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    Kaburi_Monotyan

    @Kaburi_Monotyan

    なんか色々どす黒いです

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    Kaburi_Monotyan

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    タイトルは適当、新人アイドルの日向 蒼真(ひなた そうま)とベテランプロデューサーの橘 (たちばな)のドロドロストーリー。
    話が進むにつれてちょっとした過激描写増えるかもなので注意です。

    『ふぉーえばー愛獲る』1第一章:「出会い」

    オーディション会場の控室は静まり返っていた。ざわついた廊下の声も、厚い扉の向こうでは別世界の出来事のようだ。そこに一人、眩しすぎる笑顔を浮かべる少年がいた。

    「うわあ……! 本物の橘さんだ……!」

    蒼真は、見慣れたスーツ姿の男を見つけて、無邪気な声を漏らす。
    スマホの画面で何度も見た、伝説のマネージャー。数々のアイドルを世に送り出した「プロデューサーの中のプロ」。

    橘は表情を崩さず、短く頷くだけだった。

    「名前は?」

    「日向蒼真(ひなた・そうま)です!オレ……今日のために全部賭けてきました!」

    履歴書も手渡されていないのに、食い気味に言ってのけるその目は、純粋そのもので、どこか“飢え”にも似た光を帯びていた。

    橘の目が細くなる。

    「……受かってから話せ。まずは歌ってみろ」

    それが、2人の最初の会話だった。



    SNS時代の若者と、“昭和感”の残るマネージャー

    蒼真は歌った。踊った。バズるための見せ方も知っていた。
    TikTok、Instagram、YouTube…すべてに最適化された「魅せる天才」だった。
    だが、橘が興味を持ったのはその表面ではなく、その裏──
    歌の最中にふと見せた、無音の瞬間の“目”。

    孤独を抱えている子供の、それだった。

    「……合格だ。明日からスケジュール出す。スマホは管理下になる」

    「えっ、いきなりそんな……」

    「トップアイドルになりたいなら、私の言うことだけ聞け」

    そんな時代錯誤な指導方針に戸惑いながらも、蒼真は頷いた。
    その時、自分でも気づかないうちに「従う」という選択肢しか持てなくなっていたことに、まだ彼は気づいていなかった。



    ──蒼真が事務所入りして2日目、橘が最後のメールを打ち終えて、事務所の灯りを落とそうとしたそのときだった。

    「マネージャーさん。まだ帰んないんですか?」

    声がして振り返ると、蒼真がスマホを弄りながら、スタジオの隅からぬるりと現れた。
    深夜のレッスン後、他の練習生たちは既に帰ったはずだ。なぜ残っていたのか、と問うより早く、彼はニッコリと笑って近づいてくる。

    「帰ったと思ってたよ」

    「うーん、なんか帰りたくなくて...えへへ」

    そう言う蒼真の声は軽い。けれどその目には妙な静けさがあった。
    ふいに橘の前に立った蒼真は、スマホの画面を見せるように差し出す。

    「ねぇ、これ見て。オレのファン、めちゃ病み垢みたい」

    そこには裏垢らしきSNSアカウントの画面が映っていた。鍵垢。IDは伏せてあるが、プロフィールには《認められたいだけ、誰でもいいわけじゃない》と書かれていた。

    「……お前の?」

    「さあ、どうでしょう?」

    いたずらっぽく笑う蒼真の表情に、橘はわずかに目を細めた。
    裏垢を匂わせるようなことをマネージャーにわざわざ言う。気を引きたがっているのか、それとも試しているのか。

    「で?何が言いたい?」

    橘がそう返すと、蒼真は少しだけ首を傾げた。その笑みが、今度はどこか寂しげだった。

    「……ねえ、マネージャーさんはオレのこと、見てくれてます?」

    「仕事としてはな」

    「……そっか」

    ふと、蒼真の視線が落ちた。そして、ぽつりと呟いた。

    「……なんか最近、夢とか希望とか抱いて演技するとパフォーマンス力上がるとか周りの同期は言うんです。でも……そういうのより、“誰かに必要とされる”って感覚のほうがずっとリアルで、自分のパフォーマンスにも磨きかかると思ってるんです、オレ」

    「蒼真」

    「オレが今日、ちゃんと歌えたとか踊れたとか、どうでもよくて。マネージャーさんがオレに“よかった”って言ってくれるかだけ、いつも気にしてる。……それって変かな?」

    蒼真は笑う。でもその目は笑っていなかった。深夜、誰もいないスタジオの片隅、明るく振る舞うその声の奥に、暗く湿った感情がじっとりと溜まっている。

    橘はしばし沈黙したあと、ゆっくりと口を開く。

    「……そういうことは、他のやつには言うな」

    「え?」

    「私はお前のマネージャーだから聞いてやれる。でも、世間には“重い”って言われて終わるぞ。アイドルは“夢を見せる側”なんだからな」

    その言葉に、蒼真の笑顔が一瞬だけ強張った。

    「……そっか。じゃあオレは、マネージャーさんの前でだけ、重くていいってこと?」

    「……」

    橘は答えなかった。

    ただ、灯りを落としたスタジオの中で、蒼真の小さく震えるような笑い声が、どこか脆く空気を揺らした。



    ──ステージのライトが蒼真を照らしていた。ふわりと笑ってピースするその姿は、どこまでも可憐で無垢で、「推したくなる」完璧な新人アイドルそのものだった。

    ファンの歓声、同期の仲間からの賞賛、スタッフの微笑み。全てを受けて蒼真は笑う。

    ──でも、その視線の先に、橘がいない。

    「……あれ、橘マネージャー見に来てなかったんですか?」

    スタッフの何気ない言葉に、蒼真はピクリと表情を曇らせた。次の瞬間にはもう笑顔を貼り直していたが、その目だけが冷たく揺れていた。


    楽屋で1人になった瞬間、蒼真はスマホを手に取り、裏垢にこう呟いた。

    「俺が必死にやってるのにあの人だけは見てくれないし認めてくれない……
    だったら俺から距離近くするしかないじゃん」

    指先が震えている。嫉妬、焦燥、渇望、そして──愛。

    彼の中で、橘という存在が“仕事相手”ではなく、唯一絶対の“所有者”として浮かび上がっていく。



    数日後、橘が他の新人の対応をしている場面を偶然見かけた蒼真は、ただ物陰で橘の気を引くことだけを考えていた。
    どんなに愚かな行為でもいい、あの人からの反応を貰えればそれでいいから。

    その夜、事務所の廊下で橘に声をかけられた。

    「蒼真、足、引きずってるのか?」

    「……うん、でも大丈夫。誰も気づいてなかったし……マネージャーさん以外は」

    そう言って小さく笑う蒼真の声は、甘えるようで、どこか濡れていた。

    「オレ、マネージャーさん...橘さんにだけは気づいてほしかったから……」

    「……お前な、そういうのはちゃんと報告しろ」

    「そっか。でも……心配してくれたってことは、オレのことちゃんと見てくれてたんだね」

    そう言って見上げた蒼真の瞳は、まるで“飼い主を見上げる犬”のように真っ直ぐだった。

    「……オレ、マネージャーさんになら何されてもいいって思うくらい、大事にしてるんだよ?」

    橘は少しだけ視線を外した。だがそれが、蒼真にはたまらなく嬉しかった。拒絶しきれない証に見えたから。馬鹿みたいに足をくじいたフリをして良かったと心底思えた。

    蒼真の執着は、確かに“育って”いた。

    それはまだ芽生えたばかりの、歪んだ愛情。けれどその根は、確実に橘の足元へと伸び始めていた。




    ───橘に出会って間もないある深夜の独白

    蒼真の部屋。誰もいない深夜2時。
    スマホの明かりだけが、ベッドの上でうつ伏せになった彼の顔を照らしている。
    裏アカに、ぽつりとツイートを打ち込む。



    「また今日も、あの人に見られなかった。
     “見てくれ”だけで評価されるの、ほんと無理。
     でも見て欲しいの。お願いだから。」

    「あの人は…違うかなって思ったのに。
     なんで、あんなに平然としてんの?
     俺の“ほんとの顔”見せたら、嫌われるのかな。
     それとも…もっと見てくれる?」

    「もうやだ。消えたい。
     けどステージがないと俺は“俺”じゃない。
     本物って、どっち?」

    「明日も笑うよ、俺。
     あの人にだけは…見つけてほしいから。」



    静かにスマホを伏せ、毛布に潜る。
    でも、通知音はもう鳴らない。
    代わりに胸の奥で、蒼真の名前も顔も知らない誰かの「いいね」の音が、空しく響いている。


    第2章:「ただいま人気急上昇中、アイドル・蒼真」

    テレビ局の控え室。
    収録後の蒼真は、関係者やファンからの称賛の言葉を次々と受けていた。今日も完璧な笑顔、完璧なトーク、完璧なパフォーマンス。

    「蒼真くん、またトレンド入ってたよ!」
    「可愛すぎ!天使!」
    「次のバラエティも決まりそうだって!」

    周囲の盛り上がりの中、蒼真の視線は──
    部屋の隅でクールにスケジュールを確認している、橘ただ一人に向けられていた。

    (見て。今の俺、すごかったよね?)
    (マネージャーさんが育ててる“蒼真”は、もう立派に人気アイドルになってるよ。…それなのに──)

    「…蒼真、次は移動するよ。時間押してる。立って」

    淡々とした声。
    それだけ。

    蒼真は口角を上げて「はーい!」と答えたものの、心の奥で何かが軋んだ。

    帰宅後。誰もいない部屋。
    蒼真はソファに座り、スマホを見つめながら裏アカに再びログインする。

    「どれだけ褒められても、一番欲しい人の言葉がないとなんにも意味ない」

    「あの人ってほんと冷たいよね。
     俺のこと、アイドルとしてしか見てないのかな。
    “人”としては興味ないって顔、してる」

    「だったら壊してやろうかな。
     俺のこと、忘れられないくらいに。
     ねえ、どうしたら“ただのマネージャー”をやめてくれるの?」

    ツイートした後、蒼真はスマホを握ったまま目を閉じる。
    うっすらと、笑っていた。──ぞっとするほど綺麗に。


    【橘マネージャー視点/帰路の車内】

    仕事終わり、深夜の帰路。
    運転手の横、助手席で橘は静かにタブレットをスクロールしていた。
    音楽番組の編集カット。蒼真のステージパート。
    キラキラした笑顔。完璧なフォーメーション。
    声も動きも、かつてのどの新人より洗練されている。

    (…表情がまた一段階、上手くなってる)

    口に出すことはないが、蒼真の才能は本物だと認めている。
    なにより“売れる顔”だ。どこに出しても映える。
    それでも──いや、それだからこそ。

    「……まだ、見せてないな」

    橘の呟きに運転手は気づかない。
    自分でも不思議だった。蒼真は他の新人と違って、全部が初期値から高い。トラブルもない。スキャンダルも避けて動く。それなのに、どこか“薄く”感じてしまうのだ。

    (もっと、追い詰めたらどうなるんだろうな)

