よもすがら「おや」
「……まぁ」
――ばったり。
正に、そんな言葉が似つかわしい邂逅だった。
離の薬売りが坤の薬売りに出会ったのは、峠を越そうとする人々で賑わう宿場町。その場末の、小さな安宿の前に彼は居た。既に日もくれ、亥の刻も過ぎ行こうかという時分である。灯りの入った宿坊は人に溢れ、宿を取らねば死ぬ身でもなしと峠道へ向かおうとした――その矢先のことであった。
離が同輩の姿にすぐ気づけなかったのは、彼の人の装いが、あまりに常と違うものであったからだ。目立つ髪に手拭いを被き、身を包むのはさらりと生地目の良い濃紺の着流し。手提灯を掲げるのと反対の手には、徳利と葉包の何かを携えている。そして何より、その顔にあるはずの隈取は解かれていた。さながら、世を忍ぶ仮の姿――とでも言ったところか。質素な装いに身を包めど、その上背と顔立ちの良さだけは隠しきれぬようで、小粋な町衆の若旦那を思わせた。
そんなことをつらつら考えていたものだから、坤が何やら言いたげな目をしていることにしばらく気づけなかった。宿の前に大男が二人ともなれば自然と人目を引くようで。こいつぁ失礼、と立ち去りかけた離の背中を、あの、と彼にしては細い声が呼び止めた。
――上がって、ゆかれませんか。
坤が手にした徳利が、朗らかに揺れた。ついと上向く指先は、宿の上階を指している。なるほど、坤は退魔を終えた後であるのだろう。でなければこんな装いに身を包んで、市井に溶け込むような真似はすまい。酒と肴、それに、要り用の薬がありましたら、と坤が誘う。確かに、この頃急に寒くなったせいか、背負子の中身は少々心許なかった。坤は明日には蒐我へ帰るのだろう。ならば少しくらい、同輩の助けを借りるのも悪くはない。
「……では、お言葉に甘えて」
――後から思えば、ここで、素気無く、袖にしてしまえばよかったのだ。しかし離の返答を聞いた坤は、それはもう、嬉しそうに笑ったのだった。少なくとも、離にはそう、見えてしまった。勤めの最中であることを、忘れてしまいそうになるくらいには。
坤に着いて、階上へと上がる。通された部屋は狭いが、さっぱりと小綺麗に整えられていた。何より、窓際に高欄があって、そこから月と紅葉がよく見える。秋の長夜を一人楽しむには、なるほど、うってつけの宿であった。
坤の背負子を物色させてもらうあいだ、坤は囲炉裏に火を入れ、燗の支度を始めていた。夕餉は、と問われたので、離は緩く首を振る。薬売りの中でも健啖家の坤と異なり、離はさして食事に興味のない口であった。酒は好きだが、嗜むくらいだ。
「よければ……一献。いかがで」
貰い受ける薬を己の背負子に収め、離は静かに坤を振り返った。湯から引き上げた徳利を、坤は静かに傾ける。そしてその盃を、離に向かって差し出した。
甘い、誘いだった。先ほどよりも夜は深まり、外は寒く、冷えている。食事はさして必要としなかったが、酒には惹かれた。しばし逡巡したのち、一献くらいなら構わないだろうかと盃に手を伸ばした――刹那。
かたん。
剣が、鳴る音がした。俄かに、背負子の中の天秤たちも騒ぎ出す。伸ばしかけていた手を、引いた。あと少しで埋まるはずだった二人の間に、坤が差し出す盃だけが、寂しく取り残される。喉の奥に想った甘さを、気取られぬように飲み下した。
「……行かねば」
袂を捌き、立ち上がる。背負子を開けば、自ずと姿を現した離の剣が、手に取られるのを待っていた。半ば乱雑になった手つきで剣を取り、帯に刺す。背負い紐を手に取りかけたところで――黒い爪先が、くん、と袖を引いた。引かれた袖に、離は視線を落とす。月を思わせる金の相貌が離を射抜いて、色を無くした白い唇が、震えるのを見た。
「……よければ、泊まって、ゆかれませんか」
――宿の主人に、話はつけてあります。
はて、と離は片眉を跳ね上げた。行き合ってからここに至るまで、そんな暇があったろうか。自分から離れたところを見たことが無いのだから、いつ話を付けたと言うのだろう。それを論おうとして、やめた。
小さな部屋に一組の布団。一つの徳利に一つの盃。二人を受け入れるには明らかに狭い部屋。明らかに、坤一人にあてがわれたものであることは火を見るより明らかだった。なのにそんな出まかせを云う――その心がわからぬ離ではない。宿に話など、後から幾らでもつければ良いのだ。離が是と答えるのを聞いてから、もう一人分の宿代を後から払ってしまえば済む話なのだから。
だから、これは。精一杯の、誘惑だ。
剣が鳴る。去ろうとする男と引き留める男の、押し問答が始まる。
「……離しちゃ、くれませんか」
「こんな夜中に、峠越えでもなさる気か」
「貴方にも勤めがおありでしょう。なら、分かるはずでは」
「朝、発てばよろしいではないですか」
「話は、終わりに。邪魔を……しましたね」
