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    magical_weapon

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    magical_weapon

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    吐けない話⚠︎注意⚠︎
    ・ルームメイト二人+校医が喋ります
    ・嘔吐表現(空嘔吐き、唾液等の表現が延々続きます)
    ・非現実的、誇張を含む体調不良描写
    ・排泄を連想させる台詞(×スカ)
    ・作者に医療知識はありません
    ・なんでも許せる人向け


    ーーー


     それは、今日の夕方ごろのことだった。早めに部活を終え、寮に帰ってきてすぐのこと。僕が課題を始めようと机に教科書を並べた時、エースがベッドの上に座りながら、青い顔をして囁くように言った。

     「……ごめん、ちょっと……具合悪いから、……こっち側の電気消して良い?」
     「えっ」

     僕は課題を進める手を止めて、ペンを置いて振り返る。具合が悪いなんてそんな素振りエースはその日一日見せなかったからだ。
     まぁ確かに少し口数は少なかったし、食欲がないとは言っていたけれど、普通にグリムとくだらない喧嘩もしていたし。
     僕は驚いて聞いた。

     「も、もちろんいいぞ。熱でもあるのか?」
     「……測ったけど、微熱。でもなんか……気分悪いっつーか……。…ごめん、もう寝る……」

     伏目がちにカーテンを閉めようとするエースに、僕たちの会話を聞いていたルームメイトのふたりが反応する。

     「エース、飯は食ったの? 食えてねーならそのせいもあるんじゃない?」
     「腹減りすぎて気持ち悪くなるやつな。とりあえず水だけでも飲んどけば?」
     「……んー……」

     そう笑いかけるふたりにエースは曖昧な返事をしたかと思えば、すぐに弱々しく天蓋を閉め切ってしまった。
     僕らは三人で顔を見合わせ、「珍しいな」と頷き合う。そして一応嘔吐受けの袋とスポーツドリンクだけ用意してやって、天蓋の隙間から枕の横に置いてやった。
     その後は各々、課題やゲームに勤しみ始める。
     もちろん心配ではあったけれど、あいつも少し休めばいつものように元気になるだろうと楽観的に思っていたのだ。
     ──しかし、太陽がすっかり沈みきり、僕らが夕飯を終えて消灯時間を過ぎていつもはもう全員とっくに眠っているような時間になっても、ベッドは音沙汰もない。
     寝ているだけならいいのだが、飯も食っていないしトイレにも一度も起きてきていないし、流石に心配になってルームメイト達と一緒にちらりとその中を覗く。
     防音魔法のかけられた天蓋がそろりと開かれたその途端だった。僕らの耳に、苦しげな唸り声が届く。

     「うぇ…はぁっ、はっ……ん、ゔっ……」

     汗まみれのシーツ、ぐしょぐしょになったその上で、うずくまっているエースの姿。
     エースは、ぜんぜん眠れてなんかいなかった。
     ただベッドの上で苦い顔をして唸り声をあげているだけで、その表情は穏やかな寝顔などではなく、むしろ苦痛に歪んでいる。その顔色は真っ青──というか、もはや暗闇が落とされているせいもありグレーにさえ見えるくらい血色が悪い。
     暑かったのか布団の剥がされた体の方に目を向ければ、シーツの上、エースの顎のあたりに、僕らが先ほど渡した嘔吐袋が転がっている。
     ずっと握っていたのだろう、その袋は汗や涙で湿ってしわくちゃになっていた。

     「えっ……ちょ、エース? 大丈夫か?」
     「ぅ……っ……」

     エースはルームメイトの声に気がついて、ごくわずかに瞼を開く。その途端、開いた瞼をひくつかせて軽く嘔吐き、弱々しく右の手のひらで口元を抑えたので、僕は慌ててぐしゃぐしゃの袋を取って広げ、口元に当てがってやった。
     しかしエースはじわりと涙を目の縁に溜めさせて唇を噛むだけ。我慢しなくていい、と声をかけようとした、その時。唾液に湿った唇が細かく震えるようにして小さく開いた。

