妙なラベルを貼られたな「お前って、そういうところあるよな」
神谷が何気なく呟いた一言に、東雲は咄嗟に上手い反応ができなかった。今、お前、と呼ばれたのは自分なのだろうか。周りをきょろきょろ見渡して、自分以外に話し相手がいないことを確認し、また少し驚く。神谷はいつも通りの顔で、着崩した学ランのポケットから、飴を出して舐め始めた。それがカラコロと、やわらかい頬の中を転がる音は、放課後の教室にはよく響いた。
「東雲?」
「今、私のことを“お前”と言いましたか?」
疑問を口に出してみて、今度は自分の声の響きが、思いの外冷めていることに驚く。神谷はぎょっと目を丸くして、ばつの悪そうな顔をした。
「悪い、怒った?」
「怒ってはいません」
「本当か?けっこう怖かったぞ」
「……本当です。こんなことじゃ怒りません」
怒ったわけではない。ただ驚いただけだ。あまり顔に出ないから、代わりに声が硬くなってしまっただけ。
「でも、どうして急に“お前”なんて」
「うーん、なんだろう。気分かな」
「気分て」
カラカラ、飴を頬の中で転がしながら、神谷は椅子をゆらゆら動かして、不安定な姿勢でつぶやいた。机に放り出された宿題のノートは、まだほとんどが真っ白だった。
「別に、何か意識したわけじゃないんだ。東雲の前だから、気が抜けたのかもな」
「そうですか」
「やっぱり、気に障ったか?」
「いえまったく。貴方にしては、言葉遣いが少し乱暴だとは思いましたが」
神谷は問題児には違いないが、荒くれ者ではない。ただふらふらと、その時楽しいと思うことをしているだけで、口調や振る舞いは至って普通だ。むしろお行儀の良い方ですらある。そんな神谷から“お前”という、少し粗野な言葉がこぼれてきたことに、東雲は少なからず胸を昂らせていた。なぜ昂ったのかは、自分でもよくわかっていなかった。
「乱暴かな?これくらいは普通に言うだろ」
「普通はそうかもしれませんけど。貴方のイメージと結びつかなかった、というだけのことです」
「東雲の中の俺って、どんなイメージなんだ」
夕陽に照らされて、ビー玉みたいにきらきら輝く瞳が東雲を射抜く。期待に満ちあふれた笑顔を向けられて、東雲は思わず眉を顰めた。眩しくて、まともに見ていられなかった。
「聞きたいですか?」
「うん。興味がある」
飴がガリッ、と砕ける音がした。神谷はいつの間にか、椅子の背もたれに腕を預けて、東雲の顔を覗き込んでいた。片方だけ伸ばした前髪が、カーテンと同じ動きで揺れている。ふわふわした茶色の髪を見て、東雲はわざと、大きく溜息を吐いた。
「強いて言えば、子犬です」
「こいぬ?」
「お金持ちの家の、広い庭で走り回って迷子になる子犬ですね」
「ど、どのへんが?」
「このへんです」
こいぬ、と幼なげな口調で繰り返したり、くりくりと目を動かしたりした神谷の頭を、東雲はぐちゃぐちゃにかき回した。不均一なワックスの感触が、妙に掌に馴染む。しばらくされるがままだった神谷は、ほんのりと頬を染めて、東雲の手から身を捩って逃げ出した。
「お前!っ、なんだよ!ぐちゃぐちゃになるだろ」
「ふふふ、……本当に犬みたいや」
「もう……なんかもっと、別の、あるだろ……」
「おや、何か期待してたんですか」
「もういいよ。東雲には口じゃ敵わないなあ」
ふい、と拗ねた顔で顔を背ける仕草すら、神谷幸広という男は大変絵になる。ふてくされて丸くなった頬に、オレンジの夕陽が差して、長いまつ毛が影を落としていた。
「なあ、そろそろ帰ろう」
「私もそうしたいのは山々なんですけど。貴方の宿題が終わらないから、残ってるんですよ」
トン、と音を立てて、真っ白なノートに東雲の指が置かれた。まったく和訳の終わっていない英語の短文だけが、傍にずらずらと並んでいる。神谷は梅干しを食べた時のような顔をして、ノートの上に突っ伏した。
「はあ、憂鬱だ」
「はいはい、憂鬱でもなんでもいいので手を動かしてください」
「東雲は終わってるんだろ?見せてくれよ」
「海外に行こうって人間が、英語の勉強でその体たらくで、どうするんです」
「……わかった」
この話を持ち出すと、神谷は大体素直に言うことを聞く。これは、東雲がここ最近で学んだことだった。
「ほら、完全下校が近づいてますよ。一分ごとカウントダウンしてあげましょうか」
「やめてくれ!ただてさえ分からないのに、気が散る」
この男が勉強中に気が散っていなかったことがあるだろうか。授業中の態度を思い出しながら、東雲は電子辞書にかじりついている神谷をじっと見ていた。関係のないページをめくったり、何度か口に出して文を読み上げたりして、とうとう首を左右にひねった。そのうち参考書の隙間からちらちらと、不安げな茶色の瞳がのぞきだす。改めて、犬のようだなあ、と思った。
「あの、東雲」
「なんですか」
「頼む、教えてくれ。……全然わからない」
「はあ、はいはい。とっとと終わらせますよ」
「!、ああ、ありがとう!」
「27ページですよ」
「わかった」
途端に嬉しそうな顔でペンを握り、東雲の言葉を待つ。現金なくせに従順で、人懐こい笑みを浮かべるのも得意。ずるいわ、と口からこぼれそうになったので、かわりに教科書のページ数を呟いた。
「お前がいてくれて助かった。明日、先生に絞られるところだったよ」
電子辞書片手に、のんびりと和訳を書き付けながら、神谷は呟いた。その、夕陽に照らされた横顔があんまりに澄んでいて、東雲はしばらく言葉を失った。
神谷と一緒に過ごすようになってから、助かった、ありがとう、と言われたことは数知れず。聞き飽きた、と言ってもいい。それでも、そこに“お前”が付いただけで、東雲は胸に妙な重みを感じてしまっていた。この、人を頼るのが大得意な男の「助かった」に、特別なリボンを巻かれたような気がした。
神谷の宿題は、まだしばらく終わりそうにない。遠くで響く吹奏楽部の楽器の音や、ホイッスルの音を聞きながら、東雲は「数学は自分でやってくださいね」と、意地悪な返事をするのがやっとだった。