微かな電光(仮) 暗闇が辺りを包む。重い腕を上げてあたりを探るように動かすが、細い手指はやみくもに宙を掴んだだけで、すぐにだるくなって腕を下ろした。
そんなことをしても意味がないのは、俺だってよく知っていた。なんたってここは広いスタジオ……人の出払ってがらんどうになった、俺の勤め先であるポルノスタジオなんだから。
身体の下で擦れるシーツの感触がうざったいが、ベッドを降りる元気もない。どうせ最悪の気分なんだったら、柔らかいベッドの上なんかじゃなくて床に転がってゴミみたいに過ごしたいのに。俺は小一時間前の彼の顔を鮮やかに思い浮かべて、何度目かわからないため息をついた。
こんなことになったのは俺の恋人である、とある男のせいだった。……いや、向こうはもう俺のことを恋人だなんて思っちゃいないのかもしれないが。とにかく、その男というのは、このポルノスタジオの主人であるヴァレンティノという悪魔だった。
彼に契約を持ちかけられたときはすごく嬉しかった。地獄みたいだった人生が終わって本物の地獄に堕ちた俺は、家族とも縁が切れて完全にひとりぼっちで、地獄の片隅でボロボロになりながらかろうじて生きていた。彼はそんな俺のことを気にかけてくれて、大事だって、大好きだって言ってくれた。
誰からも……ほとんど、誰からもそんなこと言われたことがなかった俺は、彼のくれる言葉の全部に馬鹿みたいに舞い上がって喜んだ。彼は持っているものなんて身体ひとつしかないようなちっぽけな俺を拾ってくれた。彼は仕事を、居場所を、愛情をくれた。俺はすごく幸せだった。……それだけだったら、よかったんだけど。
数ヶ月もすると、ヴァルの態度が変わってきた。初めの頃の甘い態度が減って、俺に怒鳴ったり暴力を振るったりすることが増えた。でも、ひどいことをされるばかりではなくて、俺が辛そうにしていると心配してくれたし、まだ愛しているかと聞いたらもちろん愛してるに決まってると真剣な顔で答えてくれた。だから俺は、また元のように幸せな二人に戻れるかもとみじめな期待をしてしまうのだ。
心のどこかでは、ヴァルはもう俺のことなんか大事だなんて思っていないのかもしれない、と思っている。でも、それを認めてしまったらもう幸せだった頃には戻れなくなってしまう気がして、どうしても希望を捨て切れない。
今日はヴァルと出会ってちょうど一年になる日だった。彼が前から約束してくれていた二人きりのお祝いパーティーは、けたたましい怒号と共に消えた。暗闇にも目が慣れてきて首をひねってあたりを見ると、少しだけ様子が伺えるようになった部屋の中には、めちゃくちゃに物が散乱していた。これをやったのも当然、癇癪を起こした彼だった。
何がそんなに気に障ったのかわからない。俺が覚えているのは、そしていま何よりも恐れているのは、彼の怒鳴り声でも振り下ろした拳でもなくて、俺のことを見る、心底愛想を尽かしたような冷たい目だった。
彼のことをひどい男だと、ろくでもない男だと思っているのに、そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。彼が俺にどんな仕打ちをしたって、どんなにつらく当たったって俺は彼に捨てられるのが恐ろしい。ちっぽけすぎる自分に吐き気がした。
この最悪な気分から抜け出したいのに、身体が鉛のように重くて少しも動けなかった。泣きたいとも思っていなかったのに、目の端からなにかがこぼれ落ちる。いっそ、このまま俺が消えてなくなってしまえばいいのに。そう思って目を閉じたが、遠くから小さく金具がきしむような音が聞こえてきて現実に引き戻される。
幻聴かなとも思ったが、ドアを開けたらしい誰かは小さく靴音を鳴らしながら部屋の中を歩いているみたいだった。こんな時間に誰だろう。もしかしたらこの会社の人じゃないかもしれない。でももう、どうでもいいかな。不審者に殺されるなんて、ここで死ぬよりつらい生活を送っている俺からしたらどうでもいいことだ。
どうせなら、本当にそうであってくれないかなあ。ここに忍び込んできた残虐な殺人鬼が、俺やヴァルの都合なんか少しもお構いなしに俺のことを斬り殺して、それで何もかもおしまい。俺はこの先なにも感じないし、なにも苦しいことをしなくていい。そうだ、俺はもう終わってしまいたいんだ……。
