過日の君に祝福を 物心ついた時から病院通いが日常だった。それが入院という形に変化するまでにそう時間はかからなくて、記憶している幼少期の思い出はそのほとんどが白を基調としたどこか無機質な景色の中にあった。
はじめて長期入院が決まった日の夕暮れだった。様々な身体の検査に丸一日時間を奪われたオレは疲れ切っていて、夜が訪れるのも待たずに力なくベッドに横たわっていた。細波のように寄せては返す意識の中、ぼんやりとした夢うつつで聞いたのは「上手に産んであげられなくてごめんね」と啜り泣く母さんの声。オレはその涙を拭ってあげたくて必死に身体を起こそうとするのに、気持ちとは裏腹に指一本ひとつ動かせなくて、もがけばもがくほど意識は遠のいていく。
こんな景色を昔なにかの映画で観た。岸を目指して懸命にオールを漕ぐのに最後は波に飲まれて呆気なく沈んでしまう舟。そうして大破した板切れだけが残される海面。映像から擬似的に味わった無力さが脳裏に蘇る。
でも、本当は掴んだ先にあるのが板切れだって構わなかった。あのときわずかな声だけでも上げることができたなら、日没を待つ部屋でひとり哀しみに沈んでいく母さんの心に寄り添えたのに。
最初に入院したのは、難病を抱えた子どもたちを集めた隔離小児病棟だった。まだ本格的に病状が悪化する前だったせいもあり、時間制限付きで他の子どもたちと顔を合わせる交流の日というものに定期的に参加していた。
彼らのことはよく覚えている。年齢もバラバラ、病状もバラバラ、それでも親許を離れ、知らない大人に囲まれながら過ごす入院生活の中で、同じ子どもという共通点を持った彼らの存在は1番の心の支えだった。
オレたちはみな平等だった。それぞれが幼い頃から理不尽な病魔との戦いを繰り返し何とか今を生きている、生きようともがいている戦友だった。時には互いを慰め合い、時には大人に言えない苦しみを分かち合って涙した。みんなかけがえのない仲間だった。
そうして、後に待ち受ける荒波を思えばひどく穏やかな日々を過ごしていたある日、初めて入院してきた子どもの1人と視線を合わせたとき、生まれてはじめて自分のことを"お兄ちゃん"と呼ばれた。
デューイお兄ちゃん。
おかしな話だけど、そのとき初めて気付いたんだ。その子にとってはオレは年上で、お兄ちゃんと呼称されてもおかしくないくらいの年齢差があって、当たり前のようにごく自然に、その子はオレを"守る側の存在"として認知していたことを。
平等だった仲間との間にはなかった、お兄ちゃんと言う新たな認識。それはまだ定まり切っていなかったオレの自我によく馴染んで浸透し、白い壁に囲まれた隔離病棟と言う小さな箱庭に確かな芽吹きをもたらした。
デューイお兄ちゃん、絵本読んで!
自分よりもさらに柔くて、幼い手。甘えん坊な顔つきで下から見上げては、楽しげに袖を引かれるのが好きだった。こんな自分でも誰かの役に立つことができるのがとても誇らしかった。
ひどい台風の日だったと思う。
急に病状が悪化し、1人ではまともに立てなくなった。
最後に交流の日に参加したときは車椅子に乗った状態で、当然、他の子達に本を読んであげる事も、折り紙を折ってあげることも何もできなくて、ただ全てを察した様子で見上げてくる幼い瞳を、苦しげに喉を鳴らす仲間たちを前に、懸命に笑顔を作って涙を溢さないようにするのが精一杯だった。
次に移された病室は、同じ隔離小児病棟でも最上階の角部屋でとても見晴らしの良い場所だった。遠くまで見渡せる美しい景色とは裏腹に、その景色を眺める心の中はまるで天国に1番ちかいところを選んであつらえられたかのように思えて、自然とその明るい世界を分厚いカーテンの向こう側へと追いやっていた。
きっともう、長くない。
その実感はこの病室に移ってから日に日に増していった。オレの身体を蝕む病魔は、科学が発展したこの時代ですらいまだ解き明かすことのできない難病で、生きるためには体内にあるほぼ全ての臓器を入れ替える必要があった。当然そんなことは不可能で、だから少しずつ足並みを揃えるように弱まっていく体内の器官が完全停止した瞬間がこの世界との別れだと自覚していた。
正直、天国にいけるなどとは思っていない。