    そう思っている自分に、橘は気づいていた。
    蒼真の“本当の顔”を、まだ見たことがない──気がする。
    ステージの上の笑顔はどれも計算だ。
    完璧だからこそ、それはまるで仮面のようだ。

    (お前が心から誰かを必要としたら、その時こそが“本物”か)

    思考の底で、ふと笑いそうになった。
    ──まるで、好きな人を試すストーカーのような思考回路だと。

    だが、橘はそれ以上何も言わず、目を伏せる。
    蒼真に向けてる態度が“無関心”に見えるなら、たぶんそれでいい。

    (勘違いされるのは──都合がいい)

    今はまだ、その距離感が必要なのだ。



    ───ある事務所の夜/誰もいなくなった控室

    「……ねえ、マネージャーさん」

    シャワーのあとの濡れた髪をタオルで拭きながら、蒼真が控室のドアから顔を出す。
    橘はスタッフ用のソファに腰を下ろして、スマホをいじっていた。

    「もう帰ってもいいですよ?今日の予定、全部終わったし」

    「……家の鍵、持ってないんだろ。そのままホテルにでも止まるのか?」

    その一言に、蒼真は頬を膨らませて苦笑した。
    「ほんと冷たいんだから。新人にはもうちょっと優しくしてくれてもよくない?」

    「他の奴らには、そうしてる」

    「じゃあ、なんでオレには?」

    そう言って蒼真はぐいと距離を詰め、ソファのすぐ横にしゃがみこむ。
    橘のスマホをのぞきこみながら、じっと見つめてくる。

    「……マネージャーさんがオレに興味ないの、知ってるよ。でもさ」

    手のひらがそっと、橘の膝に触れる。
    その手は笑顔のわりに冷たく、微かに震えていた。

    「一回くらい、ちゃんと見てほしいな。"俺"のこと」

    「見てるよ。ちゃんと」

    橘の声は淡々としていた。けれどその視線だけは、まるで“試すように”蒼真の動きを追っていた。
    蒼真はそれに気づかず、いや、気づいているのに気づかないふりをして──
    彼の膝に顔を預けた。

    「……このまま寝ても、いい?」

    「……勝手にしろ」

    許可とも拒絶ともつかない言葉。
    でも蒼真は、その言い回しに“拒まれていない”と勝手に解釈して、膝の上で小さく笑った。

    (この人が全部の“基準”だ)

    (この人に見てもらえなきゃ、俺は意味がない)

    そんな執着を抱きながら、蒼真は目を閉じた。
    橘はしばらく何も言わずにそれを見つめ、そしてゆっくりとスマホを伏せた。

    ──“本物”になる瞬間が、近づいている。



    第三章:「ひとつの失態につき、ひとつの傷跡」

    煌びやかなライト、揃った振付、歓声──
    完璧に仕上がっていたはずのパフォーマンス。
    だが──一瞬、バランスを崩した蒼真はステージの端で足を滑らせ、膝をついた。

    「──っ…!」

    すぐに立ち上がって笑顔を作り、動きに戻った。
    誰もが“ほんの小さなアクシデント”として受け流した。
    終演後の楽屋は、温かな空気に包まれていた。

    「蒼真くん、大丈夫?足ぶつけてない?」

    「うん!ちょっと滑っちゃっただけ~ごめんね、心配かけて!」

    「でもすごかったよ!笑顔もパフォーマンスも、最後まで崩れなかった!」

    「えへへ~ありがと!次はもっと頑張るから!」

    ──完璧な“優等生の笑顔”。

    けれど、誰にも見えない更衣室の個室、蒼真のスマホに開かれていたのは裏垢だった。



    【@s0ulx_x00(裏アカウント)】

    「ぜんっっぶ、意味ない。
    あの人は無表情で「おつかれ」って言っただけで終わった。」
    「『大丈夫』って誰かに言うほど俺の心がちぎれてくのどうして?
    俺の全部があの人の中で“失敗”に塗り潰されたかもしれない。」
    「誰か評価してって思うくせに、あの人以外の評価 なんか全部いらないの複雑すぎてむり」

    「はあー今すぐ全部捨てて泣きたい笑
    「大丈夫だよ」って言ってほしいのはあの人だけな んだってば
    わかんないでしょ、ばか」

    「……はやく、見て。
    見てよ。
    ねえ、俺まだ輝けてた?」




    【控室/橘マネージャー】

    (……見ていた。蒼真が崩れた瞬間も、笑顔を貫いた姿も)

    楽屋で交わした「お疲れ」の一言。
    それを蒼真がどう受け止めていたか、本人は知らない。
    橘は蒼真の裏垢もフォローしていないし、当然、見ていないはず──だった。

    が、彼のスマホの通知バーには、なぜか“あの裏垢”からのポストの断片が自動で表示されていた。

    『…あの人の中で“失敗”に塗り潰されたかもしれない』

    橘の指が、無意識にその通知をなぞる。

    「……壊れていくな」

    何かが滲んだ声で、そう呟いた。


    【夜中のマネージャー室】

    煌々としたモニターの光の中、橘はひとり、デスクに座っていた。
    スケジュールの管理画面の隣に開かれた、“鍵付きアカウント”のタイムライン。

    @s0ulx_x00

    そこには誰にも見せない、蒼真の本音が連ねられてる。
    明るく、天真爛漫な人気アイドル──その裏にある、執着、孤独、壊れかけた承認欲求。

    橘は目を細め、スクロールを止めた。
    ステージ後の夜、投稿されたばかりのツイート。


    「ねぇ見てた?俺きっとダメだったよね」
    「“大丈夫”って言ってくれないなら、せめて“見てて”よ……」

    「なんであの人の言葉ひとつで、生きるか死ぬかみたいな気持ちになるのかな...笑」


    数秒の沈黙の後、橘の指が一度だけスマホの画面を撫でる。
    それは“いいね”を押すのではなく、ただ…その投稿に触れる仕草だった。

    「誰よりも俺に依存して、俺しか見ていない」
    「……都合のいい関係だな」

    一見して冷酷なその口調の奥に、わずかな綻び。
    それは「優越感」なのか、「情」なのか──それとも「同種の渇望」なのか。

    (蒼真の視線の先に、俺がいなくなったらどうなるか)
    (……試してみたら、壊れてくれるか?)

    ふと、スケジュール帳に視線を落とす。
    来週の遠征──数泊の地方イベント、その宿泊先に、蒼真の名前が一人だけ書かれていた。

    橘は、ひとつの決断を胸に仕舞い込む。

    蒼真は、まだ知らない。
    “見られていない”と信じていたその裏の顔が、
    最も見られたくない相手に、ずっと“監視”され続けていることを。



    【地方イベント後のホテル/深夜】

    イベントは無事終わり、ファンとのハイタッチ、写真撮影、サイン会も完璧にこなした蒼真。
    だが──
    「ちょっとした表情が硬かった」
    「MCで言葉を噛んだ」
    「マイクを落としそうになった」
    ──そんな些細な失敗が、蒼真の中で膨れ上がっていた。

    ホテルの部屋。

    蒼真は衣装から私服に着替え、窓辺でスマホを握りしめていた。
    眠れず、また“あの場所”に吐き出す。


    「今日もダメだった。あの人また無表情だった」
    「いい加減、期待されてないって気づくべき?」
    「でも、やだよ、見捨てられたくない嫌われたくない嫌いにならないでお願い」


    その頃、橘の部屋──すぐ隣。

    “通知:@s0ulx_x00 がツイートしました”

    消音のはずのスマホが、橘の胸元でかすかに震えた。
    彼はすぐに画面を開き、流れるように投稿を確認する。
    指先が一瞬だけ止まり、どこか艶のある瞳でつぶやいた。

    「──ちゃんと俺のこと見てるな」

    そのまま、スリッパも履かず隣の部屋の前へ。
    ノックもせず、カードキーで開錠。
    鍵を閉めなかったのが悪い──そういう理屈を自分に課して。

    「……なにしてる」

    突然の訪問に、蒼真はびくりと肩を震わせた。
    スマホを咄嗟に伏せて、曖昧な笑顔を浮かべる。

    「えっ、マネージャーさん……びっくりしたぁ、急にどうしたの?」

    「通知が来た。寝てるはずの時間に、投稿してたな」

    「……!」

    一瞬で血の気が引く。
    知られていた──バレていた──“自分だけの逃げ場所”を、マネージャーに。

    「どうして……知って……」

    「少し前から、お前が俺に何を求めてるかぐらい、知ってる」
    「知らないふりをしていた方が、お前が保てるかと思って」

    橘は一歩、近づく。
    蒼真は、ベッドの縁に座ったまま、動けなかった。
    橘の声は、冷たいのに、どこか熱を帯びていた。

    「──でも、俺は今夜決めたんだ」
    「お前が“俺だけを見ている”って証明を、ちゃんとさせようと思ってな」

    「……え?」

    「逃げ場はもう無くしてやる」

    橘の手が、蒼真の頬に触れる。
    その指先は優しく──だが“選ばせない”支配の温度を持っていた。

    【ホテルの一室/深夜】

    「……本当に、全部知ってたの?」

    震える声で問う蒼真に、橘は曖昧に笑う。
    それは初めて見せる表情だった。管理者でも、マネージャーでもない、“男”の顔。

    「最初は興味本位だったよ。裏垢でどれだけ俺の事出すか数えてみたりしてさ」

    「……っ、最悪……」

    蒼真は顔を覆う。羞恥と絶望と、どうしようもない喜びが混ざって胸を灼く。
    恥ずかしい、見られたくなかった。
    でも、見てた。
    この人はずっと、全部──見てた。

    「お前が俺に執着してるって、気づいてた」

    「じゃあなんで、ずっと冷たかったの?なんで、褒めてくれなかったの?」

    声が震えていた。目の奥に涙の膜が張っている。
    その問いには、すぐに答えが返った。

    「褒めたら終わりだと思った。甘やかしたら、お前はすぐ堕ちる」

    「...それの何がいけないの……」

    蒼真の手が橘のシャツを掴んだ。
    潤んだ瞳が、真っ直ぐに橘を見据える。

    「堕ちてもいい、壊れてもいい。マネージャーさんが、橘さんが見てくれるなら、それでいい」

    「お前はアイドルだ。ファンに夢を見せるのが仕事だろう」

    「……夢なんて別にどうでもいいよ。
    橘さんが見てくれないなら、誰が“俺”を見たって意味ない。
    だって……誰も、俺を本当の意味で必要としてくれない」

