無劉
無劉タイトル未定
「劉備、見てくれ。花が咲いてる」
さっきまで戦さ場で浴びた返り血でどろどろになっていた男が、今、すんっとした顔で、川縁に沢山群れて小さな山を形成している濃い葉色の木に満開の石楠花…シャクナゲを指さしている。
明るい赤紫の花弁は蒼天によく生えた。
「美しいな」
苦笑して受け答えると、無名はうんと頷いて、劉備を見た。
「劉備みたいに」
その目元が綻んだのは見間違いではない…照れて笑って否定しながら、劉備は無名のその一瞬緩んだ表情が内包する想いを、心から信じたいと思った。
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我ながら無様な事だと思う。
まんまと呂布達にしてやられて、下邳を奪われてしまった。
口にはしないが、関羽がそのように思っていても致し方ない。
張飛でさえ〈確かにおれが悪ぃが、おれ達はそもそも呂布なんざ信用するなって言ってたぜ〉と思っているかもしれない。
正直なところ、劉備とて決して呂布を信用していたわけではなかった。
一寸も疑わなかったわけではなかった。
だが、そうだからといってあの時何かしでかしたわけではない呂布を追い返せば、己の貫こうとしている志が根本からばきばき折れて倒れ伏してしまうのではないかと、そう思ったのだ。
今の劉備は義兄弟二人と曹操の下に身を寄せている。
呂布に打ち勝つためにはそうすべきだったし、何より曹操も下邳の住民の人望厚い劉備を匿うことは、呂布との戦いを優位に運ぶと考えたのだろう。利害は一致している。
「…え…っと。…曹操殿」
呂布と対峙するにあたって実際に呂布と行動を共にした貴公と意見を交換したい…と曹操に請われ、劉備は一人で出向いた。
あちらは例の優秀な軍師や護衛を連れているだろうと思っていたのに、曹操が側に置いていたのは無名だけだった。
「ここへ」
曹操の整頓された机の正面に椅子が置いてある。
劉備はちらちらと、曹操の斜め後ろに立って明後日の方向を向いている無名の横顔を見た。
その暁天の瞳に、飾り窓の木枠の模様がてらてら映っていた。
「劉備」
「…はっ。申し訳ございません」
劉備は無名を見るのをやめて、慌てて曹操の正面に座った。
曹操はゆったりと指を組み、その上に顎を乗せた。
「ここの生活には慣れたか」
無名を見ないようにしつつ、劉備はこっくり頷き、匿ってくれていることへの礼を述べた。
述べながら、薄い気配だけを放っている無名のことを思った。
無名は根無草である。
あちらこちらへ顔を出す。
無論、記憶を失った無名と最初に誼を通じたのは自分達ではある。
だが、ひと所に留まる男ではないので、劉備も無理強いはできないと思っていた。
最後に会ったのは呂布が下邳へやってくる少し前で、下邳城下の小さな乱の平定に力を貸してくれた。
暫く滞在してから〈南の方へ行ってくる〉と、雨の季節に入る前に去った。
「関羽がよく我が軍の者との調練に訪ねてくれる」
「あぁ…そのようです」
相槌を打ちながら、まだ、昔のことを思う。
雨の季節に入る前、乱を治めた帰り道、川縁に長い距離群生していた石楠花の道。
あの時無名は甘く匂い立つような微笑みを浮かべていたっけ。
信じたいと思った想いがあったっけ。
信じるだけ無駄であったかもしれない。
「おれでは雲長や翼徳の相手はできませんから、曹軍の屈強な武芸者と手合わせできることを、二人も喜んでいるようです」
上の空でよくこんなに舌が回るものだなと、劉備は頭の片隅でぼんやり自嘲した。
あの時…呂軍に下邳を奪われた時、窮地に陥った劉備の元にもたらされた〈無名は曹操の家来となった〉との噂は、劉備を煩悶させたし、心は追い討ちとばかり打ちのめされた。
裏切られたとさえ思ったが、関羽が無名との関係を利用する手立てをすらすらと提案した瞬間に、あぁそんな風に恨めしく思うのはおれだけだったのか、と、思った。
自分だけが無条件に無名の微笑を信じて、どれだけ根を張らず、どれだけ自由に国を跨いで空を舞っても、無名は己が元に戻ると思っていたのだ。
裏切られたなど片腹痛い。
なんと愚かか。
なんという見当違いか。
無名を含めて誰一人、自分以外の誰一人も、無名が〈持たざる劉玄徳〉の元に舞い戻るなど、考えてもいなかったのだ。
「下邳の弱みを衝くつもりだ」
曹操は何やら今後の下邳に対する構えについて語り、劉備もそれを聞いた。
右から左というわけではなかったが、耳も頭もやる気を出してはいない。
ただ、少しの衣擦れを聞き取るたびに、無名の気配を感じ、堪らなくなった。
曹操の傍に立つ無名を、護衛のように控える無名を、その姿を思うと、心の臓が捻り切られるような気分だった。
無名が傍に侍りたいと思った理由を求めて、劉備は曹操を注視した。
艶やかで毛の一本一本が細く美しい黒髪、切れ長の涼しげな目元、策を語る声は心をくすぐるような色を含み、極め付けはその策も〈軍師など不要なのでは?〉と思える程に的確な聡明さ。
…なんだ、どれを取っても敵うところが一つもないではないかー…。
「殿」
部屋の外から呼び掛ける声があった。
「紫鸞」
無名は頷き、劉備を見ずに扉の方へ向かった。
外にいる誰かと少し間話したのち、無名はその場所から振り返って言った。
「郭嘉が話があるから呼んでるらしい」
「そのようなことは客人の前では大声で伝えず、耳打ちするものだ」
「知らなかった。すまない」
「まぁ良い。お前は気儘にせよ」
机に片手を付き立ち上がる曹操を目で追う。
無名は大層気に入られているんだなと、胸をチリチリ焼きながら思った。
曹操の涼しい目が、劉備を見下ろした。
「また使いを送る」
劉備も立ち上がり、拱手の格好を取った。
曹操のあの目が、今度は無名を流し見た。
「積もる話もあるだろう。あとは好きにせよ」
「……えっ!?」
声を上げたのは劉備の方である。
二人きりにされても困る。
無名とする話などない。
いや、あの頃はなんでも話した。
村で商いをしていた時に出会った手相を見る変な爺さんの話や、交換するものがないからと毎回踊りを踊ってそれを支払いにしていく婆さんの話、義兄弟に出会ってからの数々のごたごた話……中身のない話を沢山した。
だが、今、そんなことはできない。
途中