親にとってこれだけ不幸な息子がいるだろうかといつも思っていた。毎日見舞いにくる両親に、その窶れた顔に作られる笑顔の皺の深さに、何度も、何度も、申し訳なくて、情けなくて、謝りたくて、全てを吐き出してしまいたくて、けれどできなくて。
同じように笑顔の皺を深くして他愛のない言葉を交わしているだろう自分を、どこか他人事のような心地で俯瞰して眺めていた。ひどい罪を負っている気分だった。天国だなんてもっての外だと、1人になった病室で昏い色に沈む瞳が、そうさせる心が、物語っていた。
日暮れとともに自分の周囲を白いカーテンが覆う。
ここがきっと最終地点だ。最後に自分が存在することを許された空間だ。そう思った。明るい外の世界から明確に切り離された場所。消毒液の匂いと、静寂。低い機械音、高い機械音、時々まじる苦しげな咳込み。
明日からは人工呼吸器が必要になるかも知れないと、病室の外で話している声が漏れ聞こえた。
ああ、本当にオレは死ぬんだ。
あと少し、あと少しで終わってしまう。
そう思ったら、突然これまで遠ざけていた窓の外の景色を見たくて仕方がなくなった。重い身体を引きずり、無数のチューブが繋がった腕を無理矢理引っ張り、医療機器からアラートが鳴るのも気にせずただがむしゃらに両手を伸ばした。
自ら閉ざしていた世界の境界線、その分厚いカーテンを開けて、窓ガラスにぶつかる勢いで身を乗り出し、必死になって鍵をこじ開けて、この死が、時間が、停滞した空気が充満した病室に針の穴のような僅かな隙間を穿つ。
ふわりと風が舞った。夕焼けに染まった遠い公園の景色が目に映った。
ふと、泣き声が聴こえる。小さな女の子だ。誰もいない公園のただなかで、えんえんと声をあげて泣いている。脳裏に蘇ったのは過去の"お兄ちゃん"と呼ぶ甘えん坊な幼な声。
あの子は何をそんなに泣いているんだろう。その両足で地に足をつけて、その両手で風を抱き、その頬に陽の光を浴びることができると言うのに。自由を手にしているのに、何故そんなに泣いているんだろう。
釘付けになってその子を見ていた。そして、その女の子の足元に小さな猫が擦り寄ってきたのを目に留めた瞬間、オレの身体は馴染んだベッドの上に戻されていた。
仰いだ先に見える見慣れた天井。上がっていく呼吸と心拍数、けたたましい医療機器のアラート、けれど周囲で慌ただしく動く看護師と医者の気配を感じながらも、オレの意識はまだ夕焼けに染まる公園で泣いていた少女のもとから帰ってこなくて。
あの子は無事に家に帰れただろうか?
そんなことをぼんやりと考えていた。
バサバサと緋色の風を受けてカーテンが揺れる。次いで誰かの手によってピシャリと閉された窓からは、もう少女の泣き声は聞こえなかった。
朝なのか、夜なのか、分からない。
最初、オレはその姿を死神だと思った。
病院と言う生命維持装置であり、監獄でもある場所で許される数少ない外界との繋がり、読書。読書は物心ついたときから続けている習慣の一つだ。その一つに死神を題材にした物語があった。曰く死神とは、生者の魂を刈り取るために今際の者の傍らに現れる黒い影。振り翳した鎌で魂ごと貫かれた者はそのまま死者の世界へと誘われると言う。
けれど、オレが読んだその物語に登場する死神は気紛れに命を刈り取らないと言う選択をすることがあった。それは彼らの理で言えば定められたモノを歪める行為。到底許されるものではないはずだ。それでも物語の死神はこう言っていた「君の命の可能性を見てみたい」だから今はまだ魂を刈り取らないと。
「わたしは君の命の可能性を見てみたい。君はどうかね?」
突然、その言葉が妙にハッキリと鼓膜を撫でた気がした。重い瞼は開くことができない、けれど朧げな意識の片隅で、自身が横たわるベッドの傍に立つ誰かの存在だけは感じられた。まるで本当に物語の死神のような問いかけだ。
答えなくては。
手繰り寄せた意識の細い糸をゆっくりと束ねていく。
可能性...生きられる可能性が少しでもあるなら、オレはどうするだろうか?でも、生きるってそもそもなんだろうか。今だって生きてはいる、けれど心は病気の進行とともにかたく強張っていった。生きることの価値、理由、何故生きるのか?何故生きたいのか。オレは本当にこの世界で生きていきたいんだろうか?