床を叩く硬い靴の音が、すぐ近くまで迫ってくる。俺はベッドに仰向けになったまま身動きひとつとれずにいる。さあ、殺人鬼さん、俺はここだよ。どうか何も感じないままに俺を殺して、それで何もかも終わらせて。
「……エンジェル?」
ばちり、と空気を焦がすような音が鳴る。俺はこの音を知っていた。
「何をしているんだ? こんなところで灯りもつけず……」
俺は返事ができなかった。ばちばちと弾ける音が小さく鳴り続けている。真っ暗だった俺の視界を、青白い電光がぼうっと照らしていた。……ああ、嫌だな。
心の中でいくら拒んだって、僅かな電光は消えることがなかった。その電光を指先に走らせている男は、心配そうな顔で俺のほうを伺ってきた。眉をひそめた苦しそうな表情が目に入る。ああ、嫌だ。
暗闇で見る電気って、どうしてこんなに綺麗なんだろう……。
***
俺とヴォックスが出会ったのは今から三ヶ月ほど前のことだった。
ヴォックスというのは、さっき俺のことを心配そうに見てきたあの男。普段は眩しいくらいにビカビカ光らせている液晶の顔を、暗い場所にいた俺に合わせて光量を落としてくれた男だ。
そのヴォックスと出会った場所は今日と同じで、ヴァルの所有するこのポルノスタジオだった。普段ここに来る男優や女優たちとは違って、清潔なスーツに身を包んで自信ありげに胸を張る男は明らかに周りから浮いていた。
どう見てもポルノスタジオに来るような悪魔ではなさそうなそいつは、確かにポルノスタジオの関係者ではなかったらしく、怪訝そうにあたりをぐるりと見回してからためらいがちにこちらへと歩いてきた。その時間はみんな忙しくて、暇そうにしているのが俺だけだったからだろう。
彼は俺から二、三歩離れた位置に立って、それからこう聞いてきた。
「ヴァルが……ヴァレンティノがどこにいるか分かるか?」
俺は咄嗟に、まずい、と思った。彼が誰だか知らないが、今日ヴァルに会うことだけはやめたほうがいい。なんたって、今日のヴァルは機嫌が悪いのだ。少しでも喋ろうものならすぐに暴れる彼に傷つけられてしまうだろう。そんな俺の心配をよそに、彼は少し苛立たしげにまた聞いた。
「……ヴァレンティノがどこにいるか、知らないのか?」
「あ、えっと……」
俺はやっと、自分がずっと黙っていたことに気がついた。そうして急いで話し始めたものの、ヴァルのことをどう説明していいか分からなくて途方に暮れる。しかし何かは言わなくてはと頑張って言葉を紡ぐ。
「えっと……今日、ヴァルに会うのはやめといたほうがいいと思う……。彼、なんていうかすごく……イラついてるから」
すると男は小さくため息をついて、呆れたような声で話し出した。
「なんだ、そうか……。奴はまた、今度はなんで怒ってるんだ?」
「えっ? また、って……ヴァルと知り合いなの?」
俺がそう聞くと、彼はちょっと目を見開いて、それからこう答えた。
「ああ、まあ……そうだな。知り合いみたいなものだ」
「そうなんだ……」
俺はなんだか意外だった。目の前に立っているこの男のきっちりした雰囲気が、普段ヴァルが相手にしたがるような連中とは大きく違っていたからだ。男は会話の間が持たないというように頭の後ろを掻いて——思えば、こんなに特徴的な頭を見たのは初めてだったかもしれない。なんたって動物でも植物でもなくて、無機物が首の上についているのだから——そうして、俺に再び聞いてきた。
「それで、ヴァルの居場所は分かるか?」
「あ、うん……はい。分かり、ます」
俺は思い出したように敬語で喋り始めた。さっきは彼の場違いなナリに驚いて忘れていたが、こんなにいいスーツを着た男がただの一般人なわけがない。見るからに上等な生地で作られたそれは破れもほつれも全くなく、天井のライトを跳ね返してつやつやと光っていた。しっかりと質量のある、それでいて重すぎない布が彼の体のラインに合わせて完璧にフィットしている。どう考えてもお偉いさんだ。ひょっとしたらこのVタワーの重鎮だったりなんかするかもしれない。まあ、さすがに社長ってことはないだろう……ないよね?
