こやなみ めも 脳裏に焼き付いて離れない。
瓦礫の山。砂ぼこりと何かが焼けるにおい。ついさっきまで快晴だった空は灰色にくすみ、べったりとアスファルトを染める赤黒い血液を鈍く照らしていた。
吐く息が震えている。傍らにハンマーを下ろした伊波は、呼吸を乱したままその血溜まりをただじっと見下ろしていた。
――救えなかった。
あと一歩が踏み出せていれば。あと一秒早く振り向けていたら。指先をかすめた体温はたしかに温かくて、しかしだからこそその温度が呪いのようにこびりついていた。
ヒーローは神様じゃない。あまねくすべての人々を救えるわけじゃない。そんなことはこのスーツに初めて腕を通したときから嫌というほど思い知らされてきた。どんなに技術の力で武装したって、伊波はただの人間である。両腕に抱えられる量には限界があるし、それは他の同期に比べたら、悔しいかなちっぽけなものであることも自覚していた。
……でも、それでも。
『――たすけて、ヒーロー……ッ!』
あの声を拾えなかった。届かなかった。己の力不足を肯定する理由には到底なりえない。ましてやそれが、あとほんの少しだったのだからなおさらだった。
背後を慌ただしく救急隊の担架が通り過ぎていく。すでに脅威は去り、伊波たちの仕事は済んだ。今やるべきことは、速やかに拠点に戻り養生や鍛錬をして次回の出動に備えることである。そう頭では分かっているのに、両脚は縫いつけられたようにその場から動けず、脱力した腕は地面に転がるハンマーに手を伸ばすことさえできなかった。
……オレはオレにできることをする。ここで立ち尽くす暇があったら、一刻も早く前に進まなきゃ。過去を嘆いたって何も変わらない。顔を上げろ、前を向け伊波ライ。
分かってる。分かってる、けど。
――結局伊波がその場をあとにしたのは、頭上で輝いていた太陽が、空をオレンジ色に染め上げるくらいの頃になってからのことだった。
―――――
「ひでぇ顔」
突然頭上から降ってきた声に、伊波はドライバーを握っていた手を止めた。
「……顔見えてないだろ。つかノックくらいしろよ」
「今した」
そう言った小柳が既に開け放たれた扉をコンコンと拳で叩く。その悪びれもしない態度に伊波はわざと大げさにため息をついた。
「お前に常識を求めたオレが馬鹿だったわ」
「ま、そうやね」
「はっ倒すぞ」
「そんな顔で凄まれたところでなぁ」
「だから見えてないだろって」
つっけんどんに言い放って、伊波は再び手を動かしてネジを締めはじめる。手の中に収まる電子機器の納期はまだ先だったが、とにかく手を動かしていたほうが気が紛れた。
「で、何しに来たんだよ」
手元から顔も上げずそう聞いた伊波に、小柳はなにも答えない。分厚い遮光カーテンが引かれた窓の外は見えないが、もう夜というより朝に近い時間帯である。こんな時間にこんなところの近くを用も無くたまたま通りかかるわけもないから、何か用事があって来たのだろう。視界の端で布の影が揺らめいているから、もしかしたら臨時で入った任務の帰りなのかもしれなかった。
「……なんでわざわざあっちじゃなくてこっちでやってんだ」
質問に質問で返すなよ、という伊波のぼやきは黙殺された。あっちというのは4人の拠点ひいては伊波の自室のことで、こっちというのは今2人がいるこの本部近くのラボのことだろう。つまり小柳は最近伊波が夜な夜な機械をいじっていることはすでに知っていて、その上でどうして拠点ではなくこっちでやっているのかと尋ねているようであった。
「んー、こっちのほうが道具も設備も揃ってていいんだよね」
「こんな時間に?」
「だーれもいないからなんでも使い放題だし」
「寝不足でやったって作業効率が落ちるだけだろ」
