうやって循環しているのだと知っています」
ポツポツと降り始めたばかりの雨のように、言葉がクリアの口から溢れていく。
「その循環の中に僕はいません。僕がする食事は人間社会に溶け込む手段にしかなり得ないんです。その事実を考えた時、こうして僕が食事をすることが、なんだか、おかしなことのように思えてしまって……」
そこから先は続かなかった。
話そうとして、クリアの口が何度か動くが、声に出すことはなかった。
今思い返せば、ここ最近のクリアは飯を食う時になると、どうにもよそよそしかったのを思い出した。きっと、クリアのことだからずっと一人で悩んでいたのだろう。
自身が食事をする意味について。
「……クリアは俺や婆ちゃんと飯食うのは嫌いか?」
「そ、そんなことはないです!」
クリアは首が取れるんじゃないかってぐらい左右に振って、俺の言葉を即座に否定した。
なら、きっと俺の答えは間違っていないはずだ。
「俺はクリアと飯食うの好きだよ」
「え?」
「それで、いいんじゃないか?」
確かに、生きるために食事は必要不可欠だ。だからといって、クリアが食事は必要ない、ということにはならない。生きるために必要じゃなくとも、誰かと食べることに意味があったりするのだ。
「僕は……蒼葉さんと食事をすると、いつもより美味しく感じるんです」
クリアは視線は食台に落としたまま。でも、何かを答え合わせをするように呟いた。それは、俺に向かって言っているようで、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「僕はこれからも蒼葉さん達と食事してもいいんでしょうか?」
「あぁ、勿論」
俺のしっかりした返事を聞いて、クリアはいつものように笑った。その笑顔はいつもの向日葵のような明るさで、俺は安心してクリアと共に夜食を平らげたのだ。