賀玄の話————
極夜
長く生きていると必然的に過去が長くなる。
思い出が増えるとその分思い出すことも多くなる。
あまりに長い人生の中で、気が遠くなるような時間の中で生きる者たちは、新鮮な感情を保ち続けることができるのだろうか?
血が錆びて黒くなるように、そのとき生まれた思いや、忘れたくない感情や、欲情、それらを色褪せることなく心の内側に保ち続け、火を灯し続けられる人間は一体この世にどれだけ存在するだろう。
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夜の帳がおりて、辺りは暗くなっていた。
ある食堂はほんの少し前に店閉まいをしたばかりで、建物の中にはまだ明かりと人影が見えた。
「何度も休んでって言ったのに。もう店も閉めたし戻って休んでて。後は全部やるから」
「はいはい、でもこれぐらい全然大丈夫なのに。あとこれだけやって終わるから」
「昨日の夜もずっと咳して、くまもできて顔色もよくない。寝れてないんだから休んでて」
「そんなこと言ったらあんただって寝てないじゃないの。毎日みんなが寝静まった頃、こっそり経書を取り出して遅くまで読んでるの、私が気づいてないと思ってるの?」
息子は少し顔を上げたが再び俯いた。黙々とお金を数えていた。今日の売上を計算し、紙を手に取ると素早く筆を走らせた。
母親は息子を見て笑った。母親の笑顔は明るく、笑うと空気が軽くなった。
「体が温まる汁物作ったから、母さんはこれ飲んできて。冷める前に飲んで」
「何度も大丈夫だって言ってるのにお前は頑なだねえ。誰に似たのかね」
母親が嬉しそうに息子の背中を叩いた。
「お前は頑張り屋さんだから」
「頑張るのと無理するのは違う。母さんは無理してるんだ。もういいから、早く休んでよ」
息子は作った汁物を母親に渡そうとしたが、そのとき突然母親がむせたように咳をした。
息子は焦り、手に持った汁の入った器をすぐそばの机の上に置き母親に付き添った。すぐ水の入ったコップを用意した。
「父さんがもうすぐ帰ってくるから。残りは父さんとやるよ。すぐ終わる」
咳がおさまると、母親は渡された水を一口飲んでひと息ついた。それから息子の目をまっすぐ見ると少し真剣な面持ちになった。
「私はほんとに大丈夫だから、あんたこそ戻って勉強してきなさい。試験日も近いんだから」
「わかった?」
息子はなにも言わなかった。
あんたは次こそ絶対受かるんだから。
それは決して言い聞かせるような声色ではなく、信じて疑わない確信がその声色に表れていた。
彼の顔を見た母親が励ますように息子の背中を優しく叩いた。
息子の拳が力んだ。
うちは貧乏だし、大変な思いもいっぱいさせるけどお前には才能があるんだから。私たちはその芽を絶対潰したくないんだよ。将来おえらいさんになって、私たち家族をいい思いさせな。
母親が笑顔で息子の肩をたたきながら息子が作ったスープを口にした。
医者によると母親は病気で、薬を飲みなるべく動かず安静にし、よく体を温めるようにと言われていた。
母親は一口食べておいしいと言って、とても嬉しそうだった。
「これは元々私があんたに教えた料理なのに、今じゃお前が作った方がおいしいね。お前はうちの家族の中じゃ1番料理の才能がある。いや、料理だけじゃない。お前はなんでもできる」
母親は息子が自分のために作ってくれた汁物をよく味わいながら食べて、食べ終わると立ち上がってせっせとまた働き始めた。
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遠くの方で雷が鳴っている。
その雷鳴は本能的に人を戦慄させる恐ろしさがあった。天が怒髪天をつくように、意思を持ってこちらに近づいてくるのがわかる。
天が与える雷からは決して逃れられない。
扉に手をかけると、彼は躊躇なく扉を閉めた。