    叫ぶようなその言葉に、橘の眉がわずかに動く。
    ゆっくりと、彼はしゃがみこみ、蒼真と同じ目線に並んだ。

    「だったら──俺だけに必要とされれば満足か?」

    蒼真の瞳が揺れる。
    思考が追いつかないまま、口元が勝手に動く。

    「……うん。橘さんだけで、いい。橘さんが“俺だけ”を必要としてくれるなら……」

    「じゃあ、お前の全部を証明してみせろ。ファンの前じゃない、お前自身を」

    橘の手が蒼真の顎を持ち上げる。
    触れるだけの距離、キス一歩手前の距離。

    「それができたら──もう、お前から目を離さない」

    「……っ、本当に、ずっと?」

    「ずっとだ。どんなに醜くなっても、お前が俺を求める限り、俺はお前の管理者でいる」

    「じゃあ……もう、逃がさないで。俺からも……逃げないでよ」

    橘の指が、そっと蒼真の頬の涙を拭う。

    「もうとっくに手遅れだよ」



    第四章:「表裏反対」

    ───ステージ裏の空気は歓声と熱気で包まれていた。
    最新シングルのパフォーマンスを終えた蒼真は、汗を拭いながら控室に戻る。
    スタッフが駆け寄り、「今日もバッチリだったね!」と笑顔で声をかけてくる。蒼真もにこりと笑い、可愛らしい声で「ありがとうございます!明日も頑張りますねっ」と応える。
    その姿は、まさに“理想のアイドル”。明るく、前向きで、キラキラとした存在。──少なくとも、表向きは。

    控室の奥。ひとりスマホを手にした蒼真の目が揺れる。指先でアイコンをタップすると、黒背景の裏アカウントが開かれる。


    @zero_s0ul
    【今からリスカしまーす】
    【誰も止めないで。見つけて。せめてあの人だけは】
    【全部、俺だけのこと見てよ🌸さん】
    【薬が足りない 足りない 足りない 足りない】


    投稿は数分おきに繰り返される。手首を斜めに切った写真、乱れた薬のシート、真っ赤な痕跡──。どれも、重たすぎる愛の証明のように。

    そしてそれらは、思っている以上に“届いていた”。

    橘のスマホに届く通知。裏垢の更新を知らせる設定にしてあるのだ。
    彼は自分のデスクで黙って画面を見下ろす。目は氷のように冷たいまま、しかしタップする指には、微かに震えがあった。

    (また増えてる…このアカウント、3つ目か)

    静かに画面を閉じたあと、橘は小さく息を吐いた。

    ──やめさせるべきか。
    ──それとも、もっと堕ちてから俺の手で拾うか。

    葛藤と、どこか支配欲の混ざる視線が蒼真に向けられていた。



    その翌日。
    舞台袖で出番を待つ蒼真は、客席の先──スタッフ席にいる橘を見つけ、ぱっと笑みを浮かべる。

    「マネージャーさん、見ててね──」
    誰に向けたわけでもない小声。だがその瞳には、狂おしいほどの一途さが宿っていた。

    ステージライトが蒼真を照らす。
    会場のファンは一斉に歓声を上げ、推しの名前を叫ぶ。

    「蒼真くん、最高!!」
    「かわいいーー!!」
    「今日も天使すぎる!」

    ──でも蒼真の視線は、ただ一人を追っていた。

    「“あの人”に見てほしい。“あの人”の目に映りたい。“あの人”に可愛いって言われたい。“あの人”に、壊してほしい──」

    そして、ステージ上の蒼真は完璧な笑顔を作る。演技も、表情管理も、全ては“橘に見てもらうため”。
    それ以外の人間なんて、どうでもいい。

    ──通知が鳴る。
    夜のオフィス。スタッフも帰った後の静まり返った事務所で、橘は一人、蒼真の“新たな裏垢”の更新を確認していた。


    @us0_k00
    【今日はちゃんと血出た】
    【でもまだ足りない】
    【だってまた、あの人に褒めてもらえなかったから】
    【この前よりちゃんと歌えたはずなのに】
    【…見てくれてないなら、意味ないよ】


    添付された画像には、赤黒く滲む手首と、握りしめた使用済みのカッター。
    かすかに写り込んだ目元は笑っていた。

    橘は目を細める。
    「また作ったのか。これで…四つ目、か」

    思い出す。あの地方遠征の夜、蒼真が取り繕った仮面を外した瞬間。
    震える指先、縋るような目。
    「見つけてくれてたんですね…」と小さく呟いたあの声。

    ──確かにあの夜、距離は縮まった。
    でも蒼真は、また“逃げた”。

    仮面を被って、新しいユーザーネームで、新しい「助けて」をネットに吐き出し始めた。
    自分にしか気づけないように、わざと少しだけ匂わせながら。

    橘の指が、蒼真の公開Twitterへと滑る。
    そこにはアイドル・蒼真がいた。

    @souma_official
    【“今日の現場も楽しかった〜ᖛ ̫ ᖛ!次の収録もがんばるねっʕ ◦`꒳´◦ʔ”】
    【“みんなの応援、ちゃんと届いてるよ〜!だいすき〜っ♡( ੭ ᐕ)੭*⁾⁾”】
    【”#今日の蒼真 # そまるライブ”】

    絵文字と顔文字が踊るツイートの下に、何百、何千という「可愛い」「天使」「推ししか勝たん」のリプライ。

    ──でも橘は知っている。この“天使”が、今夜も薬の袋を抱えて涙を流していることを。
    ──この“天使”が、愛されたくて、壊されたいほどに依存していることを。

    「誰よりも君を知ってるのは、俺だけなんだよ」

    声に出さず、スマホの画面に囁くように口を動かす。
    裏垢を開けば、そこには自傷と叫びと執着が連なっている。
    表垢を開けば、キラキラのアイドルが「頑張ります!」と笑っている。

    どちらも蒼真。どちらも真実。
    だからこそ──愛おしくて、哀れで、目が離せない。

    “お前が堕ちていく様を、全部見届けてやるよ”

    そんな支配欲に似た感情が、橘の胸をゆっくりと満たしていく。

    ──彼の中で、「仕事」はもうとっくに終わっていた。
    今はただ、「所有」するか、「壊す」か。
    それだけの問題。

    そしてスマホをポケットに仕舞いながら、橘は呟いた。

    「もう少し、深くまで沈んでこい──蒼真」



    ──ステージの上。
    ライトが瞳に差し込む。フラッシュが弾ける。歓声が降り注ぐ。

    「──蒼真くん、今日のパフォーマンス完璧だったよ!表情まで神がかってたって、監督が!」

    楽屋で、スタッフが声を弾ませる。
    カメラマンも、共演の役者も、みんな口々に褒める。
    ──でも、蒼真が聞きたいのは、それじゃない。

    視線はひとつ。
    壁際でメモを確認している、あの人だけ。

    「マネージャーさん…見てたよね、"俺"のこと」

    心の中で呟く。声に出すには怖すぎる。
    でも、あの夜──裏垢を知られていたと知ったあの瞬間から、蒼真の中で何かが変わった。

    (ずっと見られてた。俺の、本当の顔を)

    そう思うと、もう“やめられなかった”。

    人前に出るときの笑顔。
    一秒単位で制御する涙。
    演技の呼吸、声の震わせ方、ほんの一瞬の「間」。

    全部、“橘マネージャーに見せるために”作り込むようになった。

    だって、もし。
    もし、あの人の視線が逸れたら──俺はもう、ここに存在していないのと同じだから。

    「俺がオレであるためには、見てもらわなきゃいけないの」
    「だからもっと完璧にならなきゃ、俺の“推し”であり続けてもらわなきゃ」
    「失敗なんて、許されない。だって、失望されたら──“死んだ方がマシ”だから」

    心の中で何度も何度も呟いて、
    新しく作った裏垢には、また血と薬の写真を載せた。


    「🌸さんに褒めてもらえるまで、何度だって壊すよ。俺のことなんて、俺が好きにしていいんでしょ?」



    でも──演技は、確実に“神懸かって”いった。

    蒼真の歌には震えが宿り、セリフには生きた感情が込められるようになった。
    「蒼真くん、表情の作り方がまるで本物の恋してるみたい」
    「いや、演技っていうより…何かに“憑かれてる”みたいだったな」
    そんな声も聞こえる。

    (そう、俺は憑かれてる──あの人に)

    舞台袖から、橘の視線を感じるたびに、
    ステージ上の蒼真は“極限の幸福”と“錯乱寸前の興奮”の中で輝く。

    誰も気づかない。
    彼のそのキラキラの奥に、どす黒い“執着”が棲んでいることを。

    ──でも、たった一人だけは。
    その異常な輝きを、誰よりも正確に見抜いている。


    「マネージャーさん、もっと見て。
     オレは今日も、あなたに好かれたくて、
     あなたに愛されたいだけで、笑ってるの」


    翌日

    「──次のドラマ、蒼真くんで決定ですって!」

    マネージャー席から告げられたその一言に、現場がざわめいた。
    主役級のオファー。視聴率が期待されるゴールデンタイムの連ドラ。
    今までは“新人の中で注目株”だったはずの蒼真が、ついに“確実に売れる存在”として認識され始めていた。

    (これで──もっと、マネージャーさんに認めてもらえるよね?)

    蒼真は笑った。表向きは喜びを爆発させるキラキラの笑顔で。
    でも、内心はどこかにざらついた違和感が張りついていた。

    ──「誰かに見つかってしまうこと」への、得体の知れない恐怖。



    Twitterには称賛のリプが溢れていた。

    「蒼真くんマジ天使꒰ᐢ⸝⸝´ඉᯅඉ⸝⸝ᐢ꒱表情で泣けるのほんとやばい…૮ ◞ ⸝⸝ ◟ ྀིა」
    「新ドラマの相手役女優いらん、もはや蒼真くんと私で共演したい」
    「好きすぎてリアコ拗らせたー‼️」
    「最近のそーま、なんか“色気”出てきたよね?ww」

    蒼真はそれを眺めながら、心のどこかで舌打ちしていた。

    (違う、俺が見てほしいのは──マネージャーさんだけ、橘さんにだけなのに)
    (他の人に“好き”とか“色気ある”とか言われても、気持ち悪いだけ)
    (俺の全部は橘さんのためのもので、他の誰のためでもないのに)

    そう呟きながら、裏垢にはこう綴った。


    「俺は商品。誰にでも可愛いって言われるために“作られた顔”なんだって。
    じゃあせめて、買った責任くらい取ってよ。ねぇ、🌸さん。」


    その投稿の下には、真新しいリスカ痕の写真。
    指の震えが止まらなかったのか、血のにじんだ手元が微かにブレていた。

    けれど蒼真は気づかない。
    その裏垢のツイートに「閲覧1」と表示された瞬間、
    “彼が思っているより早く、誰かに見られている”という事実に。



    第五章:「光には影が付き物」

    最近──プレゼントボックスに、異変が出てきている。

    “ファンから”と届けられた封筒の中に、
    本人のものとしか思えない写真、手紙、
    中には──蒼真の下校ルートを記した地図まで。

    (蒼真くん、最近ストーカーっぽいの出てきてる…?)
    と、スタッフが顔をひきつらせて囁く。

    「誰にでも笑顔振りまくから、勘違いされるんじゃないの?」

    そんな声まで飛び交う。

    ──でも、それでも蒼真は笑う。
    “橘マネージャーだけ”を見ながら、他の誰にも微笑みをばらまく。

    「可愛いでしょ?オレ演じるの、もう完璧だから」

    そして心の奥では、膨れ上がるもう一つの感情に震えていた。

    (……でも、俺のことを“本当に”見てくれるのは、マネージャーさんだけなんだよ)
    (こんなキラキラを“全部、演技”って見抜いてるの、橘さんしかいないんだ)