「えっと、ヴァルは今あっちの部屋でふてくされてて……ちょっと、俺たちじゃ手がつけられないんです」
「なるほど」
俺は考えごとをしながら、ヴァルのいる部屋を指してそう言った。男はそちらに目を向けて、気だるげにうなずいた。
「では私は彼に用があるのでね。ありがとう、ええと……蜘蛛のきみ」
そう言って部屋の方へ歩き出す彼を、俺は背後から慌てて止める。
「待って、その部屋は……痛っ!」
「おっ? おいおい、大丈夫か?」
慌てて動き出したものだから、さっき負った傷がずきりと痛む。思わずその場にへたり込む俺に、男は驚いたようにそう言った。俺はぶんぶんと手を振って大丈夫だとアピールする。
「一体どうしたんだ。何があったのか知らないが、体調が悪いならポルノを撮っている場合じゃないんじゃないか?」
「……ううん、大丈夫……です。いつものことだから。……最近は、いつも」
断片的なことばかり喋る俺に、要領を得ないような疑問が返ってくる。
「最近は? 君、いったい何の話をしているんだ?」
「えっと……」
ごにょごにょと口ごもる。話してしまっていいのだろうか? こんな知らない人に——この会社の重鎮かもしれないこの男に、ヴァルのひどい癖のことなんか……。
思い悩んでいる間にも、捻った足がずきずきと痛む。さっきよりライトが明るく当たる位置に来てしまったから、男には顔の傷も見えてしまっていることだろう。俺はしばらく迷ったが、隠しても無駄な気がして結局話し始めてしまった。
「……俺、最近はいつもヴァルに殴られるんです。昔はそうじゃなかったんだけど……」
「……ほう?」
「昔は……出会った頃はヴァルも優しくて、俺のことすごく大事にしてくれたんだけど、でも最近はそうじゃなくって。ちょっとでも彼の気に入らないことがあったらすぐ暴力とか、怒鳴られたりとかするんです。……それで、今日も」
「なるほど。もう、話さなくていいよ。大丈夫」
俺の顔を覗き込んでこう言う彼は、すこし眉をひそめていた。そして彼は、ちょっと迷ってから俺の肩に手を置いて優しくさすった。
「君も……辛かったんだな」
「え……」
俺は思ってもみなかった言葉に驚いてしまった。辛かったんだな、なんて、そんなの誰からも言われたことがなかった。ヴァルは俺に優しくしてくれたけど、彼がくれたのは幸せと楽しさで、慰めてくれる人になんて俺は一度も会ったことがなかった。
思わず目頭が熱くなるのを、歯を噛み締めてこらえた。優しくしてくれた相手の前で不幸そうな顔をしたくなかった。いつの間にか、スタジオにいる皆が俺たちの様子を伺っていたらしいことに不意に気がついた。いつからだろう。思い返してみれば、ずいぶん前から物音が聞こえなくなっていた気もする。
俺はなんだか恥ずかしくて、無理に笑顔を作って言った。
「ごめんなさい、長いこと引き止めちゃって……。優しくしてくれて、ありがとうございます」
すると彼はちょっと笑ってこう言った。
「いいさ、感謝されるようなことじゃない。……そうだ、君はさっき、何を言おうとしていたんだい?」
「あ……そうだ。あの部屋なんですけど、ヴァルの大事な部屋みたいで、気に入らない奴が入ってくると、ヴァル、すごく怒るんです」
「なるほど。そういうことか」
「はい。あなたなら、大丈夫だと思うけど……気をつけてください」
「はは。ありがとう」
俺が彼を信頼しているようなことを言うと、彼は愉快そうに目を細めた。それから今度こそヴァルのいる部屋に向かって歩き出す……かと思ったが、彼は踵を返しかけて再びこちらへ向き直って言った。
「そうだ……君、名前は?」
「え、あっ……え、エンジェル。エンジェル・ダスト……です」
思わず人間だった頃の名前が口をついて出そうになるのをなんとか抑える。もう俺は「エンジェル」なんだ。昔の名前は関係ない。
彼は俺の覚束ない名乗りを聞いて、ふ、と笑みをこぼした。
「ありがとう、エンジェル。それじゃあ、また」
そう言うと彼は今度の今度こそくるりと身体を返して、ヴァルのいる部屋の方へと歩き出していった。
