Forever yours「さあ、お前の出番だ。出てくるがいい!」
芝居がかった口調で命じた男の背後の空間がゆらりと揺らぎ、何もないところから一体の人型の魔物が現れた。その姿を目にして、男と対峙していた星は呆然と呟く。
「……サンポ」
それは一週間前に突然姿を消した、星の使い魔の名前だった。
「はははははっ! どうだ、最も信頼していた右腕に裏切られる気分は!!」
「ど、うして……」
「申し訳ありませんねぇ。こちらのデボルド卿が、給金をたんまり弾んでくれると仰るものですから」
「ふん、金で主人を裏切る使い魔など聞いたことがない。貴様はよほど人望がないらしいな」
強張った顔で声を震わせる星を鼻で笑い、デボルドと呼ばれた男はニヤニヤと厭味ったらしい笑みを浮かべた。
「大人しく私の言うことを聞いていれば最期まで使い魔と『仲良く』していられたろうに……よりにもよって己が『切り札』にとどめを刺されることになるとは、哀れなものよ」
デボルドは星の方へ顎をしゃくり、簡潔に一言「殺れ」とだけ言った。
「サンポ……」
「抵抗しないでくださいね? せめてもの情けで一思いに息の根を止めて差し上げますから」
これから自分の主を殺そうとしているなどとは到底思えない、酷く優し気な笑みを湛えてサンポはつかつかと星に歩み寄る。迷いのない足取りは彼らの距離をあっという間に縮め、星の目の前でサンポが足を止めたその瞬間。
「かはっ……」
ほんの僅かなためらいすらなく、サンポは愛用のナイフを星の左胸に深々と突き刺さしていた。
凶刃を引き抜けば勢いよく血飛沫が飛び、星の体は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちる。その体を中心に地面に血痕が広がってゆく様を見ても、サンポは眉ひとつ動かさない。
「……っははははははははッ!! ついにだ! ついにあの目障りな『明星』を始末したぞッ!!!」
憎き敵のあっけない最期に、デボルドは手を叩き歓喜の声を上げる。
「よくやったジョーカーよ! 約束通り特別報酬をくれてやろう。百万……いや三百万出そうじゃないか」
「いえいえ、お金は別に結構ですよ」
「あん?」
「それより卿はご存じですか? 僕のような使い魔は、主人が命の危機に瀕すると本来使えないはずの力を覚醒させることができるのです……例えば、こんな風に魔装具の所有権を無理やり書き換えたりとか、ね」
「何!?」
デボルドは慌てて自分の左手の甲を見た。そこには、魔装具の一種である天空の宝玉が埋め込まれている。周囲の肉が不格好に盛り上がっているのだけは不服だったが、苦労して手に入れた自慢の一品であった。所有者たるデボルドの瞳と同じ色に輝く宝玉は、いつ眺めても彼の自尊心を存分に満たしてくれる。そのはずだった。
「馬鹿な!」
その輝きが今や、呑み込まれるように別の色に塗り替えられてゆく。新たに所有権を主張するのは夜空に燦然と輝く金星の――忌々しい『明星』の色だった。
「そいつはあなたには分不相応な品……我が主こそが正当な所有者です。返していただきますよ」
「き、さま……! 裏切るのか!」
「心外ですねぇ。裏切るも何も、最初からあなたの味方などではなかったというだけの話です。何しろ」
サンポはうっとりと、天上の甘露でも口にしたかのように微笑んだ。
「このサンポは未来永劫、我が主のものですので」
そんな惚気めいた台詞は果たして耳に届いたかどうか。宝玉の色がすべて塗り替わった瞬間、デボルドの体は宝玉だけを残して端から砂のように崩れてゆき、すべて風に浚われてしまった。身の丈に合わない力に晒されていた体は、宝玉の力で延命されていただけで疾うに限界だったのだろう。
「チッ……」
実験台にでもしてできるだけ長く甚振ってから始末してやろうと考えていたサンポは、当てが外れて舌打ちをした。
(まあいい……サハーキアの風は凶暴だ。どうせ安らかになど眠れやしないさ)
宝玉を拾い上げ、星の元へと足を向ける。投げ出された体の傍らにしゃがみ込み、おはようございます、と声を掛けた。まるっきり平和な朝の挨拶のようなそれに、星がむくりと起き上がり、それこそ平和な朝の如くぐいっと伸びをした。
「おはよう。宝玉は?」
「このとおりです」
「――ん、上出来」
宝玉の色を確認した星は、自分の前髪を掻き上げる。露になった額にサンポが宝玉を触れさせると、それはすっと溶け込むように額に納まった。もちろん、不自然に周囲の肉が盛り上がるようなこともない。魔装具に認められた正当な所有者である証だった。
「さ、これで面倒ごとも片付いたことだし、ごはん食べに行こ。打ち上げも兼ねて、パーっと」
立ち上がった星が軽く指を振ると、流れ出た血はすべて跡形もなく消え去り、胸元に開いたシャツの穴もあっという間に塞がった。第三者が見ていたら目を剥いて絶句するほどに鮮やかな魔術だが、ふたりにとっては単なる日常である。
「いいですね。『フルッティディマーレ』でも予約します?」
「うーん、今の気分だとあそこはちょっと静かすぎるかな。『リサッカ亭』の方が賑やかでいい」
「ああ、あのエビのおいしいところ」
一連の出来事はすべてふたりの計画通りだった。サンポが一週間前に星の元を離れてデボルドに近づいたのも、星がサンポの裏切りに愕然としてみせたのもみな演技。あの堂々たる「殺し」でさえ、星の膨大な魔力がもたらす高い治癒力があれば死に至ることはないと分かったうえでの茶番に過ぎない。デボルドは、徹頭徹尾ふたりの手の平の上で踊らされていただけだったのだ。
「――席取れましたよ。それと、今日は青灰エビが水揚げされたそうです」
「ほんと? ラッキー、フライにしてもらおう」
まるで何事もなかったかのように会話するふたりには、刺したことに対してもそんな命令を下したことに対しても、謝罪も後悔も必要ではなかった。ただふたり、いつものように一緒に日常を過ごすこと、それだけがあればよかった。
「僕はアヒージョをお願いしましょうかね」
「む、そっちも捨てがたい」
「シェアします? 僕もフライ、気になるので」
「いいね、そうしよう」
そしてそんな日常はこの先ずっと続き――未来永劫、と言い切ったあの言葉が嘘になる日は、きっと来ない。