    ──蒼真は、知らない。

    ストーカーじみた執着に囚われてるのは、
    実は彼だけではないということを。
    そして、橘の掌の上で転がされていることを。

    その裏では、橘が静かに“もう一歩踏み込む準備”をしていた──。


    とあるレッスン帰り、夜。
    蒼真が事務所の裏口から出た瞬間──風のない夜に、誰かの視線が刺さった。

    「……?」

    とっさに振り返る。誰もいない。
    でも、どこかでシャッターを切るような音が──気のせいではなかった。

    次の日。事務所に届けられた小包の中身。
    “夜の蒼真”を、望遠で撮ったと思われる写真が数枚──。

    蒼真の表情が消えた。
    口元は笑っていた。でもその手は震えていた。

    「……マネージャーさん、これ──」

    何か言おうとしたそのときには、もう橘は動いていた。

    「この件は私が処理する。今後は一人で外出するな。
    車も、ホテルも、マネージャーが手配した以外は禁止」

    「えっ、え? で、でも、オレ──」

    「蒼真、お前は“私の管理下”にいるんだろう?言うことを聞け」

    低い声でそう告げられて、ぞくっとした。
    声も、表情も変わらない。でも──確かにそこに“熱”があった。



    それからの日々は、変化に満ちていた。
    橘が常に蒼真の動きを把握し、付き添い、手配し、時にはスマホの中身にも「管理」という名目で手を出す。

    蒼真のSNSは、表も裏も──
    すべて橘の目の下に置かれるようになった。

    けれど、それが怖いどころか──蒼真は、酔っていた。

    「……マネージャーさん、さ。なんでそんなにオレに構ってくれるの?」

    ホテルのロビーで二人きりになった瞬間、
    蒼真がぽつりと呟く。

    「……俺のこと、好きなの?」

    軽い言い方だった。
    けれど、その裏に潜んだ執着に、橘は確かに気づいていた。

    「違う。お前は“商品”だ。
    だが──壊れても誰にも渡す気はない」

    (ああ、橘さん……ボクのこと、壊れるって分かってて抱えてるんだ)

    蒼真の心が、熱に溶ける。
    愛されてる、そうじゃなくてもいい。
    “橘さんの所有物”になれたなら──それで、いい。



    そして、蒼真はますます演じた。
    “アイドル”として完璧に。
    “表”では笑顔を振りまき、ファンサをこなし、媚びるようなウィンクを飛ばす。


    「” 今日もいっぱいチヤホヤしてくれてありがと~ʕ ˶・ᴥ・˶ ʔ♡ “」


    だが、“裏”ではこう呟く。


    「🌸さんにだけ、見られていればいいのに。
    他のやつが俺に触れようとするのむりきもい殺したい」


    裏垢のフォロワーは数人しかいない。
    本人は気づいていない。毎投稿、すぐに「閲覧1」がつく。

    ──それが、橘であると知っていたら。
    彼はもっと、堕ちていくのかもしれない。



    ストーカーの影は、確かに濃くなっていた。
    だが、蒼真はもう恐れない。

    橘に守られていると信じている。
    そして──その監視の中でだけ、生きていられると。

    橘もまた、口に出さないまま確信していた。
    蒼真はもう、逃れられない。

    彼の“舞台”は、橘のためだけに存在する檻。
    スポットライトの中で、誰よりも美しく、狂っていく。


    【光の舞台、その裏側で】

    蒼真の人気は留まるところを知らなかった。
    連日のテレビ出演、SNSのトレンド入り、公開されたMVは瞬く間にミリオン再生。
    まるで世界が蒼真だけに夢中になっているようだった。

    ──だが、その輝きが強くなればなるほど、
    “影”もまた、濃くなる。

    橘は気づいていた。
    蒼真の公式アカウントに執拗に早くつけられる「いいね」、誰よりも早いリプライ。
    投げ銭の金額が異常に高い固定ファン。
    そして、ライブ会場に必ず現れる“あの女”。

    「……次の地方ライブ、警備を増やしておけ」
    「えっ、でもあの規模でですか? 少し過剰な気も──」
    「いいから、やれ」

    そう強く命じたはずだった。
    だが、“それ”は一瞬だった。



    ライブ中、ステージの真ん中。
    キラキラとライトが降り注ぎ、蒼真がセンターで笑顔を振りまく──
    その刹那だった。

    「蒼真くん……蒼真くん……っ」
    どこか掠れた、女の声。

    観客の一人がステージを乗り越え、
    警備の間をすり抜けて、一直線に蒼真へ駆け寄る。

    手に握られていたのは──包丁だった。

    「え……な、に……?」

    音が止まった。空気が凍った。

    次の瞬間、銀色の刃が蒼真の腹部に突き刺さっていた。
    彼の白い衣装に広がる赤。それを見た瞬間、ようやく世界が動き出した。

    「──蒼真ッ!!」
    誰よりも早く駆け寄ったのは橘だった。

    女は即座に警備員によって取り押さえられたが、
    橘の目に映っていたのは、蒼真しかいなかった。

    「動くな、喋るな……すぐ、病院に──」

    蒼真は震えていた。血に濡れながら、それでも──

    「マネージャー……さん、オレ、失敗……しちゃった……ね……」

    「黙ってろ」

    初めて、怒気を含んだ声だった。
    震える手で彼を抱き締め、救急隊が来るまで片時も離さなかった。



    病院。
    手術は成功。幸い、刃は臓器を大きく傷つける前に止まっていた。

    蒼真は一命を取り留めた。
    ニュースはこの事件を大きく報じ、「狂信的なファンの犯行」として世間は騒然とした。

    犯人は、蒼真への推し活で数百万を使い、
    ライブ配信や距離の近いファンサに“本気の恋”をしていたことが判明。

    だが──その心が報われることはなく、
    “他の誰かに取られる前に壊したい”という衝動に至ったのだという。



    橘は蒼真の病室にいた。

    「……大丈夫か蒼真?」
    彼の問いに、蒼真は首を横に振った。

    「..."俺"のこと、守ってくれたでしょ?マネージャーさん……」
    弱々しく笑うその顔が、異様に美しかった。

    「これで、やっと──証明されたんだよ。
    俺が、どれだけ“欲されてるか”。
    でもね、マネージャーさん──俺、他の誰にも見せないよ。
    俺の笑顔は、全部、マネージャーさん、橘さんのものだから──」

    その声に、橘は応えなかった。
    ただ、ポケットの中で蒼真の“新しい裏垢”の通知を感じながら、
    静かに彼の髪を撫でた。

    (それでもまた、お前は──裏垢を作るんだろうな)
    (どこまでも俺に気づかれたいと願って)

    (だから俺は、また──監視を続ける)

    (お前が俺を“見て”と叫び続ける限り──)



    こうして、蒼真の人気はますます上がり、
    その背後では橘による監視と支配が密やかに進行していた。

    舞台の中心に立つ彼は、誰よりも輝いて──
    その実、狂気と依存の檻の中で、愛され続けていた。


    【儚く、可愛く、貴方に愛されるために】

    事件から数ヶ月。
    蒼真は、ますます“売れて”いた。

    事件の影響で一時的な活動休止を経たことで、
    彼に向けられる関心は同情と好奇のまなざしを帯び、
    復帰した時には──すでに“カリスマ”のように扱われていた。

    「どんな姿も、彼の演技は人の心を打つ」
    「生まれ持った感受性と透明感……次世代のトップスターになる」
    ──そんな称賛が、蒼真の演技力を語るとき、常について回った。

    けれど、蒼真だけが知っていた。
    それが“狙って身につけた演技”だということを。

    刺されたこと、流れた血、震えた感情。
    その全てが、今では“役作り”に使える素材になった。
    儚げに笑う仕草、怯えるように瞬く睫毛、喉の奥で震える声。
    それらすべてが、「守ってあげたい」「愛したい」と思わせる武器になると──彼は理解していた。


    最近では、動画活動にも精を出していた。
    TikTokで可愛い振り付けのダンスを笑顔で踊り、
    YouTubeではちょっと天然な様子でゲーム実況。
    「えー! ここでやられちゃうの!? うそーっ!笑」
    そう言ってケラケラと笑う蒼真は、どこまでも“無邪気”だった。

    顔文字付きのツイートは今日も順調。


    《” 今日は新作動画あがるよ~!見てくれたら嬉しいなっ(◍¯﹃¯◍)チャンネル登録もよろしくねっ!ξ´-ﻌ-`Ҙ “》

    どれだけ可愛い顔をしても、どれだけ自然に見せても──
    蒼真は、いつも「橘に見られている」と思っていた。

    それが分かっているからこそ、裏垢も新調した。


    「” 今日はいつもより大きく切った。血、いっぱい出たよ。見て? “」
    「” 動画撮影前にODした。バレなかった。すごくない? “」
    「” 誰にも止められない。……🌸さんは、見てるだけでしょ? “」


    そう、蒼真は分かっている。
    このアカウントも、あの人は絶対に──見てる。

    (でも、それでも作る。気づかれるために、知ってもらうために──)


    ──表の“蒼真”は完璧だった。
    儚く、可愛く、天使のようで、誰よりも努力家に見える。

    裏の“蒼真”は壊れていた。
    刺されたことすら“愛される理由”に昇華し、
    今では痛みすら、喜びに変わっている。

    「俺の事、見えてる……? ねえ、橘さん。
    今日の動画、どうだった? かわいかった?
    ……血を流した体で、あのダンス、踊ったんだよ?」

    ──見つけてほしい。けれど、救われたくはない。
    監視されて、知ってもらうことでしか満たされない“存在欲”。

    その執着に気づいている橘だけが、
    静かに裏垢の投稿を読み、
    誰にも言わずに、それを“保管”していた。


    蒼真はどこまでも堕ちていく。
    けれど、表の蒼真は、どこまでも愛されていく。

    その歪なギャップが、二人の間の“秘密”であり、
    橘が蒼真から目を離せない最大の理由だった。

    ──そして今日もまた、新しい動画が上がる。
    完璧な笑顔、計算された無垢、儚さの裏に滲む狂気。
    それらすべてが、“愛されるための演技”として。


    「橘さんが……ちゃんと、見てくれるようになったから。
    俺、もっと上手くなるよ。
    ──“愛されるオレ”を、演じきってみせるから」




    ──誰よりも、俺が蒼真を見てきた

    ステージの上、血に染まった蒼真の姿を見た瞬間、
    橘の中に湧いたのは“恐怖”ではなかった。

    それは、明確な──怒りだった。

    (なぜ、お前なんかが、蒼真を──)

    スタッフよりも早く舞台に駆け上がり、
    刺さった包丁を抜かないように慎重に彼を支えたあの瞬間。
    震えていたのは、彼自身の手じゃない。
    怒りに手を震わせていたのは、橘自身だった。

    その女は、熱心なファンだったらしい。
    ライブ配信に大金を投げ、地方遠征にも毎回足を運び、
    SNSでは「蒼真くんは私だけの王子様」などと書き込んでいたという。

    (笑わせるな)
    (お前は何も、蒼真のことを知らないくせに)

    血を流し、無垢に笑い、虚ろな目で愛を乞う──
    そういう“蒼真”を知っているのは、誰だ?