彼がどんな魔法を使ったんだか分からないが、驚いたことに彼が部屋に入っていった一時間後には、ヴァルはすっかり機嫌を直していつもの調子で撮影を始めた。それどころか彼は最近では珍しいくらい俺に優しくて、撮影が終わったあと、俺は久々に彼の部屋へと招かれた。そのときの出会った頃と同じくらい……いや、もしかしたらそれ以上に甘いヴァルの態度を、俺は今でも忘れられずにいる。
***
彼があのとき「それじゃあ、また」と言った意味がわかったのは、あのことがあってから一週間後のことだった。それまでの俺は今思えば異常なことに、早朝に出勤して深夜に帰っていたから、エントランスやそこかしこにある液晶画面が何かを映すところを見たことがなかったんだ。……いや、本当は何度か見たことがあるんだろうけど、これまではそんなもの、気にもとめていなかった。ならどうして気にするようになったかというと、それがこの前の「お偉いさんの男」と関係があるのだった。
その日は珍しく、常識的な時間から撮影がはじまる予定だった。ヴァルからの呼び出しもなくて、久々にゆっくり寝られた俺は普段より絶望的じゃない気持ちでエントランスを通った。そのときだった。
『Vタワーで働く諸君、おはよう! CEOのヴォックスだ! 今日も一日、理想的な地獄を作り上げるために頑張ってくれたまえ!』
パッと明るくなった大きな画面から大音量で流れ出すこの声に、俺は驚かずにはいられなかった。CEO!? あの男が……!?思わず目を擦ると、液晶の画面はもう別の映像を映し出していた。
俺は信じられない気持ちでスタジオに入って、撮影が始まるまでの僅かな時間でスマホを使って調べるけれど、確かに「V社 CEO」で検索したリザルト画面はあの男の顔を映し出すのだった。
混乱したまま控え室をあとにする。それから辺りを見回して、今日はいくらかましな機嫌をしていそうなヴァルにおそるおそる近付いてこう話しかけた。
「あのさ、ヴァル……おはよう」
「ああ、おはようベイビー。どうかしたのか?」
「あ、うん……あのさ、このタワー……っていうか、VOXTEK……? の、いちばん偉い人ってさ……ヴォックスって名前?」
そう聞くとヴァルはぱちりと目を見開いて、それから呆れたように瞼を落とした。
「何かと思ったら……。そうだよ、ヴォックスはVOXTEKのCEOだ。名前が入ってるだろ、ヴォックステック、って」
「あっ……ほんとだ」
間抜けな俺の反応に、ヴァルはさも愉快そうに吹き出した。肩を震わせて笑いながら、俺の背中に手を回した。
「ほら、もう撮影を始める時間だ。……それにしても、今までこのでかいタワーのトップが誰か考えもしなかったのか? ああエンジー、お前ってほんとうに可愛いやつ……」
ヴァルはくすくす笑いながらそう言うけれど、そんなことどうでもよかったし。誰が上にいるとか、会社の元締めが誰かとか、俺にはなんにも関係のないことだ。だってそいつはきっと、俺になにもしてくれやしないんだから。……少なくとも、今まではそう思っていた。
その日の撮影はまあ、普段通りに終わった。ヴァルの機嫌は悪くなかったが、良くもなかった。俺が何度もセリフに詰まったり、体がうまく動かなかったりするといつものように怒鳴られた。理不尽に怒られたときは言い返してやりたいとも思ったけれど、ヴァルに嫌われるのが怖くてどうしても言葉が出てこなかった。
そんな調子で、いつものように疲れ果てて帰り道の廊下を歩いていると、前からわずかなざわめきと人が通る気配が迫ってきた。何かと思って見ていると、廊下の真ん中を堂々と歩いていたのはあのテレビ頭……CEOのヴォックスさんだった。
俺はなぜかうろたえてしまった。どうしていいか分からなかった。この前スタジオで喋ったけれど、あれは道を聞かれただけだし、黙って頭を下げるのが正解なんだろうけど……。
あのとき、名前を聞かれたことを思い出す。優しく話を聞いてくれた彼の顔も。偉い人なんだから俺なんかに構ってくれるはずないのに、それでもどこか期待を捨てきれずに彼のほうを見つめる。彼はしばらく前を向いたまま歩いていたが、ふとこちらに目を向けた。
