讃歌と晩鐘(1)平地の多いP王国において、その風景は異質だった。
柔らかな線の丘陵が連なり、南に向かうにつれ、次第にそれらは明確な山岳地帯へと形を変えた。
濃淡のある複雑ないくつもの緑と、黒みを帯びた山肌がモザイク模様を織り成し、初夏の光を湛えている。
山の中腹を走る道の上に、一台の馬車がある。
中には4人の男たちが座っていた。
歳の頃20代半ばほどだろうか。黒い頭巾を身に付けた大男、オクジーは、向かいに座る相棒の男を見た。
細い目と小柄な身体の中年男の名前はグラス。同じ民間警備組合(代闘士組合を兼ねる)の相棒であり先輩格だ。オクジーと同じように、風貌を隠すための黒い頭巾を被り、長旅にうんざりしたように時折首を振り、小窓から外を眺めている。
大男の斜向かいには白髪のトンスラの男。マラキーアと名乗る異端審問官で、今回の仕事の依頼人だ。
痩せぎすの身体に、猜疑心に満ちた鋭い目をしている。ひどい吝嗇らしく、本来異端者とは同席すべきでない筈なのだが、一頭立ての馬車に同乗している。
そして、オクジーの隣に座り、先ほどからずっと啜り泣いている壮年の男がヨアヒムだ。
異端者の嫌疑をかけられて移送中のこの男は、濃いグレーの髪と顎髭を生やし、あとからあとから涙を滴らせて、いつまでもしくしく泣いていた。
黒のチュニカと革のサンダルを身につけ、まるで托鉢修道会の修道士だ。背は低いが、肩が広くがっちりとした身体を小さく縮めている。
「あ…あ…はあ。うっうっ。こんなことになるなんて…。こんな…。こんな…。」
何度目の繰り言だろうか。
異端とは会話が原則的に禁じられている為、馬車の中に声を掛ける者はいない。
向かいのグラスが厳しい目付きでこちらを見た。
面倒だから話しかけるな、と牽制されているような気がする。
オクジーは了承の意を伝えるように小さく頷く。マラキーアも、腕組みをして遠くを見ているものの、つくづくうんざりしていると言いたげな顔をしている。
それでもオクジーが何か言うべきなのか考えあぐねていると、後方から2頭の馬が近づいてきた。
伝令の男だ。馬車を追ってきたらしい。男が2本の手綱を器用に束ねている。後ろに連れたもう一頭の馬は、艶やかな黒毛(ブルネッロ)で、いかにも駿馬という若々しく軽やかな足取りだ。
御者が馬車の足を止める。伝令はマラキーアに用があるらしい。馬から降りると、2人はこちらに聞こえないように、馬車から少し離れたところでぼそぼそと話し始めた。
マラキーアは伝令の話を聞くと、顔色を変え、些か慌てた様子でこちらに戻ってきた。
「…おい、私は急用ができた。早馬を使って先に行く。お前たちは予定通り異端を連れて来るがいい。審問所の場所は先ほど伝えた通りだ。いいな?分かったな?」
せかせかと言い終えると、こちらの返答も待たず、焦ったように伝令の連れてきた黒毛馬に乗って走り出してしまう。伝令も少し離れてそれに続き、走り去っていく。
「……。」
グラスとオクジーはお互いを見合った。何やらきな臭いが、事情の知りようもない以上、指示に従うほかないだろう。
御者は特に気にする様子もなく、やがてまた馬車は走り出す。
まだ日は高く、空気は温かい。
「…ふぅ。」
異端審問官がいなくなり、少し気楽な空気が流れる。
グラスも少し姿勢を楽に崩し、服の首元をパタパタと煽がせて風を入れている。
「なあ…あんた達、暑いだろ?…その頭巾、気が滅入るから取ってくれないか。」
おもむろに異端の男が口を開く。
「いいよいいよ、大丈夫だよ…。私はどうせ処刑されるし、もうわざわざ復讐するなんて元気も残ってない。楽にしてくれ。」
鼻をすすりながら、涙でぐしょぐしょになった目をこちらに向けている。