     「……っけない、」
     「え?」
     「……吐け、ない、……っ」

     そう訴え、エースは肩をびくつかせながらゲホゲホと苦しそうに大きな咳をする。
     ……確かに、こんなに何度も深く咳き込んでいるのに、ただ呻き声をあげるばかりでその息は渇いている。
     その代わりとでも言うように、こめかみや額にはまるで休み時間にバスケをした後と同じかそれよりも余程多くの汗が、玉のように噴き出していた。きつく閉じられた目も湿っていて、頬には乾いた涙の筋が見えている。

     「……みっ、水。水飲んでみるか?」

     僕は動揺してそう口走る。でも、エースは薄目を開けて、「やだ」とだけ辛うじてつぶやいた。
     そりゃそうだ。飲んだら吐き気が強まるのに、きっとそれだけで吐けはしないんだから。
     僕はどうすれば良いのか分からなくなってルームメイトと顔を見合わせる。二人も同じように眉をひそめ、困惑した顔をしていた。


     それから、とにかく放っておけないということで、僕ら三人はベッドのそばにつきっきりで背中をさすってやることにした。もう自分で座るのも辛いようだったので、交代でエースの体を支えてやって。
     でも、僕らが手伝ってやっても、時間が経っても、エースは一向に吐くことができずにいる。時折喉をひくつかせて肩をびくっと揺らすことはあったが、僕が口元にあてがってやった袋に吐き出すのは、荒く澱んだ呻き声と空嘔吐きだけだった。

     「……体制変えてみるか? また少し横になってみる、とか……」

     エースのくたっとしたプルオーバー越しに背中をさする。すると時々背中が跳ねて、喉がごきゅっと音を立てる。全身が強張るのを手のひらで感じる。でも、
     
     「……っ、ぅ……けほっ……」

     それだけで、ほとんど何も吐けない。嘔吐袋は先程からずっと荒い息を受けてカサカサ音を立てていて、ときおり糸を引く唾液を受け止めるだけ。
     エースは涙に濡れた目をぎゅうっと瞑り、浅い呼吸を繰り返す。

     「吐けない……なんか、…喉、つっかえて……」
     「喉?」
     「……っもち悪い……ぅ、」

     喉。そう言われても、よくわからない。
     僕と同じように、ルームメイトたちがなんとも言えない相槌の唸り声を出す。

     「……吐く力が残ってない、とか……?」
     「そもそも、何か食えてたわけ? 昼間っから食欲はなかったらしいけど」

     ふたりの視線が僕に向く。

     「あ、あぁ……。昼は仕事食ってたぞ。あっ…でも重たいのは気分じゃないって言って、スープとパンを選んでたな……。えーと、あとは確か…帰る頃に水も飲んでた。だから、吐くもんがないって訳ではないと思う……多分……」

     ルームメイト達も、もちろん僕も、看病の仕方なんかには慣れていなくて、ただただ困惑した。
     気持ち悪くて吐きそうって言うなら、ただトイレにでも連れて行って、吐かせてやれば良いだけのことだ。でも、気持ち悪いけど吐けないって泣いてる奴にはどうしてやればいいんだろう。腹を押す? 指を突っ込む? 
     ……いや、あの吐かせ方はかなり乱暴できっと苦しいだろうし、あまりやらない方がいい気がする。
     僕は一人でグルグル思考を巡らせながらエースを見つめた。
     そもそも、こんなに顔色が悪いのに吐けないってどういうことだ? まさか、風邪や流行りの感染症なんかじゃなくて、何かよくわからない変な病気とか呪いとかなんじゃないか……?

     「えっと……『吐けない時は、無理に吐かせないようにしましょう。代わりに水を飲ませたり空気を入れ替えたりして、吐き気を紛らわせてあげてください』……だって」

     ルームメイトのひとりが、スマホを片手に焦った声で言った。

     「え、吐かせちゃダメってこと? 背中さすんのもやめた方がいいのかな……デュース、一旦ストップ!」

     僕はビクッとして手を止めて、そしてその手をエースの背中から咄嗟に離す。
     エースは相変わらず半泣きの状態で慎重に息をしていた。その浅い呼吸の隙間に、「きもちわるい」「もう吐く」「吐きたい」とうわごとのように言っている……ように聞こえる。もうあまり呂律が回っていないのだ。