スカイブルーの瞳と目が合った気がして、そんなはずはないと思いながらも俺のことを見てくれたと勝手に嬉しくなる。しかしおかしなことには、一回、二回とまばたきをしてもまだ彼はこちらを見ていた。どうしてだろうと思っていると、彼は少し口角を上げて微笑んだ。
「……君はたしかエンジェル、だったね?」
「え……えっ!?」
いきなり名前を呼ばれて、思わず驚いた声が出る。すこし首をかしげながらこちらを伺う彼に、混乱したままこう答えた。
「お、俺の名前……覚えててくれたんですか……?」
「ああ、ものを覚えるのは得意なんだ。なにせ頭がコレだからね」
とんとん、と液晶頭を叩く彼。俺はなんだかおかしくなって、声をあげて笑ってしまった。彼はそんな俺をやさしい目で見ていた。
「それじゃあ、悪いが私はこれで。さようなら、エンジェル」
「あ……はい!さよなら……」
俺がそう返事をすると、彼はふっと笑って踵を返した。遠ざかっていく後ろ姿を眺めながら、俺はなんだか身体中の血液があつくなっていくような、ふわふわした感覚に襲われていた。
***
身体がふわふわする。やけに心臓がうるさくて、手足の先が痺れている。うすく開いたまぶたの隙間から、虹色に歪んだ世界が見えた。
俺は……今どこにいるんだろう? 何をしているんだろう? 頭がぐるぐるする。突然、殴るような重い音が世界を揺らす。あたりを見回してやっと、自分がどこで何をしているのか思い出した。
腹の底から響くような音楽がうるさくなったり静かになったり、ぐわんぐわん揺れて愉快だった。鮮やかな色のライトがそこらをめちゃくちゃに照らす。テーブルの上に置いてある誰のものかも分からないカクテルを煽って、やけにおかしくなって思い切り笑った。
笑い疲れてテーブルの上に突っ伏すと、天板にこすれた頬がひりひりと痛んだ。昼間のヴァルの暴力を思い出しそうになって、慌てて酒を流し込んだ。それでも脳味噌は苦しい記憶を引き出すのをやめようとしなくて、気分がみるみる曇っていく。
最近のヴァルはひどかった。いや、悪いのは俺なのだろうか……? わからないけれど。彼は最近、なんでもないようなことで俺に怒鳴ったり、殴ったりしてきた。呼び出されて抱かれることも減って、やけに態度が冷たくなった。彼は俺に飽きてしまったのだろうか。嫌だ、嫌だ……。
頭がガンガンする。吐き気は酒で押し込んだ。クソみたいな気分をどうにかしたくてクスリが入っているはずの鞄に手を突っ込んで漁るが、少しもそれらしい手触りを感じない。不思議に思って、小さなそれをひっくり返してみると中身は空だった。
「……え、なんで?」
何度見ても空っぽの鞄。俺はどうしていいか分からなかった。挙動不審な俺の元に、この店のボーイらしい男が寄ってくる。俺は混乱していて、この状況をどうにかする方法が一つしか思いつかなくて、コワモテの男に腕を引っ掴まれて連れ去られるよりよっぽどマシかなとその男にしなだれかかった。
薄暗い路地裏で、やっぱり鞄が空っぽなことを確認してため息をついた。財布やメイク道具よりも、クスリを失くしたことのほうがよっぽどこたえた。最近はもうずっと、暇さえあれば注射器や錠剤を身体に入れていた。
クスリを使ったことは何度もあったが、今ほど頻繁にはキメていなかった。最近は忙しいし、ヴァルは相変わらず俺につらく当たるし、なんにも希望がないんだ。ブッ飛ばなきゃやってられない。
重い体を引きずって、なんとか家を目指す。ひとまず帰って、よごれた体を洗ってしまわないと。
その翌日も、やっぱりろくでもない日だった。俺は撮影の合間のわずかな休憩時間に、スタジオにいたくなくて廊下のソファでうなだれていた。
頭を両手で抱えて背中を丸めると、視界には俺の足と地面しかなくなった。しかしそれすらも見たくなくて、ぎゅっとまぶたを閉じた。一、二分もそうしていただろうか。おもむろに向こうから誰かが歩いてくる気配を感じたが、目を開けたくなくてうなだれたままじっとしていた。すると、歩いてきた誰かは俺の前でぴたりと足を止めて、こちらに声をかけてきた。
