也譲ショート 趣味の話「なあ、譲介の趣味って何だ?」
一也の問いに、机に向かっている譲介はこちらを振り返りもせずに質問を返した。
「いきなり何の話だよ」
こんなことがあった。西海大の附属病院へ手伝いに行ったとき、知り合いの外科医に聞かれたのだ。黒須先生、趣味はないんですか? と。医師は忙しいが、趣味を持っている者は多い。音楽や映画、釣りやマンガ、アニメ……。いったいいつそんな時間を取っているのかと心底不思議な人もいるが、肉体的にも精神的にも激務の中で、それが心の支えになっていたりするのだという。一也の大学の同期にも多趣味な人はいる。けれど一也にはそれらしきものはない。そのことを思い出した拍子に、目に付くところにいた譲介に聞いてみることにしたのだ。
自分と同い年で、学生時代から医術に邁進していて、アメリカ留学してからのことはわからないが、ほぼ間違いなくこの男も自分と同じはずだった。
十中八九、無趣味な男のはずである。
一也がいま座っている椅子は折りたたみ式のスツールで、座り心地はお世辞にも良いものではない。だがこの部屋には、部屋の主が座るためのもの以外のまともな椅子がないのだ。
譲介の暮らすワンルームは、学生時代からほとんど変わらずシンプルかつ機能的で、くつろぐ場所というよりも置かれた本の量からいってむしろ書斎といった趣だ。
今だって、休日だというのに研修医の症例報告のチェックをしている。すぐ後ろに恋人である一也がいるというのに。まあ、たまたま都合がついたからといって、アポイントメントもなしに押しかけたのはこちらだから文句は言えないが。いや、恋人なんだから意味もなく押しかけたってたまにはいいのではないか? しかしながら親しき仲にも礼儀ありというし、譲介の迷惑になるようなことはしたくない。けれどもけれど、お互い多忙な中で会えるチャンスが少しでもあれば逃したくないのが一也の正直な気持ちであるわけで――
閑話休題。
一也が最も多く見ている譲介の姿は、高校時代を除けば、医療行為をしているか、医学の勉強をしているか。ほかによく見るのは移動しているとき、食事をしているとき、寝ているとき、一也とセックスをしているとき……それ以外の姿はあまり思いつかない。やっぱりこの男は無趣味なのだろう、と一也は当たりをつけた。
「……で、色んな趣味があるもんだなあと思ってさ。でも、趣味がないのって別に当たり前だよな? 譲介もないだろ?」
譲介が答えた。
「あるよ」
タン、とエンターキーを叩く軽い音がする。
「――えッ」
ちょっとした衝撃だった。二十年以上の付き合いになるのに、譲介に趣味があるという話を一也は聞いたことがなかった。仕事でしか会わない関係なわけでもないのに。こうして私的な空間(私的なものはほとんど置いていないにしろ)にも入れてもらっているのに。友人なのに。というか恋人なのに。
にわかには信じがたい。
一也が目を丸くして彼の背中を見つめていると、譲介はくるりと椅子をこちら向きに回転させた。視線がちくちくと刺さりでもしたのだろうか。
「あの……なんなんだ? 譲介の趣味って……」
彼は、くいと眉を上げて(アメリカで彼が変わったと思うことのひとつは、表情のバリエーションがものすごく増えたことだ)、こともなげに言った。
「僕の趣味はお前だよ」
「…………………」
「なんだよ、その顔は」
「恐ろしいことを言うなと思って」
その衝撃的発言に対してなんと反応すればいいのかわからなかった。一也はちょっと引いていた。ええ、とかうわ、とか声に出していないだけ褒めてほしい。顔には出ていたみたいだが。
長い脚をきれいに組みながら、譲介は不服そうに一也を見た。
「ひどい言い草だな。学生時代から続けている由緒正しい趣味だぞ」
「言ってる意味がわからない」
人を趣味の一ジャンルとして取り扱うな。一也はまったくもって、聞かなきゃよかった、と思った。好意的な解釈をすれば、恋人である彼がそれほど自分に関心を注いでくれているのだ、と喜ぶこともできたかもしれない。だが今のは確実にそういう文脈ではなかった。「僕の趣味はお前だよっ♡」とじゃれあいの中で可愛らしく告げられたのではなく、世間話で趣味を聞かれた人が「俺の趣味は映画かな」とか、「私の趣味はアウトドア」だとか答えるようなそれだった。そんな風に「僕の趣味は黒須一也かな」と言われたところで、こいつ一体何を言ってるんだ? と思うだけだ。怖い。学生時代の彼を知っているだけに。