     「でも……このまま朝まで過ごすのか? 流石にきついだろ、だってもう夕方からずっと気持ち悪いって……」
     「……でゅ、…ぅ…っ」

     きゅっと服の裾を引かれ、僕は慌てて肩に手をやって支えてやる。

     「っどうした、」
     「ッ……うぇ……ぅ、うぅ……」
     
     そう唸って俯かれても、何を伝えたいのかなんて全然分からない。でもなんとなく離れたことを咎められた気がしたから、僕はもう一度エースの肩に触れて体を支えて背中をゆっくりさすってやることにした。
     そんな僕らの様子を眺めながら、ルームメイトの一人が恐々口を開く。
     
     「……保健室、連れてく……?」
     「でももう空いてないだろ、夜中だし。緊急の電話番号って……」

     スマホを片手におろおろするルームメイトに、僕も「わからない」と答える。
     入学式後のオリエンテーションで保健室の利用について説明された気もするが、正直そのとき僕らは寮内のルールや法律を覚えることで手一杯だったし、なにより記憶が遠過ぎてまったく覚えていない。僕は焦って口を開く。

     「せ、先輩に電話してみるか? 消灯は過ぎてるけど、もしかしたら起きてるかもしれないし」

     そう言って僕がスマホを取り出しかけた、その時だった。エースがその苦痛に潤んだ目をこちらに向け、息を震わせながら必死に声を出す。

     「……ぃ、じょ、ぶ……」
     
     焦燥感に満ちた空気を遮るように、エースがかすかに呟く。僕も、そして二人も、吸い寄せられるようにしてバッと一斉にエースのほうを見た。

     「大丈夫? って言ったのか?」
     「ぁさ……ぅ、っ…した、…いく、から……」 
     「……あさ、明日? 行くって、保健室のことか?」
     「っ……、」
     
     こくり、と本当に僅かだが、エースが顎を引いて肯定した。
     大丈夫……にはとても見えないし、かなりの緊急事態なのはここにいる全員がわかっている。もちろんエースだってそのはずだ。無理する理由なんかないはずなのに。

     「でも、もう限界だろ?」
     「……いいってば…っ、…やだ……」
     
     ……嫌だ?
     僕らは顔を見合わせて、三面鏡のように同じ怪訝な顔をする。嫌だって、何が?
     スマホを取り出していた一人が、エースの肩を軽く叩き、「先輩呼ぶのが嫌ってこと?」と冷静にはっきりとした口調で問いかける。するとエースは嘔吐きの間に微かに首を縦に振り、ぽたぽたと涙を数滴こぼした。
     迷惑をかけたくない、ってことだろうか。
     確かに気持ちはわかるけど、でも。

     「……なら、朝まで頑張るか」
     「えっ」

     誰かがぼそりと言ったのに、僕は反射的に「でも」と言い返す。そして、その不安そうな視線をはっきりと合わせて反論した。

     「でも、僕らだけじゃどうしようもないだろ!? このまま放っておくなんて、そんなっ…もし何かあったら」
     「放っておくなんて一言も言ってねーだろ、落ち着けよ。オレらだけで頑張るかって話。……こいつも先輩呼ぶのは嫌だって言ってるしさ。ってか、連絡って誰が誰にすんの? ケイト先輩あたりなら起きてっかもだけど、でもさぁ……」
     「……あと、さ。法律じゃないけど、寮のルールで、消灯時間外のスマホの使用はダメって言われてんじゃん。もしバレたら首が……」
     「はぁ!? お前ら、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ! だって、」
     「ッげほ、げほっ!!」

     勢いで怒鳴ろうとした僕を意図的に遮るようにしてエースが咳き込んで、その勢いで細く透明な唾液を袋に垂らす。
     僕は慌ててエースの背をさすり、仕方なしに唇を噛んだ。

     「でゅ…っ、げほ、いいから、ッケホッ、マジで」
     「なっ、でも!」
     「っ……やだ、ゲホッ、ぅ、ゲホッゲホッ」
     「ちょっ、わかったわかった、分かった!! な、何も泣くことないだろ!?」

     僕はそうやって口をまごつかせつつ、焦燥感と困惑に眉を寄せた。
     いつもは自分から先輩に甘えて、周りが呆れるくらい頼りまくっているくせに……。こういう時だけはそれが泣くほど嫌らしい。弱ってるところを見られたくないとか、そういう意地でもあるんだろうか。
     正直、エースの複雑な心境について、僕にはまったく分からなかった。
     でも、とにかく先輩に迷惑をかけたくないらしいというのは痛いほどに伝わってきて……何となくだがその気持ちだけは分かる気がする。かといって納得はしないけれど。