私は必ずやり遂げる。
雷が光り、刹那その場にいる者の額を照らした。みな顔は険しくものものしい。
だが一瞬の間唯一、明儀の瞳だけは他の人と違った。彼の黒い瞳は塗りつぶしたようで底知れない色をしている。瞳の奥底から地獄の業火を覗いたような狂気的な光が渦巻いていた。
「明兄!」
やめろ
「きみは1番の親友だ!」
「本当にすまないと思ってるんだ」
私だって1度もそう思わなかったわけじゃないんだ。
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鬼市で、三々五々と集まった鬼たちがある2人の姿を目で追っていた。2人は肩を並べて時折笑みをこぼした。
賀玄はにべもなく一瞥したが、すぐに目を逸らして屋台の料理を食べ続けた。
鬼になってから長いこと経つが痛みや温度を感じづらい体になってから、自分とその他の輪郭が曖昧に感じるときがあり、また不思議と遠い所に来たような不思議な感覚を覚えることがあった。
2人が顔を見合わせて談笑しながら歩く後ろ姿を見た賀玄は、ますますその感覚が大きくなっていくのを感じた。
また1人でかなり遠い場所まで来てしまったようなひりつく感覚に襲われたが、本人はあまり気にしなかった。
そんなことは今更どうでもよかったし、考えても仕方のないことだった。
目の前の牛肉麺を一心に食べ続け、汁まで残らず平らげた。
ようやく帰路に着いた賀玄は、住処である幽冥水府に着くと台所に足を運んだ。
どこかに立ち寄って食べるなら、なるべく金銭的に費用を抑えるために火を使うこともある。でも最近のほとんどは調理せず食材を固まりのようなままむさぼることも多くなった。
食べるものとはやや言い難い調理されていない食材をテーブルに並べ置くと次々に口に運んでいった。誰かに急かされているような食べ方で、勢いよく嚥下し、ほぼ息をつく暇もないように見えた。
満たされていくような感覚とともに、一縷の違和感が彼を刺激し、彼になにかを気づかせようとしているかのようだった。
賀玄は食べるという行為以外に自分が真に渇望しているものがわからないわけではなかったが、脳裏によぎるその情景を思い出すとますます食べる手を止められなくなった。
賀玄はしばらくむさぼるように咀嚼していたが急に食べる手を止めたかと思うと、青白い顔を更に白くさせて立ち上がった。食べ残した食材を別の器に移しまとめて片付けてしまった。
最後に、手元に残った菜葉と卵の入ったまだ温かい汁物を勢いよく喉に流し込んだ。
食べ続けようやく気が済んだ賀玄は外に出て森を抜け、まっすぐ海へ向かっていた。
もうあと一時辰ほどで日が昇るであろう時間帯で、薄暗かった。
薄明の中、彼の目の前には茫茫とした大海原が果てしなく広がっていた。
賀玄は海の前に立った。
辺りは静寂に包まれ、微かに波のさざめく音だけが聞こえた。瀬戸際まで歩くと足の指先が波に触れた。足や足首にも波が押し寄せ水音がする。
少しずつ海に向かって進んでいった。
海の中に進んでいくとどんどん体が海水に馴染んでいくようで、また海も抵抗なく彼を受け入れるようだった。
すぐに半身以上浸かると、嗅ぎ慣れた海の匂いが更に濃くなり鼻の奥をついた。
そのとき海の上に強風が吹いた。彼は突き動かされるように完全に海の中へと入っていった。
回顧することは、なんと苦しいことなのだろう。
それでも彼は決して過去から目を逸らさない。
それは彼にとって1番大切なものだった。
記憶も、大切な人たちの思い出も、感情も、全て大切に抱えて沈んでいく。
賀玄は人しれず深く深く潜っていった。これ以上ない底まで、ゆるやかに落ちるように沈んでいった。
辺りは真っ黒で、そこに一縷の光も差すことはない。静けさと暗澹だけがそこに在り、彼はそれらに身を委ねた。
賀玄はやっと重い瞼をゆっくり閉じると、深い眠りについた。