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    sonidori777

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    鏡の前で儀式をする会社員

    ナオちゃんちの黒い犬深夜二時。
    ぼくは大きな花瓶に一輪のばらを生け、鏡の前に立って深呼吸をした。
    頭の中にしっかりと鏡に望むものを思い浮かべる。高校生のころ隣の家のナオちゃんが飼っていた大きな黒い犬、ハナ。
    ふさふさの黒い毛、どこまでも深い闇のようなのに優しい目、ぼくにじゃれつくときの重さ、あたたかさ。まるで目の前にいるかのように思い出せる。よし。
    ぼくはまっすぐと鏡を見る。
    鏡の中には暗闇の中、バラをもつぼくだけが映っている。

    その儀式をやろうと思い立ったのは、定時を5分ほど過ぎた夕暮れのオフィスだった。
    同僚はあわただしく帰っていき、ぼくもとりあえずあと一件メールを返してから帰ろうと定時内にきた最後の新着メールを開いた。
    内容は当たり障りのない取引先からの訂正依頼だったが、送り主の名前にある「花」の字をみた途端、子供のころの思い出が鮮やかに脳を駆け巡った。
    ぼくの腕をひっぱってぐいぐいと夏空の下をかけていく黒い犬。
    水をあびて大喜びでぼくにじゃれつく黒い犬。
    なんで今まで忘れていたのかわからないほど、ぼくには可愛がっていた犬がいた。そうだ、名前はハナ。
    やわらかい毛を撫でた時の感触が手のひらに蘇ってくる。ぼくはあの犬が欲しかったけれど、ハナはぼくの犬ではなく、隣に住んでいた同級生のナオちゃんの飼い犬だった。
    子供のころに愛した犬のことを思うと、今まで忘れていたくせに、猛烈にハナを抱きしめたくなった。ハナが欲しい。でもたぶん、生きていたとしてもナオちゃんが手放すはずがない。
    ぼくの心の中は子供に返ったかのような、急に芽生えた強烈な執着と独占欲であふれかえっていて、気が付けばメールを返すのも忘れ、ブラウザに「ほしいものを手に入れる方法」と打ち込んでいた。
    本当に子供っぽくて笑われるかもしれないが、その時に出てきた「儀式」をぼくは真に受け、おまじないに本気になる小学生のように真夜中の鏡の前に立っている。

    儀式の方法は簡単だ。月の光を十分に浴びせた大きな赤いばらをできるだけ大きな花瓶に入れる。そして深夜二時。自分の全身が映る鏡の前に立ち、ほしいものを思い浮かべながらそのばらの花弁を何も言わずに食べきる。
    そのとき、鏡に望むものが映っていれば儀式は成功。一週間以内にその望んだものが手に入るという。
    頭の片隅ではばかばかしいと思う一方で、現実のぼくは一生懸命ひたすらにハナを思い浮かべている。
    今目の前に、あの夏一緒に駆け回ったハナがいる。
    太陽を浴びて、いいにおいがして、一緒にくさむらで転がりまわった大きな犬。
    ばらの花弁を一枚ちぎって口に入れる。
    苦味が口に広がるが、頭の中のハナのかたちが明確になっていく。
    クラスメイトと揉めて落ち込んだぼくに、何も言わず頭を寄せてくれたときのぬくもり。もう一枚。さらに一枚。
    口の中でばらを噛みしめる度、ぼくの腕の中にいるハナが現実味を帯びていく。
    相変わらず鏡の中はまっくらでぼくひとりがその中に浮いていたが、ぼくは構わず最後の一枚を口に入れた。
    その瞬間だった。ぼくの名前を呼ぶ声が頭に響き渡り、ぼくのハナの思い出が一瞬誰かに上書きされた。
    ぼくは口を動かすのをやめて鏡の中を覗き込む。
    鏡の中に、ナオちゃんがいるのが見えた。ばらが喉を落ちていく。

    朝陽がぼくの顔を照らしていて、妙な不快感とともに目が覚めた。
    うめきながら横を見ると、倒れた花瓶と茎だけのばらが床に散らばって、仲良くぼくと水に浸かっている。
    起き抜けのぼんやりする頭で、とりあえず会社はまだ間に合うかと恐る恐るスマホを確認する。
    今日は2月7日。花緒が死んだ日。
    「ナオちゃんが死んだ日」
    口に出して言ってみて、ようやく本当のことを思い出す。
    そうだった。本当は黒い犬なんていなくて、ぼくが欲しかったのは、忘れていたのは。
    あの夏空の下を一緒に駆け回ったのは、ナオちゃんちのハナではなくてナオちゃん本人だ。
    伸びた背も忘れて子供のころのようにじゃれついてぼくを潰してきたのはナオちゃんだった。
    ナオちゃんの黒い髪がぼくの指の間をするりと抜けていく感触も、ナオちゃんがぼくに身体をすりよせたときのぬくもりも、ナオちゃんがいなくなったときの冷たさも、それから徐々にぼくのなかから消していった寂しさも、思い出してしまえば全部がぼくの中に戻っていく。
    今のぼくならきっとナオちゃんの死を受け止められる。
    でも、そういうのが欲しかったわけじゃない。どうせなら、ナオちゃんにまた会いたかった。
    水が染み込んだ冷たいシャツで、目をごしごしとこする。
    儀式なんてしょせんはお遊びに過ぎない。鏡の中に映ったナオちゃんもきっと、ぼくがみた夢なんだろう。
    そうは思いつつ、暗闇に浮かんでいたナオちゃんの満面の笑みに期待が膨らんでいく。
    ぼくはようやく、ナオちゃんがいないのを受け止められる大人になったけど、受け止めたいとは思っていない。

    儀式の成功がわかるまであと一週間。
    ナオちゃんの冷たい手が首筋を撫でた気がした。
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