ふと、黄昏時の公園で泣いていた女の子の姿が脳裏を過ぎる。普通に生きていたって、涙を流すくらい辛いことはある。当たり前に存在する。健常だからと言ってずっと幸せなんて事はあり得ない。でも、だからと言って彼女と自分は同じじゃない。今の自分と少女との間にはハッキリとした明暗が存在している。死を前にして心が沈んだオレに彼女と同じ世界を得る資格はあるのだろうか?それを素直に受け入れられるだろうか?分からない。でも。
理由はわからなくても、同じように涙する心が此処にあるのなら、変わっていけるだろうか。
日常は心を映して彩られていく。怒り、悲しみ、喜び。様々な感情の色彩で描かれた彼女の世界は、きっと白一色の中に死と言う黒い点を滲ませたオレの世界よりも鮮やかだろう。
だったら、オレはその鮮やかさをこの目で見てみたい。物語の中ではなく、本当の世界で。大地に両足をつけて、風を頬で感じて、太陽の光を全身に浴びて、感じてみたい。そうしたら、きっとあの女の子の涙の理由を知って、それを拭う方法だって手にすることができるんだ。
「...君の気持ちは理解した、最善を尽くそう」
それは夢かうつつか、今となっては分からない。けれどそのとき自身の目からこぼれ落ちた涙の温度だけは鮮明に覚えている。
***
そこは消毒液の香りのしない場所だ。
「ねえ、どうして泣いてるの?オレにできる事はある?」
困り果てた表情で立ち尽くす女の子に声をかける。ゆらゆらと波打って不安げに揺れていた視線がこちらに向けられた。
「あのね、飼っている猫がどこかに行っちゃって...見つからないの」
「そっか、それは心配だね...。でも大丈夫!オレも一緒に探すよ」
「本当?いいの?」
「困ってる時はお互い様だよ!」
「ありがとう、えっと...」
「デューイ!オレの名前」
「デューイお兄ちゃん!わたしの飼ってる猫はみーちゃんて言うの」
「オッケー!みーちゃんだね、じゃあ早速、思いあたる場所を探しに行こうか」
「うん!」
そうしてオレは、飼い猫を探す小さな少女と並んで歩き出した。木々の合間を吹き抜け頬に触れる風は優しく、太陽の光は穏やかにこの背中を照らしている。
広々とした公園には多くの人がそれぞれ思い思いの時間を過ごし、彼らが当たり前のように享受する日常と言う1ページの中に確かに自分も存在している。
けれど、それはオレにとって当たり前なんかじゃない。今目の前で通り過ぎていくこの瞬間のすべてが、多くの犠牲と選択の上に成り立ったかけがえのない奇跡なのだから。
「.....。」
賑やかな公園から仰ぎ見るのは白い病棟の一室、天国にすら手が届きそうなあの孤独の中でオレに命の選択を問いかけてきたのは本当に死神だったのかも知れない。ならばいつかその鎌がこの身に振り下ろされる日まで懸命に生きなければならない。たとえどんな苦しみがあろうと、絶望が降り掛かろうと、この世界を選んだあの日の自分自身に報いるために。
「みーちゃんどこ行っちゃったの...」
少女の声に再び視線を公園内へ戻した。穏やかな景色の中に紛れた小さな不安を打ち消してその笑顔を取り戻すのがオレの役目だ。
「安心して、きっと見つけてみせるよ」
もうどこも痛くない、苦しくない、だからどこへだって歩いていける。大丈夫。
かけがえのない奇跡と言う色彩で彩られた世界で今日もオレは生きていく。
これは、たった一つのオレの命の可能性が紡いでいく物語。