    誰が裏垢のすべての投稿を保存し、
    誰がODのタイミングや傷の深さまで把握し、
    誰が“蒼真という存在”の真実を監視し続けてきたと思っている。

    ──俺だよ。
    “俺だけが、蒼真を見てる”。
    そう思っていたのに。

    “推しが振り向いてくれない”という理由だけで、
    誰かに刺されるなんて理不尽だ。

    (ふざけるな。……あいつは、俺のものだ)



    ──退院して以降、蒼真の演技力は格段に上がった。
    目の潤ませ方、笑みの切なさ、吐息のタイミング……
    明らかに“計算された愛され方”を学んでいた。

    おそらく、演技の中に“あの日の痛み”を組み込んでいるのだろう。
    それはもう、狂気的なまでに緻密だった。

    そして、裏垢もまた新しくなっていた。
    “俺は見ている”と伝えたはずのあの日の会話を、
    彼は──理解してなかったのか、それとも。


    「“久しぶりに、たくさん切った。血、綺麗だった。” 》」
    「“ODしてもいつも死なないんんだよね。俺、強いでしょ?” 」
    「“誰にも必要とされてないけど……🌸さんは、どう?” 」


    画面越しに呟かれるその言葉を、
    橘は今日も静かに見つめている。

    (ずっと俺が、俺だけが見ていてやる)
    (他の誰にも、触れさせるつもりはない)


    蒼真のSNSも動画活動も、今や全て橘の監視下にあった。
    スタッフには「話題性と事故防止のため」と伝えたが、
    本当の理由は──他の誰かが、蒼真を“好き”になるのが許せないから。

    蒼真の“愛され演技”が炸裂するたび、
    顔文字入りのかわいいツイートが拡散されるたびに、
    心の奥で黒い感情が渦巻く。

    (誰がお前を“育てた”と思ってる)
    (誰よりも、深く、深く見てきたのは──俺だ)


    事件を経て、橘は一つ決意を固めた。

    「──誰にも奪わせない。
    蒼真が、蒼真のまま終われるように、
    “俺が最後まで管理してやる”」

    それは保護なんかじゃない。
    共依存でも、愛でもない。

    執着だった。

    けれど、それを“マネージメント”と呼べる立場が、
    橘の最後の理性だった。


    ──今日も裏垢の通知が来る。
    いつも通りのリスカ報告。
    切り方も深さも、以前より手慣れている。

    (また俺に、見てほしいってことだろ。……ああ、見てるよ)

    監視画面の中、蒼真は今日も“愛される演技”をしている。
    光の当たる場所で、無垢な笑顔を振りまきながら、
    その裏で──血を流しながら、橘だけに愛を乞うている。

    「……かわいいよ、蒼真」

    ──そう呟いた声は、本人に届かない。

    けれどそれでも、今日も橘は“監視”をやめない。


    「一番のストーカーは……俺だよ。蒼真」



    【なんで、“君”じゃないんだろうね】

    大きめのキャップにマスク、フードを目深にかぶって。
    こんな格好じゃなきゃ、もう街なんて歩けない。

    ……それでも、蒼真はその日、わざとそこを通った。

    駅近くの大手ショップ。
    アイドルの公式グッズを扱うフロアに、自分のコーナーがある。
    新発売のアクスタや写真集。
    「天使すぎる笑顔」と騒がれていた例のブロマイド。

    ──“愛されてる”。
    ──“好かれてる”。

    表面上はね。
    でもそれは、“橘じゃない誰か”からの愛だ。

    その棚の前に、数人の女の子たちが立っている。
    「えっ、蒼真くん新しいグッズ出たんだ!」
    「この笑顔ほんとやばくない? これだけで死ねる」
    「最近の配信も最高だし、マジでリアコ製造機……」

    ──リアコ。

    その言葉を聞いた瞬間、
    蒼真は喉の奥がぞわついた。

    (なんで、そんな目で俺を見るの)
    (“君”じゃないのに……橘さんじゃないのに)

    グッズを手に取るファン。
    笑いながらスマホで写真を撮る声。
    「このアクスタ持ってるとそーまくんに守られてる気がする~」なんて言葉。

    (気持ち悪い)

    蒼真の中で、黒いものが膨らむ。

    (俺は、そんな“誰にでも優しいアイドル”じゃない)
    (演じてるだけ、全部嘘)
    (俺が見てほしいのは、橘さんだけなのに)

    心臓がギュッと締め付けられる。
    息が詰まるほどの苛立ちがこみ上げてくる。
    何も知らないくせに、勝手に“好き”を語らないで。

    ──あの夜、血の匂いの中で見上げた橘さんだけが、
    唯一、俺を見てくれていた。

    (……それ以外はいらない)

    蒼真はその場からそっと立ち去った。
    マスクの下、口角だけがわずかに引きつっている。

    (……でも、君はきっと知らないよね。
     こんな俺を“かわいい”って言ってたんだ、あの人は)

    マネージャーが、橘が見てくれている。
    裏垢だって、全部。
    病んでるツイートも、リスカの跡も、
    演技中に一瞬だけ浮かぶ“助けを求める瞳”さえも──

    (全部、気づいてる)
    (……だから、もっと“俺だけ”を見て)

    蒼真はその夜、新しい動画の収録に向かった。

    “寝起きでグズグズの時に踊ってみた笑”。
    少しだけわざと、声が震えるように。
    少しだけ、目を潤ませて。

    “演技”なんかじゃない。
    ──これは、愛の証明。あなたに見てほしい、可愛い俺を。

    その投稿の通知を、橘のスマホがすぐに拾ったのを、
    蒼真は知っていた。

    (ねえ、橘さん。……俺のことだけ見てて)

    ──

    楽屋の扉をノックして、返事も待たずに橘は中へ入った。

    蒼真が鏡前に座っている。
    軽くメイクを落とし、ゆっくりと髪を整えているその横顔は、
    ステージで見せていた“愛されるための笑顔”とはまるで違う。

    「……さっきのファンサ、控えろとは言わないが、やりすぎだ」

    低く、落ち着いた声で橘は告げた。

    「えー……?だって“求められてる”んだもん。オレがそういうの、ちゃんと返してるだけだよ?」

    蒼真は軽く笑って返すが、目は鏡の中で橘の方を見ていた。
    少しだけ、挑発するように。

    「マネージャーさんこそ……最近よく来るよね。リハも、本番直前も、控え室も……」

    「マネージャーだからな」

    「へえ、“マネージャー”ってそんなにべったりなんだ……」

    言葉の端々に棘がある。
    それでも、橘は微動だにしなかった。

    が、次の瞬間――
    蒼真がゆっくりと立ち上がり、すっと橘に近づいた。

    「ねぇ……“俺のこと”、ちゃんと見てくれてる?」

    「……ああ。ずっと、見ている」

    吐き捨てるように出たその言葉には、橘自身も気づかない熱がこもっていた。

    「じゃあ……もっと見てよ」

    耳元で囁くように言って、蒼真は橘のネクタイに指をかけた。
    ふと、その手を橘が強く掴む。

    一瞬の沈黙。

    「──私に、その顔を向けるな。私含めた他の誰にも、だ」

    「……っ」

    言葉の意味を飲み込んだ蒼真が、少しだけ息を詰める。

    「お前は私の“商品”だ。“アイドル”として守る。それだけだ」

    そう続けながらも、橘の目は蒼真の唇に、喉に、繊細な首筋に落ちていた。
    誰よりも蒼真を見てきた自分だけが知っている、演技と本音の境界。
    その輪郭が今、溶けかけていた。

    “マネージャー”としての橘の理性と、
    “監視者”としての橘の本能が、今にも重なり合おうとしていた――。

    『お前は私の“商品”だ。“アイドル”として守る。それだけだ』

    低く告げる橘の言葉に、蒼真はわずかに目を伏せる。

    だけどその瞳は、
    明らかに“それだけじゃない”ものを求めていた。

    「……それ、本音じゃないでしょ」

    蒼真の指が、再び橘の胸元に触れる。

    「本当は俺に、“俺だけに”……」

    橘の視線が、蒼真の唇をなぞる。
    あと少し──もう1ミリ距離が詰まれば、言い訳のきかない関係になる。

    その瞬間──

    「あ、すみませーん!蒼真くんの明日のスケジュール確認したくて……」

    コン、コンッ──

    控えめだが無遠慮なノックが、空気を裂いた。

    二人の体が、ぱちんと切り離されるように離れる。

    蒼真が咄嗟に後ろを向いて姿勢を直し、橘も無言のままネクタイを直した。
    一拍置いて、橘がドアの方へ近づき、低く返事をする。

    「今はタイミングが悪い。10分後にもう一度来てくれ」

    「あっ……すみません!後で来ます!」

    足音が遠ざかっていく。
    その場に再び沈黙が落ちた。

    蒼真はまだ、鏡越しに橘を見ていた。
    その唇が、かすかに笑う。

    「惜しかったね、マネージャーさん」

    「……お前、わざとやってるだろ」

    「さあ?オレ、ただ“マネージャーさん”に見ててほしいだけなのに」

    その“だけ”の中に含まれる狂気と独占欲を、
    橘はよく知っていた。

    そして今、自分もまた──
    その同じ熱の中に、確かに身を投じかけていた。

    ──

    ライブ本番。
    蒼真はいつもより“儚く”、“弱さ”すら滲ませるようなパフォーマンスをしていた。

    泣きそうに震える声で歌い、
    ステージの端で手を振る仕草ひとつ、客席を見つめる目線ひとつ。
    どれもが「見て、オレは君だけを見てるよ」と訴えるような甘さに満ちていた。

    ファンの歓声が、天井を突き破るほどに響く。

    ──でも、橘だけは気づいていた。

    “その目線は、不自然に一か所に固定されていたこと”

    “その笑顔が、まるで自分の答えを待っているようだったこと”

    “サビの最中にふっと漏らした「見てて……」という言葉が、マイクにすら乗らない声であったこと”

    ステージ袖、
    橘は手をポケットに突っ込んだまま無表情で立っていた。

    だが、その指はポケットの中でゆっくりと拳を握っていた。

    ファンは皆、蒼真のパフォーマンスに泣いた。
    「彼に救われた」「心が通じた」「本当に愛されてる気がする」
    SNSではそうした言葉があふれ、蒼真はまた一段と“愛されるアイドル”になっていく。

    だけど、橘は知っていた。

    あの歌も、目線も、声も、笑顔も──
    自分だけを刺していた。

    「……わざとだな」

    控え室で、橘はそう呟いた。

    ポケットの中、スマホには新しい通知。

    ──“裏垢”が更新されていた。


    《今日も“🌸さん”だけ見てたよ。分かった?》


    加工で少し顔を隠しにっこり笑った蒼真の写真と、
    その直後に投稿された写真には、
    新品のリストカットの跡と血の滲む包帯。

    「ほんと、どうしようもないな……」

    呆れ混じりの吐息。だが目は、スマホから離れなかった。

    午後。
    仕事を終えた蒼真が事務所の裏口からそっと出てきた時だった。
    外は既に薄暗く、関係者しか知らないはずのこの出口には、本来誰もいるはずがない。

