此れを『戀』だと云ふのなら 弐まだ心臓が騒いでいる。
どうしても信じられなくて電車の中でスマートフォンの画面を何度も確認したけれど、その度に連絡帳に新たに追加された彼の情報を見てきゅっと目を閉じた。
どこかふわふわとした現実味のない調子で歩く。
頭が思考を放棄していても、体は憶えているらしい。
仙蔵が我に返った時には、もうマンションのドアの前だった。
オートロックを素早く解錠してエントランスドアを抜けると、ちょうど待機していたエレベーターに乗り込めた。
独特の稼働音を聞いている間も、家のドアまで半ば走って向かう間も、仙蔵の心臓は飽きることなく肋骨の間で踊り狂っている。
落ち着けと自分に言い聞かせて、深呼吸してから玄関に入った。
「ただいま」
誰が応えるわけでもないが、挨拶はするものなのできちんとしておく。
暗闇の中、慣れた手つきでシーリングのスイッチを探して当てると、途端に世界が広がるようにして部屋が明るくなる。
こういうごく普通の技術だって、あの頃では考えもつかなかった。
夜は長屋の障子越しに差し込む月灯りと、灯明の燈を頼りに勉強した。
随分様変わりしてしまった現代社会に色々と思うことはあるけれど、技術の合理的な発展は気に入っている。
「わ⁉︎」
特に、これなんて人類の叡智の結晶とも言えるだろう。
胸ポケットで振動したスマートフォンに驚き、慌てて通知のポップを確認する。
さっきあれ程チェックした相手からのメッセージに、ついスマートフォンを落としそうになった。
間一髪のところで持ち直し、震える指でパスコードを解除する。
『家着いたか? 風邪引くなよ』
簡潔なメッセージと珍妙な犬のスタンプが画面に表示されて、つい笑ってしまった。
「おまえはお父さんか」
感謝を伝えるスタンプで返信して、ほぅ、と息を吐いた。
どうか夢であってくれと、心から願った。
夢ならば醒めないでくれと、強く祈った。
あいも変わらず矛盾だらけの自分の心に苦笑して、仙蔵はようやく部屋に入って鞄を置き、部屋着に着替える。
借りたままの体操服を持って洗面所に走り、溜めていた数日分の衣類と共に洗濯機に放り込んだ。
多少値は張ったものの、こういう緊急事態に出くわすと、乾燥機付の最新式洗濯機を買っておいて良かったと心底思う。
ここに行き着くまでの人生で、一体何度生乾き臭に悩まされて衣類を切り捨てたことか。
結局長い目で見ると初期投資が高くとも、受けられる恩恵を思えばこれが最適解であったということだ。
洗濯が終わるのを待っている間に入ってしまえと、全自動コースのボタンを押して自身は一切を脱ぎ捨てて風呂場に踏み込む。
熱めのシャワーを頭からかぶって、やっと肩から力が抜けた。
現代では当たり前のこれも、あの時代では一国一城の主ですら得られないものなのだ。
頭や身体を洗っている内に、浴槽には湯が溜まっていた。
シャワーで全身を清めて爪先から慎重に湯に浸かる。
手軽さには雲泥の差はあれど、湯に入る瞬間の心地よさだけはあの頃と変わらない。
肩どころか鼻の下まで湯に浸かって溜息を吐くと、泡が水面でぶくぶくと弾けた。
学園という箱庭で過ごした六年間。
仙蔵と文次郎には、 お互いしかいなかった。
他の六年生や先生や後輩たちにも親しみを抱いてはいたけれど、自分たちの間にはそれでは追いつけない何かがあった。
多分、程度の違いはあっても、きっとみんなそうだった。
伊作にも、留三郎にも、長次にも、小平太にも、彼らには彼らの、お互いにしかわからない絆があった。
それは時に憧憬であり、好敵手であり、家族にも等しい慈しみであり、そして恋慕でもあった。
目には見えないけれど、確かにそこに存在した。
ああいう時代で、こういう環境だから成立するものなのかも知れない。
すべては学園を出れば儚く消える泡沫の夢。
ただ仙蔵がその刹那の夢を愛し過ぎてしまったというだけ。
何にも囚われることもない平和な時代で、自分ひとりが溺れ続けているというだけの話なのだ。
泡を吐き終えて、仙蔵は長いまつ毛を伏せる。
そうだ、そうだった。
こんな平和な時代だから、望めば努力次第できっとなんだって手に入る。
何者にもなれるし、どんなことだってできる、どこにだって行けるのだ。
あの頃とは何もかもが違う。
狭かったあの箱庭はもうどこにもない。
だから、この広い世界で、文次郎が自分を選ぶ理由も必要性もない。
そこまで考えて、自分の傲慢さにはっと息を呑む。
あの頃だって、別に自分たちは〝そういう関係〟ではなかったではないか。
選ばれたこともないくせに、と、自己嫌悪に頭が痛くなってくる。
湯に浸かっているのに、背中に冷や水を浴びせられたような気分だった。
彼のこととなると、冷静な自分でいられなくなるところはちっとも変わっていない。
これ以上醜態を晒す前に気づけただけマシではあるが、愚かにも程があるというもの。
「だから……会いたくなかったのになぁ」
初恋は実らない。
神様は願いを叶えてくれない。