下がり眉は太く、目と鼻は丸い。もじゃもじゃの濃い灰色の髪と髭。子供に語る物語にでも出てきそうな、果物に釣られて落とし穴に落ちた穴熊のような、どことなく間抜けな顔をしている。
「そうか。では遠慮なく。」
グラスはその提案をあっさり受け入れ、頭巾を取った。オクジーもそれに続く。
「はぁ、あんたら今日は随分と遠くから来たんだろ?…こんなくだらない。つまらない仕事の為に。」
「……?どういう意味だ?」
グラスの目が険しくなる。
「あ!いや、すまない。あんたらの仕事を侮辱するつもりはないんだ。ただ…。
私の異端という嫌疑は本当にただの誤解なんだよ。私はれっきとしたC教徒だし…。だからこれから私が死ぬことだって、本当にくだらない…行き違いなんだと思うとね…。実にばからしいじゃないか。はあ。」
ヨアヒムはひといきに言い切った。なかなか話好きの男らしい。
「そ、そうなんですか?それなら悔悛すれば死刑にはならないんじゃ…。」
思わず返事をしてしまった。
はっとしてグラスのほうを見ると、特に怒っている様子もなく、いくらか興味深げにヨアヒムを見ている。審問官も既にいないので、長旅の暇つぶし程度に思っているのだろうか。
「いや、多分ダメだろう。あのマラキーアという男、この辺りじゃ随分評判が悪いんだ。
あるかないか分からないような嫌疑をでっちあげては審問にかけて、処刑した人間の財産を取り上げてるんだ。
……この間なんて元村長の墓まで暴いてさ。最悪だよ。
どうせ昼食の食い合わせが気に入らないとか、靴擦れが治らないとか、どうでもいい理由でしこたま重罪にしてくるだろうさ。
まあ…私の嫌疑のきっかけは誤解から来た通報によるものなんだが、マラキーアはついでに私の写本が欲しいんだろう。」
「本ですか?そんなものの為に人の命を?」
ヨアヒムはふふんと鼻を鳴らす。
「そんなものって言うが、あれは私が若い頃に祖国から持って来た貴重な写本なんだよ。
あんな奴の手に渡るくらいならいっそ焼いてしまいたかったが…できなかったなあ…。」
その男はまた肩を落としてポロポロと泣き始めた。
「写本に書いてあるのは、私の故郷A公国の古い神々の歌なんだよ。
ただ懐かしくて、意味もなく畑を耕す時に歌っていたら通報されたんだ。
……古代ギリシャ語の歌だぞ!?
誰が分かったんだよ!
しかも通報までするなんて!!!
私は異教徒じゃない!!!あり得ないだろ!!!!」
だんだん感情が激してきたようだ。
「なぁ…あんた強そうだし、いっそここで私を殺してくれないか?
もう歳だし、死ぬのはしょうがない…。
でも拷問は嫌だ!火刑も嫌だ!!!
苦しんで死にたくない!!!
なあ頼むよ…。お願いだ…。」
男は顔をくしゃくしゃにして、オクジーの手に縋っている。
オクジーは困って思わずグラスのほうを見る。
グラスは咳払いをひとつすると、ヨアヒムに語りかけた。
「…話がもし事実だとしたら大変気の毒だとは思う。
しかし嫌疑・量刑について現在、民間警備組合から派遣されている我々が関知するところではないし、またその権限は持っていない。そして今回の任務の中にあなたの殺害は含まれていない。
よって、申し訳ないがその提案については拒否させて頂く他ない。」
男は深い溜め息を吐いた。
「そうか…そうだよな。いや、分かっていたことなんだ。こちらこそすまなかったな…。」
ヨアヒムの落ち込んだ様子に、思わずオクジーも声を掛ける。
「…ヨアヒムさん、元気出してください。
拷問も火刑もすごく辛いと思いますが…多分物凄く苦しくて…苦しくて…痛い思いをしたあとに…だんだん何も感じなくなるから大丈夫ですよ。」
「それは大丈夫じゃないだろ!!?
それが嫌だって話をしてんだよ!!!!