    「蒼真くんっ!」

    声をかけてきたのは、見覚えのない女性だった。
    20代前半、やや痩せ気味で目元だけは異様にギラついている。

    「いつもライブ行ってるんだよ!配信も全部見てる!…ほら、この前“見てて”って言ってたよね?あれ、私のことだと思った」

    笑顔で距離を詰めてくる彼女に、蒼真は一瞬だけ表情を固める。

    ──ああ、まただ。
    “自分だけが選ばれた”と、勝手に夢を見る奴。

    「ありがとうー!いつも応援してくれて嬉しいよ~」
    笑顔を作る。ファンサの延長。表の顔。

    でも、それで終わらなかった。

    「ねえ、今日ちょっとだけでいいから話そ?私、蒼真くんと…ちゃんと会いたくて…」
    そう言って彼女は、蒼真の腕に触れ、そして──掴んだ。

    “ギュッ”と、爪が食い込むほど強く。

    「っ……やめ──」

    瞬間。

    「離せ」
    低く、乾いた声がその場の空気を切り裂いた。

    彼女が驚いて手を離すと、そこには橘が立っていた。
    どこから見ていたのかはわからない。ただ、
    彼の目は“完全に殺気”を帯びていた。

    「関係者以外の立ち入りは禁止です。あなた、名前と身分証出して」

    「えっ…え、あの、私…!」
    女がうろたえる間に、スタッフが裏から飛び出し、事態を収拾。
    蒼真は橘に庇われるようにして建物の中へと戻されていった。

    控え室。
    蒼真は黙って自分の手首を見つめていた。
    赤くなった腕には、あの女の手の形がうっすら残っていた。

    「オレが…“そう見える”のがいけないのかな」

    ぽつりとこぼしたその言葉に、橘は返さなかった。

    ただ、静かにその赤くなった腕を取って、自分のハンカチを巻いた。

    「他の誰かに見せるな」

    そう呟いた橘の声が、
    どこまでも冷たく、
    どこまでも独占的だった。

    ──帰り道だった。
    蒼真はスタッフに見送られ、タクシーに乗り込む──はずだった。
    しかし「近くだし、歩きたい」と言って歩き出したその10分後、橘のスマホが鳴った。

    『……またファンに声かけられてるっぽい。』

    別ルートで監視していた業務提携先の警備担当からの通達だった。
    相手は暴力的ではなかったが、距離の詰め方が明らかに“おかしい”。
    蒼真が笑顔でやり過ごす様子の映像が添えられていた。

    橘は無言でスマホを閉じた。
    頭の奥がじりじりと焼けるように熱い。

    ──なぜ、またこんなことに。
    ──なぜ、彼は笑っている。

    「歩きたい」だ?
    危険があるって何度言った。どれだけ監視を強化しても、
    蒼真自身が“外”に触れようとする限り、それは意味を成さない。

    (だったら……)

    橘の中で、ひとつの“答え”が形を取りはじめる。
    ──いっそ、全部自分の管理下に置いてしまえばいい。

    プライベートなんて曖昧な領域をなくせばいい。
    仕事も生活も、移動も交友関係も、全部。
    あの笑顔も、涙も、痛みも、
    “他の誰かに見られる前に、自分が先に知っておくべきだ”。

    最近増えてきたストーカーや過激なファンの存在。
    それを「保護」の名目に使えばいい。

    「一人暮らし、やめさせるべきだな…」

    橘の口からこぼれた声は、もうマネージャーのそれではなかった。

    守るためだ。
    そう思えば、いくらでも手段は正当化できる。

    だって蒼真は、
    “自分だけのものになるために”生まれてきたんだから。

    「──このままじゃ、お前の身が危ない。蒼真」

    仕事終わり、楽屋で2人きりになった瞬間、橘はそう切り出した。
    蒼真はタオルで髪を拭いていた手を止め、小さく瞬きをする。

    「……また?」

    「“また”じゃない。今回はすぐ警備が間に合ったからよかっただけで、次はどうなるか分からない。そろそろ本気で考える時だ」

    橘は迷いのない声で言い切る。
    淡々と、それでいて何かを押しつけるように。

    「こっちが手配したマンションに引っ越せ。防音・防犯完備だ。必要なら警備も常駐させる。通勤も俺が全部送迎する」

    「え、それって──」

    「お前は仕事だけに集中していればいい。余計な雑音は全部、私が処理する」

    優しさのように見せかけた言葉。
    でもその“処理”という響きの冷たさに、蒼真はほんの少しだけ眉を寄せた。

    (──俺のこと、守ろうとしてくれてるんだよね?)

    けれど、最近の橘は“優しい”だけじゃない。
    どこか、見透かすように、見張るように、ずっと自分を見ている。

    SNSの活動時間、裏垢の変化、顔色、演技の細かな癖、
    まるで一挙手一投足に監視の目がついているようだった。

    そして橘は、次の言葉でとどめを刺した。

    「それと……住まいの件だけど、私も一緒にしばらく暮らすことになると思う。管理の都合上な」

    「……え?」

    驚きよりも先に、心臓が跳ねた。

    「私が居た方が、安心だろ? 何かあった時、すぐに対処できる。
    お前ももう……一人でいるのは、怖いはずだ」

    (違う。怖いのは、橘さんの方なんじゃないの……?)

    そんな思いが、一瞬頭をよぎる。
    でも声にはできない。もうできない。
    だって蒼真は、もう“橘の作った世界の中”でしか生きていけないから。

    ──そして数日後、
    蒼真は橘マネージャーと“共同生活”を始めることになる。

    新しい住居。
    カードキー、監視カメラ、部屋割り、スケジュール全管理。
    「保護」という名のもとに、“自由”は少しずつ削られていく。

    それでも蒼真は、
    「橘さんと一緒に居られる」その一点だけで、
    まだ、幸福を感じようとしていた。

    リビングに入ると、空調の温度がちょうどいい。
    冷蔵庫には彼専用の飲み物。
    洗面所には化粧水とドライヤーと整髪料。
    “用意されていて当然”のように整えられた生活空間。

    ──でも、それを蒼真が用意したことは一度もなかった。

    朝起きれば、すでにスケジュールが整い、
    外出時のルートも、移動の車も、会話の内容すら、
    気づけば“選択肢”というものが消えていた。

    「……なあ、これ……オレの好みのシャンプー、変えた?」

    ある朝、ふと気づいて尋ねると、
    橘はあっさりと答える。

    「ああ。こっちの方が、香りが柔らかい。映像での見え方もいい」

    「……」

    何も言い返せなかった。
    だって“橘が決めたこと”に、口を挟んだことがそもそもなかったから。

    けれどある日、夜遅く、
    寝室に向かう途中で──
    蒼真はふと見てしまった。

    書斎のドアがわずかに開いていて、
    その向こうのPCモニターに、
    「蒼真の部屋」のカメラ映像が映っていた。

    ──寝ている自分。
    ──ぼんやり携帯を見る自分。
    ──裏垢を開いた瞬間も、見られていた。

    「……」

    音も立てずに、静かにその場を離れた。
    確認する勇気がなかった。

    (なんで……)

    怖い。
    でも、安心する。

    何をしても、どこにいても、橘が見てくれている。
    管理されて、縛られて、自由がなくなっていく。

    でもそれは──
    “誰よりも深く、橘に求められている”証でもあって。

    翌日、仕事中にスタッフが「最近疲れてない?」と声をかけてくる。
    蒼真はとびきりの笑顔でこう返す。

    「だいじょうぶ!マネージャーさんが、ちゃんと全部見てくれてるから!」

    その“笑顔”の裏にある何かに気づいたのは──
    きっと、橘だけだった。

    ──

    「これ以上、口座の履歴に“怪しい動き”があったら、蒼真の管理権限は全部凍結する」

    以前、何気なく買った睡眠導入剤のパッケージを橘に見られた夜、
    そう言われてから、
    蒼真は一度も“自由な買い物”をしていない。

    ──気づけば、何かを欲しいと思うたび、
    まず「橘に許可を取らなきゃ」が口に浮かぶようになっていた。

    (──でも、リスカなら……カミソリ一本あれば、いつだって)

    橘の目を盗んで、自宅の奥、寝室の一番奥のクローゼットの裏。
    古い箱の奥にしまい込んだ、カミソリ。

    新品ではない。
    錆びついた刃先に、自分でアルコールを吹きかけて何度も磨いたもの。

    ODの代わりに、それを選ぶ夜が増えた。

    腕はもう使えない。
    以前、入浴中に橘に“見つかった”時のことがまだ脳裏に焼き付いてる。

    だから今は──
    太もも、腰骨の内側。
    服を脱がなければ絶対に見られない、けれど深くて動けば痛む場所を選ぶ。

    「……ん、っ……」

    ぎり、と唇を噛んで音を殺す。
    鋭い痛みと、流れる感触に、脳の奥が静かに震える。

    (これで……落ち着く)

    落ち着く。
    けど、
    このままじゃ足りなくなるのも、もう分かってる。



    深夜、布団の中で携帯を開く。

    「#リスカ」「#もうどうでもいい」
    鍵付き裏垢に画像を載せる。

    暗がりで撮った、血が滲む肌。
    ただの注意喚起のような文章と、
    最後に添えられたひと言。

    「誰にもバレないと思ってたけど、本当は見ててほしかったんだよ」

    ──橘には、きっと見られてる。
    それでも、
    それでもやらずにはいられなかった。

    唯一の逃げ場で、
    唯一“自分で決めて選べる”痛みだけが、
    今の蒼真の全てだった。

    投稿してから数時間後。
    その夜も橘は、いつも通りだった。

    「今日の動画編集、後で最終チェックして出す。予定通り」

    「……うん、ありがと」

    顔も声も、何も変わらない。
    朝の挨拶も、仕事の連絡も、全て“いつも通り”──それが怖かった。

    (……気づいてない? いや、そんなはずない)

    裏垢は鍵付きで、検索に引っかかるようにはしていない。
    けれど、橘は知ってる。
    一度目のリスカも、二度目の投稿も、
    今まで全部、彼は“気づいていた”。

    ──だから今回も、きっと見ているはず。

    蒼真はじわじわと、
    心の中に“焦燥”という名の火種を育て始めた。

    橘が見ていないなら、それはそれで不安。
    橘が見ているのに何も言わないなら──それはもっと、怖い。

    (……ねぇ、なんで……なんにも言わないの?)

    今朝、いつもより少し深く切った。
    それを撮った画像も載せた。
    「またやった」って、明確に書いた。

    なのに──橘は、何も言わない。

    (怒ってる? 呆れてる? それとも……“もういい”って思ってる?)