袖を引く手を、振り払う。乱暴に掴みあげた背負子の軋む音に紛れて、貴方は、と己を呼ばわる彼の声を聞いた。開けた襖に手をかけたまま、足を止めてしまう。立ち去って仕舞えば良いのに、それができない己が、いる。
「……ひどい、お方」
思わず、振り返っていた。口ではそう言いながらも、坤の瞳は笑っている。その声だけが、泣いている。カッと、腹の奥底で火花が散る心地がした。舞い上がった火の粉は簡単に飛び火して、持ち前の短気が轟と音を鳴らして燃え上がる。踵を返したはずの距離を、二歩で詰めた。見慣れぬ着流しの胸ぐらを掴み上げて押し倒す。痛そうな音が彼の後頭部から響いたが、詫びる気などには到底ならなかった。
「真にひどい、のは、どちらか」
腹の底を舐める業火が、瞬きのうちに身を焦がす。同じ勤めに生きる身でありながら、一体どちらが大事だなどと、それを自分に迫るのか。坤とて同じ境遇に立たされたのなら、離と同じ選択をするだろう。否、離よりも勤めに入れ上げるたちの坤のことだ。その割り切りはきっと離よりも潔く、並のことでは揺るがない。それをよくよく知っている離だからこそ――此度の仕打ちは、据えかねた。
全く――憎たらしい真似をしてくれる。
その唇に、噛みついた。
倒れ込んで尚、器用に水平を保っていた盃を奪い、呷る。人肌燗であった。そのぬるさが更に怒りを煽る。含んだそれを、離は飲み下さずに坤の口へと流し込んだ。舌に感じる芳醇な酒精だけを味わいながら、咥内を舐って犯し、舌を引き摺り出す。ごくりと鳴った喉が、酒ではないものを飲み下した日と同じ動きをする。坤の指先が首に絡んで、離の頭巾を乱そうと動いた。狼藉を働く手を紮て、頭上に縫い止める。
乱暴に組み敷かれてなお、坤は恍惚と眦を下げたままだ。先ほど打ち付けた頭も痛むだろうに、口元は笑っている。被虐の気があるのか知らないが、坤はどれだけ離が無体を働こうと嬉しそうに笑うのだ。その顔をやめろと何度も言っているのに、坤が聞き入れた試しはない。眦に浮いた涙に舌を伸ばして乾きを癒す。坤の指先が、離の袷目へと差し込まれる。そこが、引き際だった。
酒精の薄れた咥内から舌を引き、半ば捨て置くように突き放す。色を落とした唇に、離と同じ紅が移っているのだけが彩を添えていた。乱れた胸元を手早く正し、今度こそ離は背を向ける。床板を踏み鳴らしながら去る離を、坤は、此度は追ってこなかった。すぱん、と音を立てて襖を閉める刹那、離の耳は、微かな坤の声を聞いた。
「――ご武運を」
宿を出ると、吹き付ける風の冷たさが身に沁みた。触れ合っていた場所だけがまだ熱さを残していて、嫌でも手放してきた温もりを思い知る。そんな弱さを見透かすかのように、剣が喚く。薄れていく暖かさが消えないうちに、離は冷たい夜の只中へと踏み出した。宿坊の建ち並ぶ通りを抜け、角を曲がる前にほんの少しだけ背後を省みる。
坤がいた宿屋は、深い夜闇に霞んで見えなくなっていた。景色を包み込むようにけぶる闇の濃さ、その色に、別れ際に目にした姿を思い起こす。夜の闇を流したかのような、常日頃纏っている装いの藍色とも違うあの着流し。似合っていたが、似合っていなかった。代わりに思い起こすのは、燃える日のような緋色の襦袢。やはり彼には、あれこそが似つかわしい。
次第に遠ざかっていく町の喧騒の中で、坤は一体どのような夜を過ごすのだろうか。共に酌み交わす酒は美味いだろう。少ないつまみも、共につつけば最高の肴になるだろう。彼の人の居る部屋は温かく、茵は小さくとも、きっと、凍えることはないだろう。
それら全てに後ろ髪を引かれながら、暗く冷たい路をゆく。心身ともに冷え込む中、懐だけが仄かに温かかった。不思議に思ってそこに手をやると、冷えた指先が、丸みのある何かに触れた。
何かと思えば、それは竹の皮に包まれた握り飯だった。夜食に、と坤が徳利と共に下げていた、あの包みに相違ない。恐らくは、別れ際……あの口付けの最中にだろうか。離の懐に押し込んだのか。
全く、憎い男だと離は思った。剣が鳴ったが最後、離が留まろうとはしないのをあの男は分かっていて、それなのにあんな真似をして、握り飯だけでもと押し付けて。はて――何が余って、憎さ百倍と言うのだったろうか。
少なくとも今の離にとって、坤はこれ以上ないほど、憎い男であった。
歩を緩めぬまま、竹皮を剥く。菜飯に焼き味噌とは、あの男の好みそうな味だ。歩きながら飯を食うのは行儀が悪いのだろうが、こうも夜が更けては誰も見ていないだろう。せっかく温かいのだから、これを逃してはもったいない。何より、こうでも食べられるのが握り飯の良いところだ。
腹に落ちていく逢瀬の証が、冷たい夜の只中にあって、離を温めていく。
それだけが、仄かに。いつまでも、温かかった。