「……エンジェル? 一体どうしたんだ?」
「え、……ヴォックス、さん……?」
俺が顔を上げると、彼は眉をひそめて言った。
「おいおい、ひどい顔だな」
「え、メイク、どこか崩れて……」
「ああ、そうじゃない」
露骨に慌てる俺に彼はそう言って、落ち着きなさい、と続けた。
「格好はどこもおかしくないよ。ただ……なんだろうな、疲れているように見えるが……大丈夫かい?」
「あ……」
少しかがんで俺に目線を合わせながらそう言ってくる彼に、思わず涙がこぼれそうになってぎゅっと目をつむる。
「ごめんなさい。せっかく話しかけてくれたのに……」
「いいさ。どうしても辛いときだってあるだろう」
やさしい人だ。俺は今度こそ堪えきれなくて、涙が頬をつたって落ちる。手でそれを拭うと、彼が困ったような声で制止した。
「ああ、そんなに擦ったらそれこそメイクが崩れてしまうよ……ほら、ハンカチを貸すからこれを使いなさい」
「……ありがとう、ございます……」
差し出された、白に彼の会社のロゴが入ったハンカチを目に当てて涙を吸わせた。彼に返さないと、と思ってハッとした。
「あ、あの……洗って返します」
「そうかい? 遠慮することはないよ」
「いや、すぐ返します! えっと……今日にでも!」
「今日? ははは、そんなに急がなくて構わないが……まあ、そう言うなら……」
彼はそう言って、目線を横に逸らした。それからまたこちらを向いて続ける。
「そうだな、今夜は私の部屋にいるはずだから……返しに来てもらおうかな」
「あ……はい!」
「私の部屋の場所を知っているかい?」
ぶんぶんと首を振ると、彼は微笑んで言った。
「そうか。それなら教えておこう。私の部屋はね……」
それからのことはあまりよく覚えていない。なんとか午後の仕事を終わらせて、早く借りたハンカチを返しに行かなくちゃと慌ててスタジオを出て……。それからヴォックスさんの部屋のドアを叩いて、彼と二言三言喋ったような気がするのだが、何を喋ったかまったく記憶にない。
それから、どういう話の流れだったか部屋に入れてもらっちゃって、お茶まで出してもらって、弱い俺はまた彼の優しさに泣いてしまって……。
俺たちは綺麗な青いソファに向かい合って座ったが、すすり上げて泣く俺を慰めるために彼はわざわざ隣に来てくれた。しばらくして俺も落ち着いてきて、なにか雑談でもしていたとき、おもむろに彼が話すのをやめた。何かと思って見ていると、彼は言いにくそうに、思い切ったようにこう言ったんだ。
「……答えたくなかったら答えなくて構わない。ただ、君は……もしかして、誰彼構わずに身体を売っているんじゃあないか?」
俺はしばらく何も言えなかった。目の前が真っ暗になるような感覚に襲われて、心臓がバクバクうるさかった。このひとは、俺が何をしているか知っている。知られたら、幻滅されてしまう。あんなに優しくしてくれたのに。どうしよう、どうしよう……!
彼から見ても分かるくらい混乱してしまっていたのだろう、彼は慌てた様子で付け加えた。
「ああ、君を責めようっていうんじゃない。落ち着いて……。なにも悪いことでも、変わったことでもないさ。ここは地獄だぞ? 同じことをしている奴なんて……いや、むしろ君よりひどい奴の方がいっぱいいる」
彼の手が俺の肩をやさしく撫でさする。それでようやく彼は俺に、少なくとも態度に出るくらいには失望していないんだということが分かって、途端に全身の力がどっと抜けた。落ち着いてきた俺を見て、彼はふ、と微笑んだ。その顔がなぜかすごく色っぽく見えてしまって、ぶんぶんと首を振る。そんな俺を不思議そうに眺めながら、彼はこんなことを言い出した。
「なあ、きみ……私に買われてみる気はないかい?」
「……えっ?」
俺が言葉の意味を理解できずに呆然としていると、彼はにやりと笑ってこう続けた。
「そこらの男に買われるより、よっぽど安全で実入りもいいぞ」
「え、え……!? 待って、ください! 俺……俺が、あなたに?」
「嫌かな?」
こちらを見つめるスカイブルーの瞳。