    「……ねぇ、橘さん」

    気づけば、声を出していた。
    仕事の合間、PCに向かう橘の背中に向かって。

    「ん?」

    「……オレのこと、なんか……変だと思ったり、してない?」

    橘はモニターから目を離さないまま、「どうして?」とだけ返す。
    その声も、表情も、いつものトーンのまま。

    (やっぱり──気づいてる。でも、言わないんだ)

    蒼真は、心の底がじわじわと崩れていく感覚を覚えた。

    あんなに「見ててほしい」と思っていたのに、
    今は「見てるのに黙ってる橘」が、
    誰よりも遠くて、誰よりも残酷だった。

    (……ねぇ、だったらもっと見てよ。もっと俺を“壊す”くらい見てよ)

    次の投稿は、
    今までよりもっと深い傷と、
    “助けて”にも“気づいて”にも見える、
    ぎりぎりの言葉を添えるかもしれない。

    だけどそれすら、
    “試してる”自分がいることに気づいて──
    蒼真は、自分自身にも吐き気がした。


    裏垢ポスト
    「"ねぇ、ねぇ、ねぇ
    誰か気づいてよ、誰でもいいなんて嘘
    本当は──たった一人だけが、見つけてくれたら、それでよかったのに。"」


    画像は、薄暗い部屋で撮った太ももの傷跡。
    赤黒く乾いた痕、その上に添えられた「笑った顔の絵文字」。

    表の蒼真しか知らない人が見たら、まさか同一人物とは思わないような、
    狂気すら滲む投稿。

    (──それでも、何も言わない。
     どれだけ更新しても、反応は何一つない)

    橘の沈黙が、蒼真を急かす。

    【次の日】
    裏垢ポスト
    「"バレなきゃ、なんでもできる。
    でもバレてほしい、じゃないと意味がない──
    今日もありがとう、サプリ飲んでから寝るね。"」

    ※添付画像:手のひらに乗った大量のサプリメントと、睡眠導入剤に酷似した市販薬。

    それはもはや“演出”の粋を超えていた。

    だが、本当に命を絶とうとはしていない。
    “バレるギリギリ”のライン、
    “止めてほしい”が滲むラインを、蒼真は本能で見極めていた。

    それでも橘は──何も言わない。

    (……どこまでなら“見てて”くれるの?
     どこまでやったら“手を伸ばして”くれるの?)

    焦りと苛立ちが、蒼真の投稿をさらに歪ませる。

    裏垢ポスト
    「"包帯って、可愛いよね
    隠してるのに、見せてるみたいで
    “誰かに見せたい”って欲が一番よく出ると思う。"」

    この頃にはもう、蒼真の裏アカウントには“真の意味での理解者”などいなかった。
    気づいて止めようとする人も、通報する人もいない。
    ──いや、たった一人だけが、全部を見ているのに何もしない。

    それが橘だった。

    見られてる。見られてる。
    でも、反応がない。

    それが何よりも堪える。

    (……橘さん、見てるんでしょ?
     お願いだから、黙ってないで。
     止めて、よ……)

    けれど返ってくるのは、
    いつもの「仕事の報告」と、
    「お疲れ様、明日も早いから、ちゃんと寝ろよ」の業務連絡だけ。

    (これ以上、何を晒せば……?)

    追い詰められた蒼真の投稿は、次第に“動画”へとシフトしていく。

    “静止画”じゃ伝えられない表情、声、震え、息遣い。
    深く切込みを入れ血にまみれた手首を押さえ、笑いながら「だいじょーぶだよ」と繰り返す映像。
    ──それを見て、橘が“本気で動く”ことを、
    どこかで期待している自分がいる。

    けれど──それでも沈黙が続くなら、
    次に蒼真が選ぶ手段は──。



    第六章:「おおきな海月にごようじん」

    武道館ライブ、3日前──

    「……よろしくね、蒼真くん。
    本番まで緊張しないように、僕が支えるから」

    そう言って笑ったのは、同期の人気アイドル・葵律(あおい りつ)。
    明るくて、誰とでも距離が近くて、何より“蒼真にだけ少し特別に優しい”。

    (……なんで、そんなに優しくするの?)

    本番前のリハーサル中、ちょっとした段差でバランスを崩した蒼真を
    さりげなく支えてくれた律の手が、やけに温かくて。

    「大丈夫?...最近、蒼真くん極端に痩せてるよ。自分の体は大事にしないとダメだよ」

    ──その言葉に、一瞬、橘の沈黙よりも“救われたような気がしてしまった”。

    (違う……あの人じゃない、のに)

    橘には絶対に見せないようにしていた弱さを、
    ほんの少しだけ律の前で漏らしてしまう蒼真。

    「……疲れてるだけだよ。いつもどおり、やれるから」

    「そっか。でも、ムリはダメ。僕、本番でも蒼真くんのこと、ちゃんと見てるから」

    それは、橘がくれなかった言葉。

    (──見てる)

    律の笑顔に、橘の無言が一瞬だけ霞んだ。



    武道館ライブ当日、楽屋

    橘は表情一つ変えずに、蒼真に声をかける。

    「メイクもリハも問題ない。あとは“お前らしく”やればいい。
    お前の舞台は、今日も完璧に整ってる」

    「……うん」

    (見ててくれる、よね。ちゃんと、俺だけを)

    不安と執着のせめぎ合い。
    橘の視線が欲しいのに、彼の目は仕事としてしか蒼真を見ていないように思えて、
    ふと律の言葉を思い出す。

    (“ちゃんと見てる”って……あの言葉だけが今、心に残ってる)



    本番直前

    舞台袖で待機する蒼真の隣に、そっと寄り添う律。

    「緊張してる?手、貸そうか」

    差し出された手に、一瞬だけ指が触れる。
    (このまま……この人に頼ったら、楽になるのかな)

    そんな“裏切り”にも似た甘さに、心が揺れた――その時。

    「蒼真」

    低く、鋭い声が背後から飛ぶ。

    振り返ると、橘がこちらをじっと見ていた。
    さっきまでの“仕事の顔”じゃない。
    もっとずっと、冷たくて、感情の温度を感じさせない視線。

    (ああ……見てた)

    その瞬間、蒼真は心がふと満たされた気がした。

    (やっと、“構って”くれた)

    心の奥で、どこかほっとしてしまう自分に嫌悪しながらも、
    もう逃げられないことを悟る。



    舞台上、蒼真のパフォーマンスは完璧だった。
    ただし、いつも以上に“儚さ”と“痛み”が際立っていた。

    その姿に、ファンは“進化”と“深み”を感じ、
    律は“守りたくなる存在”だと勘違いし、
    橘だけが──“蒼真が誰に向かって演じているか”を理解していた。

    橘視点 ── 武道館ライブ終了後、舞台袖

    歓声が鳴り止まない中、舞台袖へ戻ってきた蒼真の笑顔は“仕事用”のものじゃなかった。

    律が隣にいた。
    自然な仕草で蒼真の背中に手を添えて、耳元で何か囁く。
    それを聞いた蒼真が、少し照れたように笑う。

    (……その顔、仕事では使っていない。あれは──)

    橘は気づいていた。
    いや、“気づいてしまった”。

    **蒼真が、自分以外に“揺れた”**ことに。

    ──それは橘にとって、許されざる兆候だった。

    (この数ヶ月。どんな顔をして、どれだけ崩れて、どれだけ俺に“依存”してきた?
    お前は俺の掌で、俺だけを見て、壊れていたはずだ)

    律の距離の近さ、あの視線、手の添え方。
    全てが“仕事”を超えていた。

    そして蒼真も──それを拒まなかった。

    橘の奥底で、何かが軋んで歪む。

    「……少し、話がある」

    終演後の控室、橘は蒼真を呼び止め、律がまだ近くにいる中で静かに告げた。
    その声は抑制されたトーンだったが、蒼真だけがその温度を知っていた。

    「え、でも……律くんが、スタッフさんと打ち上げの話──」

    「今だ。後にするな」

    (律の名前を呼ぶな)

    そう言いたかった。
    だが言わない。口にすれば、自分の中の一線が本当に崩れてしまう。

    橘は蒼真の手首を軽く、けれど決して逃がさない強さで掴む。
    まるで「持ち物」を回収するように。

    ──誰にも、渡す気はない。

    それは“保護”の名を借りた“所有”の始まり。

    蒼真を連れ出しながら、橘の頭の中ではもう“ある計画”が動き出していた。

    (住まいの契約は見直す。スケジュール管理は完全に再構築。
    夜間外出は原則禁止に。律とは距離を置かせる──)

    すべて、“守るため”に。

    そう言い聞かせながら、橘の視線は冷え切っていた。
    だが、心だけは燃えていた。

    “俺のものが、他人に懐くなど──断じて、許されない”

    【蒼真視点 ── 律と過ごしたある休日の夕方】

    「……ねえ、ほんとにこんなの、大丈夫かな」

    マスクと帽子で顔を隠しながら、律と並んで歩く蒼真は落ち着かない様子で辺りを見回す。
    外は人通りの少ない裏道。ファンや週刊誌の目を避けた律の“裏ルート”だった。

    「大丈夫。橘さんには“マッサージ予約してる”って言っておいたから。
    行き先は言ってないし、僕が嘘ついたってバレても平気だし」

    「……律、さすがにそれは──」

    「さすがに、なに?」

    一瞬、その声にトゲが混じった気がした。
    けど、振り向いた律はいつも通りの笑顔だった。
    まるで、ずっと昔から仲の良い幼馴染かのように自然に蒼真の腕に手を絡めてくる。

    (……橘さんなら、こんなこと絶対にさせない)

    ふと思って、胸がざわついた。
    そしてその“ざわつき”が、なぜかほんの少しだけ“気持ち良かった”。

    「蒼真くん、いつも誰かの目に怯えてるように見える。
    でも僕といるときは、ちょっと“人間らしい”顔してんの。……かわいいよ」

    律の言葉は軽くて柔らかくて、けど毒みたいに染み込んでくる。

    蒼真は思い出す。

    ──橘が言った、「夜間外出は控えろ」「一人での移動は禁止」「連絡は即返信」といった、無数の“制限”。

    (あの人のこと、嫌いじゃない。
    寧ろ、好きで、必要で……でも……
    最近、怖いって、思うこともある)

    支配される心地よさと、そこから逃げたい衝動。
    その間で心が引き裂かれそうになる。

    でも、自分から逃げられる場所なんて、最初からなかった。
    どこに行っても、すぐに戻ってしまう。

    「……律、さ。オレのこと、本気でどう思ってる?」

    少し濁った声で尋ねると、律はふっと笑って、

    「もし誰かに“取られたくない”なら、ちゃんと繋ぎ止めた方がいいって、よく言うじゃん──
    僕なら、最初から逃がさないようにする。例えば...蒼真くんとか、そういうこと。」

    そう言って、蒼真の帽子を軽く直した。

    (……そんなの、俺に対して言われたら...でも俺には橘さんが)

    けど同時に、心のどこかが叫んでいた。

    ──“そのまま連れてって”って、言ってしまおうかと。

    【橘視点──律との接触を知った夜】

    蒼真の行動ログ。
    GPSの動き。
    店舗の監視カメラに映った、あいつの横顔。

    ──律。

    「……またお前か」

    橘は小さく呟いて、PCの画面を閉じる。
    静かな部屋に、キーボードの音がやけにうるさく響いていた。
    ピン留めされた写真の束、削除されなかった通話履歴、
    蒼真のSNSの非公開裏垢に貼られた謎の画像たち。