「お生憎さまだけど、多少作業効率落ちたくらいじゃ問題ないんだよね〜。ほらオレって天才メカニックだからさ」
おどけた返しに、小柳は口をつぐんだ。沈黙が辺りを満たす。おいここで黙んなって、と文句をこぼしながらようやく顔を上げた伊波は、しかし思ったよりすぐ近くで立ち尽くしていた小柳の表情を見るやいなや、眉を下げて力なく笑った。
「……お前の方こそ、なんて顔してんだよ」
羽織を身に着けた小柳は、フードを被ってはいたが目元は露になっていた。長い前髪の奥で、闇夜と月のような瞳がまっすぐ伊波をとらえている。目は口ほどにとはよく言ったもので、一文字に引き結ばれた彼の唇に代わるようにその鉱石のような一対の瞳に様々な感情が浮かび上がっては消えていくのを、伊波はどこか凪いだ気持ちで見つめていた。
「オレ、そんな寝不足に見える?」
「これで睡眠時間十分に見えたらそいつの目は節穴やね」
「まじかぁ」
自分じゃよくわかんねーや、と言いながら両手で己の頬をこねる伊波を見下ろしたまま、小柳は小さく息を吐いた。
「……寝れないのか」
「いや、まぁ簡単に言うと夢見が悪いというか……あんまり眠ってたくないんだよね。でも全く寝てないわけじゃないから」
「どれくらい寝てる?」
「毎日2時間は寝てるよ。あとは限界がくればどっかで寝落ちるでしょ」
だからあんまり心配しなくていいよ。そう言って再び手元に目を落とそうとした伊波を、小柳の強い視線が妨げる。逃げるな。まるでそんな声が聞こえてきそうな鋭い眼光を真正面から浴びながら、伊波はただじっと黙って小柳の言葉を待った。
「――先週のお前の単独任務、犠牲者が出たんだろ。それもこども」
前置きも何も無い言葉に、心臓の辺りが抉られるような感覚がした。氷を飲み込んだように体の中心がすうっと冷えて、伊波は体の陰で震える手を握りしめると、乾いた笑いをこぼした。
「……はは。お前って本当にデリカシー無い。オレじゃなかったら泣いちゃうかもよ?」
「お前のせいだとは言ってないし、思ってもない。お前が市民を見殺しにするようなヤツじゃないことくらい分かってる」
「へぇ。なに、慰めてくれてんだ? 小柳ってそういうキャラだったっけ」
「伊波」
咎めるような声色に、涙が出そうだった。小柳がどうやら自分のことを心配しているらしいことくらい伊波も理解している。しかし伊波は今は外からのどんな言葉も求めていなかった。慰めも励ましもいらない。これは伊波本人の問題だった。
「……わかってんの。これはただ、オレが気持ちに折り合いつけられてないだけ」
今更変えられない現実に泣きわめくほど、伊波はこどもじゃない。しかし同時にそれを仕方がないことと即座にきっぱり切り捨てられるほどまた、老成もしていなかった。
脳裏に焼き付いている。一瞬で半壊した住宅地と、倒れ伏す人々。目を閉じればあの光景が鮮明に蘇ってきて、指先にこびりつく体温を感じて汗だくで飛び起きるのはもはやルーティーンになりかけていた。煌々と輝く月を窓越しに見上げ、祈るように瞑目しては深く息を吐く。そうして緩慢な動作でベッドから抜け出しては本部近くのラボに足を運ぶのが、伊波のここ一週間のお決まりの行動パターンになっていた。
「心配してくれてありがとね。任務に支障はきたさないようにするから」
そうじゃねぇよ、と言われるのはわかっていた。実際小柳も眉をひそめて口を開きかけたが、伊波の表情を見てなにかを察したのか、天井を仰ぎ見て複雑そうに顔を歪める。そして結局乱雑に髪を掻き乱すと、深い深いため息をついた。
「……お前は最善を尽くした。それは忘れんなよ」
そう言い残して去っていった小柳を静かに見送る。そうして再び無音となった箱の中で、伊波はただ血の滲んだ自身の手のひらをじっと見つめていた。