そう誰かが言い始めたのは、いつの頃からだったか。
昔から言われ続けてきたその言葉たちには、人生というものがよく現されている。
あまりに愚かで、笑えない程無様。
それなのに、手放すことができない。
「バカは死んでも治らないようだ」
先人たちのありがたい教えに異を唱えて、仙蔵はその居心地の悪さから逃げるようにして風呂から出たのだった。
***
しんしんと雪が降っている。
見渡す限りの真っ白な景色の中で、仙蔵はひとり立っている。
まただ、と思った。
雨宿りしている間に一瞬見た白昼夢と同じ光景が広がっている。
いつの記憶なのかは定かではない。
だって、自分には覚えが無い。
この肺が凍りそうな鋭い空気も、触れた傍から熱を奪う雪の感触も、知らないはずなのに、本当に夢かと疑う程に鮮明だ。
吐いた息が白くなって霧散する。
肌を刺すような冷たさに肩が竦んだ。
この場から早く立ち去ればいいのに、足は縫い付けられたように動かなかった。
ああ、そうだ。
仙蔵は待っている。
叶う筈がないとわかっていて、ひとり待ち続けている。
『────、』
薄く開いた唇から零れた声は、雪の狭間に消えていった。
「っは……!」
ばね仕掛けの人形よろしく、毛布を蹴り上げながら飛び起きる。
慌てて辺りを見渡すも、目に前に広がるのは見慣れた自分の部屋で、ほっと息を吐いた。
あの夢は一体、何なのだろう。
のろのろとベッドを出て、仙蔵は記憶を漁る。
かつての自分にも、今を生きる自分にも、とんと憶えのない景色だった。
時間を確認しながら服を着替える。
家を出るにはまだ余裕があるが、食欲はない。
仙蔵はさっさと支度を済ませると、鞄を掴んで玄関に向かった。
「っと、危ない……」
家にあった、小洒落た紙袋を慌てて掴む。
中には綺麗に畳んだ文次郎の体操服が入っていた。
生憎、よそのクラスの時間割まで把握していない。
朝一で体育が入っていなければいいのだけれど。
ローファーに爪先を捩じ込んだところで、仙蔵は、あ、と漏らす。
「クラス……聞いてない」
体操服の肩に入っているラインは、学年毎に違う。
彼の物に入っていた色は、仙蔵と同じ緑色だった。
だから、同学年というのは間違いないのだけれど。
入学してからもう何ヶ月も経つというのに、同じ学校に進学していたことすら気づきもしなかった。
自分は存外、周りには無関心なのかも知れない。
「行ってきます」
無人のリビングにきちんと声をかけ、しっかり施錠をして踏み出した。
急ぎなら向こうから声をかけてくるだろう。
一応、今日体操服を持って行くことはメッセージアプリで伝えておいたから、困らせるようなことにはなるまい。
***
満員電車に揺られている間に、文次郎から返信があった。
放課後取りに行く、とだけ書かれたメッセージを確認して、何とも言えない気持ちで閉じる。
本当は、今すぐ彼の顔を見たかった。
昨日のことがまだ信じられないという気持ちもあるけれど、それだけでは収まらない何かがもやもやと腹の底に蓄積されている。
うまくは言えないが彼に会えばそれが晴れるのだと、確かにそう思ったのだ。
やや沈んだ気持ちのまま、午前の授業を終える。
授業の内容など聞いた傍から耳から抜けてしまい、まったく身が入らなかった。
昼休みになるや否や、そそくさと教室を抜け出す。
今はひとりになりたかった。
気配を殺して中庭まで出ていく。
中央には大きな木が植えられていて、その木陰に沿うようにしてベンチが四つ設置されていた。
こんな天気のいい日には先客がいそうなものなのに、このベンチはいつ来ても誰もいない。
限られた時間でわざわざ外に出るのが面倒なのか、食堂や購買部の争奪戦でそれどころではないのか。
理由は皆目不明だが、その方が都合がいい。
仙蔵は今日みたいな気分の日はこうやって教室を抜け出して、中庭でひとり静かに昼食を取るようにしていた
目についたベンチに腰掛けて、ポケットに入れていた昼食を取り出す。
やや横長の形をした黄色い四角いパッケージには、緑のアルファベットででかでかと商品名が記載されていた。
さっと取り出せてぱっと食べられて、栄養も適切なカロリーも摂取できる。
合理的なことこの上ないこの栄養食品は、仙蔵にとってはお馴染みの昼食のメニューである。
味も五種類あって飽きがこないし、それぞれがちゃんと美味しい。
ただ欠点を挙げるとするなら、口の中の水分を全部持っていかれることくらいだろうか。
ベンチに深く沈んで、ブロックの形をしたクッキーのようなそれをもそもそと食べる。
最近のお気に入りはフルーツ味で、ここ数週間これを繰り返し食べている。
そろそろ別の味を買うか、なんてぼんやり思いながら、二本目に手を伸ばした時だった。
「仙蔵! 何やってんだ、こんなところで」
中庭を望む廊下の窓から、文次郎が顔を覗かせる。
「動くな、そこにいろよ」
げっ、と顔を強張らせている間に、文次郎は窓から姿を消す。
一分としない内に、ばたばたという慌ただしい足音と共に、文次郎は中庭へ走ってきたのだった。