     「っけほ、ヒュっあ、ゔぁ、」
     「エース、息、大丈夫か。もっとゆっくり……」
     「ひぐっ……ひっ、ゔぅ…っ、ハッ…はぁっ、」

     僕は強張った背中を支えながら、エースの汗まみれになったしんどそうな表情を横から眺めることしか出来ずにいた。
     ぎゅっと目を瞑り、青白い唇から荒い息を吐く姿。こっちの焦燥感まで酷く煽るような痛々しい姿だった。さっき僕と話してから呼吸が明らかにおかしくなっているように感じて、なんだかこっちまで苦しくなってくる。まるでペース配分を乱した持久走の後のような……。
     大丈夫……では、ないよな。と、もう一度なにか声をかけようと口を開こうとする。その時。
     ルームメイトのひとりが僕の後ろからまわり込み、真新しい白タオルを片手に僕の肩を引いた。
     
     「デュース、ちょっとどいて。こいつ過呼吸になりかけてる」
     「かこ……えっ、わ、わかった、」

     そいつは看病の経験でもあるのか、タオルで涙や汗を拭いながら冷静に──いや、平静を装って、エースに声をかけ続けていた。僕はベッドから離れると、途端にどうしていいか分からず、ひとまずもう一人のルームメイトとおろおろすることにする。
     そうして「ティッシュ持ってきて」だとか「袋持ってやって」だとかそういう指示に従い続けていたら、いつの間にか数時間が経っていた。
     エースの荒れていた呼吸や嘔吐きが落ち着いて、やっとまともな言葉が出てくるようになった頃。カーテンも閉めずにいた窓から、沁みるような色をした朝焼けがじわじわと部屋を照らし始めた。
     もう少しで朝がくる──僕らは寝不足の瞼を擦り、お互いに何となく目配せし合った。
     エースは青い顔をしながら目に涙を溜め、手元にある唾液の溜まった袋を見つめている。体重を預けた枕は一晩中の汗でもうぐしゃぐしゃになって、くったりと崩れた形のまま朝日を待っていた。
     
     「……もうちょっとだな」
     
     ルームメイトのひとりがつぶやいた。時計を見れば、その長針はもう少しで午前六時を指す頃。僕は寝不足の目をこすりながら、その独り言に頷いて返事をした。


    〜〜〜


     時計の針が、真っ直ぐの直線で上下を指す。午前六時。窓の外は薄明るく、ついさっきまで少し眩しいくらいだった部屋のランプも、もう朝日に馴染んでぼやけているように見えた。
     僕は前髪から滴るエースの汗をタオルで拭いながら、小さく口を開く。
     
     「エース、そろそろ保健室……」

     と、言いかけるが、エースは虚な目を膝に向けたまま黙っているので、咄嗟に口をつぐんだ。

     「いや、流石に歩くのは無理だろ。俺たちが呼んでくるから、デュースはコイツ見てて」

     ルームメイト二人がそう口々に声を揃え、部屋を出ていく。
     ふたりぶんの空間がぽっかり空いたこの部屋では、なんだか空気が途端に冷えたような寂しさを感じた。
     時計の静寂音と、エースのつっかえた息遣いがやけに大きく聞こえる。とにかくあと少し。そう言い聞かせ、僕はベッド横のサイドチェアに腰掛けた。

     「……エース。何かあったら言えよ」

     僕がそう呟くと、エースは苦しげな吐息で返事をする。僕はそのまま、一息もつかずぬままに連絡用のスマホをちらりと見た。
     時刻は…六時三分ごろ。まだあいつらが出て行ってから二分しか経っていない。ついさっき出たんだから、当たり前だけど。
     ここから校舎までは僕の全力でも五分はかかる。だから、あいつらが保健室に行って先生を呼んで帰ってくる、となると、往復十分プラス……、……いくつくらいになるだろう。
     僕はなんとなく膝を擦り合わせて、体を強張らせたままに俯いてあいつらの帰りを待った。