ホント何言ってんだよあんた!!!」
ヨアヒムは目を剥いて叫んだ。
その様子にグラスが思わず吹き出す。
つられてヨアヒム自身も、そしてオクジーも笑った。
「ハハハ…す、すみません。
だけど、神様がなさることには必ず意味があるはずですよね?俺も…よく分かってないですけど…。
だからこの状況にも、試練?っていうのかな…多分、何か意味があることなんだと思います。
その意味さえ分かれば…少しは受け入れやすくならないですかね…?」
ヨアヒムはハッとしたようだ。
「そうか…そうだな。
今までずっと…戦争から逃げて、故郷を捨てて、家族を捨てて…。死ぬような思いをして何年も彷徨って…こんな遠い国まで来てしまったが…。
そんな不甲斐ない私にも、神は確かにいつもそばに居てくださったはずだ。
捨てたはずの故郷の歌が私を死なせることも…。よりにもよってあんなクソ野郎に殺されることも…。
多分何か意味があることなんだろうな。」
ヨアヒムは涙のあとをごしごしと手首でこすり、自分の考えに沈んでいるようだ。
ややあってからまた話し始める。
「正直嫌だが。でも私はあのマラキーアの為に祈ってやることにするよ。
ああいう、人から奪うことしか考えてないような…不幸な考えに取り憑かれた、自分から何かを生み出すこともできないような哀れで気の毒な奴こそ、神様の助けが必要なはずだもんな。
私には歌があるから、もうそれでいい。充分だ。
…それは誰にも奪うことはできない。
ありがとう、名も知らぬ青年よ。」
「…オクジーです。」
「オクジーか。…私の本当の名前はヨアヒムじゃない。アウトリュコスだ。」
「アウト…?」
「ハハハ、呼びにくいだろ。この国の人らにしたらな。頼む、少しの間でいいんだ、私の名前を覚えていてくれないか。
…いや、覚えていなくてもいい。
ただ今、急に教えたくなっただけなんだ。
……私の名前は、アウトリュコスだ。」
*
「…おい、オクジー君。生きてるか?」
世界がぐらぐらと揺れている。
左側は暗く沈んでいて、右側は柔らかな緑の下草と抜けるような青空が美しかった。
…でも、その美しさの後ろに、不吉な何かを隠しているような気がしてならない。
グラスに肩を揺さぶられている。その反動で全身がズキズキと痛んだ。
そこかしこに擦り傷ができているようだが、大きな怪我はしていないようだ。
ゆっくり起き上がり、グラスに目をやると、右の額と頬に傷が付いていて、血が滲んでいる。
「う…。グラスさん。これは一体?」
「無事で何よりだったが…何か事故が起きて、どうやら我々は馬車から投げ出されてしばらく気を失っていたようだ。」
傍に目をやると、後部が大きく破損して横転した馬車が残されていた。馬と御者はどこかへ行ってしまったらしい。
少し離れたところに、アウトリュコスがうずくまっている。
山の上の方から何か音が聞こえてくる。
たくさんの人の叫び声がかすかに風に乗って流れて来ているようだ。
やがて教皇庁の印の縫い取りがされた黄色いマントをはためかせた、馬に乗った騎士たちと、後に続く歩兵たちからなる騎士団の一行が現れ、バラバラと山肌を登っていくのが見えた。
こちらを一顧だにせず、何やら慌ただしい気配だ。
「……?なんだ…?」
オクジーが思わず漏らす。
グラスが鋭い目でそれらを見送り、また山の上の方を眺める。
「オクジーくん、あの斜面のところに砦があるのが見えるか?」
「あ…。み、見えました。」
「これは推測に過ぎないが…。恐らく、あそこで異端信仰者たちの一団が籠城戦をしているんだろう。この地域にも異端たちを匿っていた領主がいたんだな…。
よく見てくれ。あそこに投石機(カタパルト)があるだろう。」
「かっ…投石機(カタパルト)!?」
木々に阻まれて見えづらいが、砦の城壁から先を覗かせるように、2機の投石機が聳えているのが見えた。
木製の大きな腕を振り回すように、振り子状に揺れて巨大な岩らしきものを下方に打ち出している。
「運悪く弾がこちらに逸れたか…。あるいは打ち出された後に落石になって馬車にぶつかってきたのかもしれないな。
本来なら砦の城壁を崩すために使われるはずだが…。砦から騎兵を蹴散らすのに使うとは…。」
グラスは顎に手をやり、ぶつぶつと呟きながら歩き回る。
そして砕けた馬車の破片のそばで立ち止まると、しゃがんでそれを示した。
「しかもここを見てくれオクジー君。
この割れた車輪は馬車のものじゃない。ガラスや陶器の破片も混ざっている。」
「え…。つ、つまりどういうことですか?」
「これは使わなくなった荷車や酒瓶を石なんかと一緒に載せて射出した跡だろう。
つまり、投石機(カタパルト)はあってももう弾になる大きな岩が不足しているんだ。
…あの砦、永くは持たないだろうな。」
グラスは舌打ちをする。
「あの審問官、このことを知って危険な地域に我々を置いていったんだ。まったく…。
とにかく急いでここを離れよう。またいつ弾が飛んできてもおかしくないぞ。」
*
アウトリュコスの様子を見てみると、状態はかなり悪いようだった。