    「“俺だけを見てて”って言ってたのは、どっちだよ……蒼真」



    翌日、律のマネージャー宛に事務的な通達が入る。
    「蒼真との不必要な接触を避けるように」という曖昧な圧。
    スケジュール調整が強制的に行われ、律と蒼真が顔を合わせる時間が極端に削られ始める。

    律はすぐに察する。

    「へぇ……分かりやすいな。さすが、蒼真くんの“飼い主”って感じ」

    不満げに吐き捨てながらも、律は不敵に笑う。

    (ここで引いたら、つまんないよね)



    【蒼真視点──自分が“何を望んでいたか”を見失い始める夜】

    「マネージャーさんが心配してるからって……それは、分かるんだけど」

    ベッドの上、濡れた髪のままで膝を抱える。
    今日も橘が迎えに来て、食事も決めて、薬の時間も決めてくれた。
    それは安心だったはずなのに──

    「…でも、なんか最近、全部“自分で考えること”がなくなってきてる」

    何を食べたいか、誰に会いたいか、何を感じてるか。
    全て、誰かが決めてくれる。
    律といるときに感じた“自由”みたいなものは、
    今の蒼真には“罪悪感”とセットでしか出てこない。

    気づけば、またスマホを開いていた。
    そして、例の裏垢のカメラロールを見ていた。


    「"あのときの投稿、🌸さんは気づいてるのに何も言わない”
    “もう、俺が壊れてても構わないってこと……?”」


    太ももに残る赤い線をなぞる。

    心のどこかで叫ぶ声があった。

    「……誰でもいい。
    この世界から、俺を“奪いに来て”よ」

    けどその声は届かない。
    橘にも、律にも。

    そして、自分にも。


    【表】番組直前、蒼真・律・橘の三角関係が“空気”に滲む】

    番組出演アイドル数名が並ぶ控室。
    蒼真は真ん中、左右に律と別の同期アイドル。スタッフの出入りは多いが、会話はラフで和やか。

    律は笑顔を浮かべながら、蒼真に話しかける。

    「蒼真くん、今日も仕上がってるね。最近ファン増えすぎてて、ちょっと妬けるくらい」

    蒼真は笑って返すけれど、その視線は律の“手”に釘付け。
    ──ソファの背に置かれた手が、微妙に蒼真の肩に触れている。

    その様子を壁際に立つ橘が黙って見ている。
    普段の彼には珍しく微笑みすら浮かべているが、目はまったく笑っていない。

    別のスタッフが「橘さん、さっきの台本修正なんですけど」と声をかける。
    橘はその場を離れるフリをして、律の真後ろを通る瞬間、小声で一言だけ囁いた。

    「……あんまり調子に乗るなよ、律」

    律は肩を竦めながらも、目を細める。

    「乗ってるのは僕じゃなくて、蒼真くんの方じゃない?」

    ──

    現場:武道館リハーサル控室

    蒼真はスタッフとの打ち合わせを終え、控室のソファに座っていた。
    その横、蒼真が何も言わずとも自然に水を差し出す橘。タオル、汗拭きシート、マッサージジェル、全部が用意済み。

    「喉、乾いてないか?……顔、ちょっと火照ってる。額、冷やすぞ」

    そう言って橘が自分の手で蒼真の前髪をかき上げ、
    氷嚢をそっと額に当てる。

    蒼真は一瞬驚いたように目を丸くするけれど、何も言わず目を閉じた。
    他のスタッフがいる前でも、橘の接触を拒めないのがもう“普通”になっている。

    「ん……ありがと、マネージャーさん」

    少しだけ甘えた声。だがそれを聞いた一人の視線が、鋭く橘を見据えていた。




    律は別チームの打ち合わせが終わったところだった。
    休憩のふりをして廊下側のガラス越しに蒼真の控室を見ていた。

    蒼真の髪に手を滑らせ、こめかみに触れる橘。
    それを“何でもないこと”のように見せかけて――
    確かに自分の“所有物”として扱っていた。

    律は静かに息をつき、口角をゆがめる。

    「……あれが、“飼い主”のやり方、ねぇ」

    何かを企むようにポケットに手を差し入れ、スマホを握る。



    夜、帰宅後。
    「風邪っぽい」とこぼした蒼真に、橘はタオルを首に巻いてやり、
    「着替えといて」と部屋のドアを閉めずに渡す。

    蒼真がパジャマに着替え終えると、橘が当然のように入ってきて、
    何も言わずベッドに腰掛ける。

    「……横になれ。頭、撫でてやるから」

    蒼真のまつげが震える。けれど背を向けず、
    ゆっくりとその膝に頭を乗せた。

    「……橘さん、なんでそんなに……優しいの?」

    「優しくなんかしてない。……“手放さないようにしてる”だけだ」

    橘は、キス未満の口づけを蒼真の額に落とした。
    その手は静かに、喉元へと滑っていく――。



    【裏】ある番組終了後、律の部屋にて──蒼真が“逃げ場”として選んだ場所】

    「打ち上げ行きませんか?」という他アイドルの誘いを断り、
    蒼真は律の車に乗った。
    橘が律に出した忠告を無視して、律は強引にも蒼真を連れ出した。

    しばらく車を走らせ、2人は律の家に着く。
    律の部屋。広くて、洒落てて、どこか異国のホテルみたいな匂いがした。
    しれっと律が差し出した冷たいジュースの中に混ぜられたそれに、蒼真は気づかない。
    律と雑談やゲームをしている内に身体がじわじわ熱くなって、服がやけに重く感じられる。

    「……あれ……律……なんか、身体、熱い……」

    律はソファの隣に腰を下ろし、ゆっくりと蒼真の背に手を回す。

    「ほんのちょっと、ジュースに気持ちが緩むだけのやつ入れたんだ、疲れてたでしょ?」

    蒼真の呼吸が甘くなり、瞳が潤む。
    抵抗する力はもう残っていない。

    「逃げたかったんでしょ、橘さんのとこから。……だったら、ここでいいじゃん。僕が、全部忘れさせてあげるから」

    律の手が頬を撫で、唇に触れかける。
    蒼真は微かに震える。けれど、拒否の声はもう出なかった。



    【通知】テーブルの上で震えるスマホ、画面には“橘”の名前が何度も点滅

    蒼真はぼんやりとその着信に目を向けるが、取る余裕もない。
    代わりに律が手を伸ばし、勝手に電話に出て、ビデオ通話に切り替える。

    「やっほー橘さん。蒼真くん、今うちで休んでるよ。ほら──」

    カメラ越しに映し出されたのは、
    律の肩に身体を預け、熱っぽく潤んだ瞳で息を乱す蒼真の姿。

    律は自撮りのようにカメラを動かし、
    蒼真の太ももあたりに伸ばした自分の手までを映し込む。

    「こんな蒼真くん見たことある? それとも、そっちではもっと……“飼いならしてる”のかなぁ?」

    電話の向こう、橘は無言。
    ただ、耳元でゆっくりと深く息を吸い込む音だけが聞こえる。

    律の勝ち誇った笑みが、静かに画面を切った。




    【橘視点──“所有物”への侵入者】

    画面越しに見た蒼真の表情は、見たこともない“無力な甘さ”に満ちていた。
    しかも、それを腕に抱くのが──律。

    喉の奥が焼けた。
    握りしめたスマホが軋む。

    「律、お前──」

    言葉は出なかった。
    橘の中で何かが、確実に壊れる音がした。

    「……奪ったな」

    心の底から漏れ出る憎悪に似たそれ。

    ──許さない。絶対に。
    どんな手を使ってでも排除しなければいけない。


    【橘視点──「あいつは、もう俺の中で“仕事”じゃない」】

    『……橘さん、蒼真くんの件、確認しました。律くんとの関係は──』

    「切れ。すべて」

    無表情のまま、事務所のデスクで指示を飛ばす。
    マネージャーとしての体裁は残したまま、やるべき処理は冷徹にこなす。

    •律に関する全てのスケジュール調整から蒼真を外す
    •共演企画はキャンセル。「蒼真の精神状態が不安定」の名目で
    •プライベートな連絡手段も遮断。「不審者への接触」として処理

    そして──蒼真の今の住まいの「契約名義」を、自分に変更するよう手続きを進める。

    『ストーカー対策です』
    そう言えば、何も問題にはならない。

    橘は、もう“管理”のために嘘をつかない。

    ──これは、奪還だ。蒼真を、俺のものに戻すための



    蒼真のスマホに届いた通知

    「橘さんから荷物届いてました」
    (新しいスマホ/新しい鍵/新しいクレカ)

    全部、前のものより使いやすく、便利で、洗練されている。
    でも──

    「これ、全部……“あの夜”の後に?」

    何も言ってこない。叱られない。問い詰められない。
    なのに、蒼真の“現実”は、確実に橘の手によって塗り替えられていく。

    「もう、逃げる場所も、戻る場所も、お前に選ばせない」



    【橘の独白(夜の事務所にて)】

    「蒼真、お前が選んだ“裏切り”の代償は──俺だけを頼る未来、だよ」

    冷えた部屋の片隅で、
    画面に映る蒼真の過去投稿や、ライブ映像をひとつずつ再生しながら、橘は独り言のように呟く。

    「……大丈夫。お前はちゃんと、俺の方を向く」

    「今度は、壊してから飼う。そうすれば、もう迷わない」


    【橘視点:蒼真の“日常”を支配する者】

    「鍵?ああ、新しいのに替えた。もう前のじゃ開かないから、ちゃんとこれ使え」

    無造作に投げられた鍵。蒼真の部屋、だった場所。
    今はもう、“橘の家”にある一室だ。

    住民票も、生活用品の契約も、郵送物の宛名も――
    すべてが「橘」から管理されている。



    食事、風呂、寝る時間――日常のすべてが“監督下”に

    「今日の撮影疲れただろ。ほら、食べな」

    橘が作った夕食を食べなきゃ、薬が飲めない。
    薬を飲まなきゃ、撮影に行けない。
    撮影に行かなきゃ、橘に怒られる。

    「ん、薬も飲んだな……いい子」

    頭を撫でられる蒼真。躊躇いはあるのに、逆らえない。



    夜。二人の距離は、以前よりも近くなっていた

    「まだ眠れないのか?……じゃあ、横にいてやる」

    ソファの端にいた橘が、自然な流れで蒼真の隣へ。
    肩に触れ、腕に触れ、何気ないふりで太ももに手を置く。

    「震えてんのか?……大丈夫。ここには、俺しかいないよ」

    蒼真の瞳が揺れる。でも逃げない。
    逃げられないことを、橘はもう知っている。



    “再調教”の進行
    •スケジュール帳は橘の端末と完全同期
    •所持金は管理カードで制限付き(自由に買えるのは「指定アイテム」のみ)
    •睡眠も、食事も、体調も、すべてログで把握済み
    •蒼真のスマホの使用アプリ・履歴・発信先までも、すでに監視下

    橘は、蒼真を「アイドルとして守る」という仮面をかぶったまま、
    一歩ずつ、“犬”として馴らしていく。

    「……いつか言わせてやる。お前の口から、“帰りたいのはここだけ”って」
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