     そうして僕がそわそわしたまま時刻は一分ごとにじっくり進み、やっと十分そこらが経とうとしていた。僕はサイドチェアに座ったまま何度もスマホを見ては時刻を確認し、連絡のないロック画面に焦燥感を募らせる。
     そろそろ帰ってくるだろうか。というか、もし保健室に行って、先生がまだ誰もいなかったらどうするつもりなんだ?
     そうグルグルと考えていると、突然エースが涙目の視線をこちらに向け、眉をひそめながら唇をごく小さく開く。

     「……でゅーす……」

     疲れ切って震えた貧弱な声。僕はその聞き慣れない声色にすぐさま立ち上がった。
     どうした、どこか痛いのか、と早口で聞けば、エースは気まずそうに目を伏せる。

     「…………その…トイレ、行きたいんだけど……」
     「えっ。い、今か!?」

     エースが浅くこくりと頷き、「ごめん」としおらしく呟く。
     僕は焦って扉の方を振り返った。しかし当然タイミングよくルームメイトが帰ってくるはずもなく、扉の前では早朝のやわらかい日差しと埃だけが僕の視線を受け止めている。
     僕は俯いたエースを覗き込むようにして、床にしゃがんで声をかけた。

     「えぇと、ど、どうればいいんだ……? 腕に掴まる? いや、僕の背中に乗るか?」
     「……肩…貸して……」
     「えっ、でも歩くのは…というか立つのもキツいだろ。無理するなよ」
     「……ん、や、今なら……」
     
     エースはそう言って体をむくりと起こした。そして布団から出ると足をぶらりと下げ、ベッド脇に座る。そのまま足のすぐそばに散乱したスニーカーを取ろうとして体を曲げ、「うぇ」と苦い顔をするので、仕方なしに靴を取って履かせてやった。
     靴を履かせ終えると、僕はエースに肩を貸しながら一緒にゆっくり立ち上がって、そして、ゆっくりと一歩踏み出した。ほとんど力の入っていないエースを引きずるのはだいぶ体力がいる。この部屋に残ったのが僕で良かったかもしれない、なんて、さっきまでの焦燥をかき消すように安堵する。
     部屋のドアをなんとか開ける。そのまま開けっぱなしにしておいて、廊下を進む。
     そうしてやっとのことで部屋から数歩過ぎた時だった。エースがふいに、ぴたりと足を止め、僕の腕を掴む。

     「っ……デュース、ごめ…とまって……」
     「ん、どうした?」

     俯いた顔を、ぎこちなく覗き込む──その瞬間僕は息を呑んだ。
     エースの顔が、さっきより一層青白い。歪んだ目元には驚くほど多量の汗が流れ出していて、今にも倒れそうなほどに虚な表情をしていて。

     「……、ッ、は……っ、ぅ、…!」
     「うわっ!?」

     ──と、思った時にはもう、エースの体は重力に任せて床に引き付けられていた。腕を掴まれたままの僕も、咄嗟のことに体がついていかず、思い切りその場に崩れ落ちてしまう。
     とはいえ、この状態のエースに怪我をさせるわけにはいかない。僕は瞬時にエースの頭や体を守るようにして腕を回し、どうにか安全な体制にしゃがみこませてやった。幸い壁に寄って歩いていたので、エースの背中はそこに預けさせておき、僕は肩を支えてやる。
     それでもエースの体はまるで制御が効かないようだった。発作的に嘔吐き続けてしまうようで、何度も僕の手を離れて床に倒れ込みそうになってしまっている。
     血の気のない青白い手が縋るようにして床を何度も何度も掴む。爪先の当たる硬い音が痛々しくて、僕は思わず息を止めた。そのせいだろうか、余計に苦しげな空嘔吐きの声が耳に響いてくる気がする。
     
     「ぉえっ……! え゙っ、…ぁぐ、ッうぇ…!」

     昨晩、過呼吸を起こしてすぐに嘔吐いた時と同じだ。息をつく間もないほどの急激な嘔吐き。どうしてここまで強い吐き気があっても吐けないのか、怖くなるくらいに激しいものだった。
     ひどく虚で潤んだ目が、ぐしゃぐしゃの視界で間下の床だけを見つめている。
     僕は何度も何度も大きく上下する肩を必死になって宥めようとした。でも、ただ震える手を添えるだけで、どうすればいいか分からない。
     昨晩だって突然のことに対処法も分からず、ただ三人揃って心配そうに見つめて背中をさすりながら、早くおさまれ、早くおさまれ、と半分怯えながら祈るだけだったのだから。