頭部を強く打って負傷しているらしく、髪から流れる真っ赤な血が顔をべったりと濡らし、両目は腫れ上がって前がよく見えていないようだ。
呻き声とともに何かうわごとのように聞き慣れない言葉を呟いている。
「アウトリュコスさん、大丈夫ですか?…歩けそうですか?」
オクジーが声をかけながら倒れた男の肩に手をやると、アウトリュコスは驚いて飛び跳ねるように立ち上がった。
「うああ!…ああ?ああ?ど、どこだここは…。こんな…こんな所で死にたくない…。ああああ!!!」
手首を縛られたまま、もつれる足をばたつかせながらあらぬ方向に向かって走り出した。
舌打ちをしながらグラスが右腰の剣を抜き払ってそれを追う。
が、やはり前が見えていないせいか、アウトリュコスはそのまま山道を逸れて足を滑らせた。
男が落ちていくその瞬間、一瞬だけ、こちらと目が合ったような気がした。
「────」
外国の言葉で、何かを叫んだ。
意味は分からなかったが、恐らく異教の神の名前だとオクジーは直感的に思った。
先程まで、打ち解けて馬車で話していた様々な異国の伝説や言い伝えの中に、何度か出てきていた神のうちの1人の名前─。おそらくは。
「クソッ。しまった…!このまま見失う訳にはいかない。オクジー君、降りるぞ。」
面倒なことになってしまったようだ。
グラスとオクジーは、滑落しないように互いに気を配りながら、慎重に斜面を降りていく。
深く、切り立った暗い山の斜面を。
*
30分ほども降り続けただろうか。
少しだけ開けた、淡い緑で覆われたなだらかな地面が見えてきた。いくつか点在している岩のひとつに、腕を掛けてうつ伏せに眠っているような姿勢で、男は静かにそこに居た。
「……。」
グラスはオクジーにちらりと目配せをすると男に歩み寄り、剣を構えたまま、抜いた鞘のほうで背中を軽く押した。
反応はない。
息を詰めて、左足でもう一度、ゆっくりと力を込めて背中を横に押すと、男の身体がぐらりと揺れて岩から離れた。
「うっ…。これは…。」
オクジーが溜め息と共に呻く。
鋭く切り立った岩の切先に顔がめり込んでいた為だろう。アウトリュコスの死体は、顔面の中央が赤黒い血溜まりになり陥没していた。
下顎がだらんと垂れ下がり、上顎があった辺りがひしゃげて血溜まりと同化している。
沈黙が辺りに流れる。
「参ったな…。こんな厄介なことになるとは。」
剣を鞘に戻し、グラスは言った。
それから腕組みをして、顎に手を当てながらぶつぶつと何かを考えているようだ。
「うん、やはりそれしかないな。
…オクジー君、一旦上に戻ろう。
その前に、少し向こうを向いていてくれ。」
言い終わるか終わらないかといううちに、グラスは死体からするすると服を脱がせ始めた。
黒いチュニカと、革のサンダルだ。下着には手を付ける気はないらしい。
くるくると器用にまとめると、持っているようにとこちらへ差し出した。
「な、何を…?」
オクジーが受け取りながら尋ねると、グラスはこともなげに言う。
「この斜面を死体を担いで上がるのは無理だ。危険すぎる。…かと言って、このまま手ぶらで帰るわけにもいかない。あの審問官の男、とても人の話を素直に聞くようには見えないからな。」
「え…。で、でも正直に話せば分かってくれるんじゃないですか?」
「いや、この死んだ男の話を信じるなら無理だろう。例えば正直に話すことを前提に、頭や手首を切り落として持っていくことも考えたが…。
こう顔が潰れていては…。
いかにも逃げたい奴から金を握らされて、貧民の死体を買って工作したように見えると思わないか?
もし我々が何かの偽装をして異端の男を逃したと嫌疑をかけられたらどうなると思う?
もちろん今日の分の給金はなくなるが…。それだけで済まされるとは思わないな。
さてオクジー君。疑わしい真実と、本当に見える嘘なら、我々の未来にとってどっちがいいと思う?」
ずずい、とグラスは顔を寄せて尋ねた。
見開いた目が、心なしか焦点を欠いているように見えるのは気のせいだろうか。
「本当に見える嘘…?」
「そう。さっき斜面に見えていた異端の砦を覚えているか?
籠城戦も終わりということは、長い間に飢えや病気で死んだ人間の死体が溜まっているはずだ。
その中から、異端の男になるべく近い背格好のものを選んで持って行けばいい。
細かい人相までは確認しないだろう。」
「そんな!ほ、本気ですか…?」
「なに、聞いた話によると、異端信仰者たちというのは死んだ後に審判や復活を待つのではなく、直ぐに魂が別の生き物へと生まれ変わると信じているらしい。
…だから彼らにとって死体というのは全く重要なものではない。
ひとつやふたつ拝借したところで何の問題もない!
さあ、早く行かないと砦が落ちてしまう。
迷っている時間はない!
行くぞ!オクジー君!」
言い終わると、グラスは背を向けて物凄い速さで斜面を駆け上がって行った。
すぐに見失ってしまいそうなほどの速さだ。
オクジーは慌ててその後を追って走り出す。
山のその上、異端たちの砦へと向かって。
(続く)