「うーん……。ちょうどいい時間だし、息抜きでもするかな」
怪訝な目で見つめる一也を余所に、譲介はそう言って立ち上がると、こちらの方へ向かってきた。
そして、無言で背後に回る。いったいこれから何が起こるのかとどきどきしている一也の後ろから、譲介はがばりと腕を回して抱きついた。
「うわっ……」
その直後に一也が感じたのは、頭皮に直接感じる譲介の吐息だった。彼が自分の頭頂部に顔を埋めているのだ、と気づくと同時に、すう、と息を吸う音がして一也は慌てた。
「おい、やめろよ譲介……」
「シャンプーのにおいが残ってる。数時間前にシャワーを浴びたみたいだな? 今朝は暑かったから……それともうちに来る予定だったから?」
「なっ……こら!」
譲介の言うとおりシャワーは浴びてきた。が、ここに着くまでに多少汗は掻いているはずだし、あまり深く嗅がれては困る。
一也が立ち上がろうとするのを譲介は両腕で押さえ込んだ。
「いいだろ? 仕事の合間に趣味の時間を楽しんでるだけなんだから」
「勝手に人を趣味の対象にするな……!」
なおも体勢を変えようともがいていると、ちゅっ、と音を立ててつむじに柔らかいものが触れるのを感じた。続けて、ちゅ、ちゅ、と何度も口づけが下りてくる。とたんに逃げる気力が失せて、一也は立ち上がるのではなく、譲介へと向き合うようにスツールの上でくるりと尻を滑らせた。
「まったく、もう……」
諦めて彼の背中に両腕を回す。シャツ越しの胸板に顔を埋めて、すう、と深呼吸をする。譲介の肌のにおいがする。清潔なにおいだ。
「どうしたんだよ、ワンちゃん。元気ないな」
ぽんぽんとうなじを叩かれて鼻を鳴らす。
「呆れてるだけだよ。それに、犬はお前の方だろ。許可なく人の頭を嗅いだりして……」
「僕は犬なんかじゃないね。においを嗅ぐのはお前のだけだから」
「…………ふぅん、そうか」
「嬉しいか? しっぽがぶんぶん振れてるぞ」
そんなの、ついてない……。
思ったよりも甘えたような声が出てしまって、耳が熱くなる。そんな一也を見下ろしている譲介は機嫌良さそうに笑って、彼が笑うと、ぴったり頬をつけている胸板から振動が響く。この感覚が好きだった。一晩中かかるような手術の後は、いつも譲介のこれが恋しくなる。
一也はまぶたを閉じた。
「……オレの趣味も譲介にしようかな」
「勝手に人を趣味の対象にするなよ」
「………………」
無言でふう〜っ! とシャツ越しに息を吹きかけると、くすぐったかったのか譲介はまた笑った。
一也を抱き締め返して、めずらしく頭を撫でてくれなどする。ンフフ、と堪えるように笑うその顔を見たいけれど、あたたかいものに包まれたままずっと目を閉じていたくもあった。
「わかったわかった。好きにしろよ。安上がりな男だな」
そんなことない。そんなわけがない。広い広い海を渡って譲介に会うのがどれだけ大変なことか。そのくせそちらは滅多に会いに来ない。一也は自分よりもいくぶん細い男の背中をぎゅっと抱き寄せた。
お前だってオレに会いたかったくせに。
そうじゃなきゃ、お前の心臓がこんなにドクドクと落ち着かない理由が説明つかない。
オレがいなきゃこの世で一番無趣味な男になってしまうくせに。
そもそも、オレを安上がりな男だって言うなら、お前だってそうだよな。
だからさ。
「ちょっと暑いな……。冷房強くするか」
「いい」
「僕が暑いんだよ。お前が熱いから。ったく、もう……」
机の上にある冷房のリモコンを取るには数秒の間彼を離してやらないといけない。彼を熱中症にさせるつもりはない、もちろん。
だから、もう少しだけこうしていたら離してやるから、その後は。いや、これから先はずっと。
休みの日はこうして、二人で抱き合っていよう。どこへも出かけずに。
安上がりなオレたちには、それが一番効率いいはずだから。
そうは思いながらも一向に彼の背中に巻きつけた腕を緩めることができずにいる。きっとあと二、三分もしたら、しびれを切らした譲介に髪を思い切り引っ張られるはずだから、それまでの間。
お前の体温をもうちょっとだけ上げてしまってもいいかな?
END