     「だ……大丈夫、大丈夫だから、落ち着け…落ち着け。なぁ、ゆっくりでいいから……っ」

     情けなく震えた自分の声が、やけに心臓に響く。繰り返す「大丈夫」は誰に向けて言っているんだろう。
     エースの口から糸を引く唾液が、床に落ちて小さな水滴の跡や水溜りを作る。
     僕は咄嗟にポケットに入れていたタオルを取り出し、気休めに濡れた口元を拭ってやった。するとエースは嘔吐きの間に一瞬だけこちらを横目で見て、ごく小さくだが口を開いてなにか伝えようとしてくる。
     でも何を言っているのか全然わからない。

     「ッうぅ…えッ、ぅぐっ……ゔぁ、はぁッ…はぁっ…ごめ、…ぉえ……ッっ、」
     「先生、すぐ来るからな、くるから…大丈夫、あと少しだから、」

     と、僕は何度も何度も暗示のようにぶつぶつ呟く。
     何回そう繰り返しただろう。そうしているうち、待ち望んだ駆け足の靴音が廊下の向こうから聞こえてきた。僕は暗示の呪文を断ち切って振り向く。
     帰ってきたルームメイトの二人と、そいつらが連れられてきてくれた校医。そのシルエットと足音がだんだん近づいてきて、無意識に涙が滲む。
     僕はその足音をスイッチにしたかのように思い切り立ち上がった。
     目があったルームメイトふたりは、ギョッとしてこちらに駆けてくる。

     「ちょっ、お前らなんで外出てんの!?!?」

     僕は目の前まで駆け寄ってきた二人に詰め寄られたので、すぐに口を開いて説明しようとした。が、帰ってきた二人と、その後ろに居る白衣の姿を見た途端力が抜けてしまって、何故か声が出ない。戸惑っているばかりの僕に、ルームメイト達は眉を寄せて、でも心配そうにため息をついてくる。
     すると、そうして三人固まっている僕らを潜り抜け、白衣をはためかせた先生がエースの側にしゃがみこんだ。

     「……昨晩からずっと?」

     怪訝な顔でそう呟いた校医らしき人に、僕らは揃って頷く。
     すると先生は何やら小型の魔法道具を取り出して口元に当て、誰かに話しかけ始めた。連絡用の特殊な魔法具だろうか。その魔道具がきらめく音と、先生の冷静な声色や何やら専門的な言葉の羅列に、僕の心拍もだんだんと落ち着いてくる。
     そうやって、落ち着いたせいだろうか。ひとつ息をついた途端に頭がクラリとした。
     ふらついた僕の肩をルームメイトが支えてくれる。すぐにハッとして体を起こすが、どこか世界の輪郭がぼんやりとしている気がして落ち着かない。
     そんな僕らを見やって、先生がエースの背をさすりながら、少し息をついて微笑した。

     「……お前らも夜更かししたんだろ? 今日の授業は無理しないように。分かった?」

     そう釘を刺され、僕らは「はい」とか「わかりました」とか、バラバラに気の抜けた返事を返す。確かに、このまま飛行術なんかに出たら箒から落ちて大怪我をしてしまいそうだ。
     そして、もう部屋に戻って起床時刻まで寝ていろと言われたので、僕らは踵を返して部屋に向かう。廊下はもうすっかり朝日に満ちていて、待ち望んだ淡いレモンの色が窓越しに差し込み、あたたかな風を運んでいた。
     その景色と安堵が、どこかぼうっとした頭をふんわりと包んで、一気に眠気を運び込む。
     
     「……」

     でも、この後すぐにベッドに向かったとて、素直に眠れそうにもなかった。
     エースの苦しげな声や先生の声がまだ後ろで響いている。心配と、焦燥と、それから罪悪感がまだ胸や頭の中に根を張っているから。
     きっとルームメイトの二人も同じなのだろう。黙ってため息をつきながら歩く僕らは皆、疲れていながらも険しい顔をしている。
     ──今日は週の最後、金曜日。確か朝一番から錬金術があったはず。この眠気とモヤモヤを抱えたまま鍋をかき混ぜていたら、きっと焦げ付いても気付かない。
     三人揃ってクルーウェル先生にこっぴどく叱られる未来が、ありありと見えた気がした。


     
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