「なあ、朔間~。今日って空いてるっけ?」
夕方のカフェ、アイスコーヒーをストローで音を立てて飲んでいた朔間零は、顔を上げることなくスマホをいじりながら返した。
「んー……空いてるには空いておるが、何か用事でもあるのかや?」
「よし、じゃあ決まり!」
急に嬉しそうに身を乗り出してくる友人に、零はようやく顔を上げて軽く眉をひそめる。
「決まり、って何が」
「地下アイドルのライブ! チケット余っててさ~、オレ一人で行くのもな~って思ってたんだけど、朔間なら誘ってもいいかなって」
「……地下アイドル?」
「そうそう。『女装男子グループ』っていうカテゴリで、最近めちゃ人気出てきてんの! 今日出る子たち、マジでクオリティ高いから!」
「女装男子、ね……」
零はソファにもたれかかり、天井を見上げるようにしてふうとため息をついた。
女装、地下、アイドル。どれも彼の人生に縁がなかったジャンルだ。
「そういうの、正直あんまり興味ないんじゃが……」
「まぁそう言うなって! 見るだけでも面白いと思うぞ? 一人じゃ不安だし、な?」
友人の必死な様子に根負けしたというよりは、断るのも面倒だった。
「……ま、暇つぶしにはなるかのう」
「おっしゃ、来た! サンキュー朔間! じゃあ今日の19時な! 場所送る!」
そう言って嬉々とスマホを取り出す友人を見ながら、零は再び視線を落とす。
(まぁ、どうせ……化粧濃いだけの男が媚び売って歌ってるだけじゃろ)
期待はしていなかった。むしろ、最初から斜に構えていた。
それでも、その夜に見たものが自分の認識を根底から覆すことになるとは、まだ知らなかった。
午後19時
階段を下りきると、地下の小さな鉄扉が目の前に現れる。
装飾も看板もない、無機質な扉。だが、その内側からは確かな熱気と音が漏れていた。
零はしばし立ち止まり、重たい空気の流れに眼を細めた。
「……まるで異界にでも踏み込む気分じゃな」
静かに扉を押すと、すぐさま音の波が押し寄せた。
低く響くベース音。ライトの点滅。人々のざわめき。
室内はすでに多くの観客で埋まっていた。
派手な髪色の男たち、ぬいぐるみを持ったファン。
服装もノリも十人十色だが、どの顔にも共通しているのは“期待”の表情。
零は静かに視線を巡らせながら、壁際へと足を運ぶ。
その長身に加え、黒を基調としたシンプルな装い、髪を後ろで軽くまとめた姿は、周囲から見ると異質だった。
空気は熱を含み、わずかに香水や汗、機材の金属の匂いが混ざっていた。
煌びやかな世界とは程遠い。けれど、どこか生きている気配がする。
零はふと前方のステージを見やった。
カーテンが半分閉じられ、照明は仄暗く抑えられている。だが、その奥に何かが蠢いているような、そんな気配があった。
「……ふむ。始まる前の、空の舞台というのも……悪くはないのう」
ぼそりと呟きながら、ポケットから取り出したチケットを軽く折り、上着の内ポケットにしまう。
やがて、照明が落ち、ステージにスポットライトが当たる。観客の歓声が高まり、いよいよライブが始まろうとしていた
「晃牙ちゃーん!!今日も可愛いー!!」
「みかぁぁぁ!!」
自分の好きなアイドルの名を叫ぶ者達
朔間零は、その騒ぎの中心に視線を投じた。
スポットライトがステージに立つ一人のアイドルを照らす。
華やかなドレス。艶やかな銀髪に赤いリボン。
すらりとした肢体には鋭さとしなやかさが同居しており――
――その顔立ちは、美しかった。
だが、ただ美しいだけではない。
彼の表情は無愛想で、どこか不機嫌そうに口元を歪めていた。
笑顔も、媚びもない、なのに客席の熱狂はひときわ激しい。
その理由は――すぐにわかった
「震撼しやがれ愚民ども!」
鋭い、高い、でもどこか獣のような凶暴さを孕んだボーカル。
音楽に牙を立てるような、荒々しいパフォーマンス。
動きは獣のように跳ね、照明に照らされるたび、彼の輪郭が危うげに輝いた。
零は瞬きもせず、ステージを見つめていた。
ステージから退場したあと、場内にはすぐアナウンスが流れる。
『このあとは、チェキ撮影会がございます。お持ちの整理券を確認のうえ、順番にスタッフの指示に従ってお並びください』
「朔間はチェキ撮る?」
隣の友人が、いたずらっぽく笑いながら言った。
「いや、まぁせっかく来たしのう…」
「興味なかったんじゃないの?」
「……なかったけど、今は少しある」
「ハマり始めてんじゃんやっぱり! んじゃ、並ぶぞ!」
友人に押されるまま、零は列に並んだ
会場の一角にある小さなブースへと続く列。その奥には、仕切りの中に座った晃牙が待機しているらしい。
「大神晃牙……初めてでも優しくしてくれるかのう…?」
「うーん、優しいって感じではないけど、近いらしいよ。距離感がやばいって有名」
「近い……?」
「顔近い、触れる距離、ってか……あー、行ったら分かる!」
会話をしているうちに、順番はすぐ回ってきた。
「次の方、どうぞー」
スタッフの声と共に、仕切りをくぐる。
そこにいたのは、さっきのステージで獣のように歌っていた少年――大神晃牙
だが、彼はさっきとはまるで別人のように見えた。
脚を組んで椅子に座り、テーブルに肘をつきながら、退屈そうに頬杖をついている。
ドレスの肩が少しずれて、細い鎖骨が覗く。
「見ない顔だな、初めてか?」
「あ、あぁ今日が初めてでのう…」
晃牙が、ふっと口角を上げた。
「緊張してんのか? 顔固てぇぞ」
「そ、そうかのぅ…」
彼は無造作に立ち上がると、零の前に歩み寄り、至近距離に立った。
香水のような匂いがかすかに鼻先をかすめる。
そして、晃牙の指先が、零のネクタイに触れた。
「……ほら曲がってんぞ、こういうのちゃんとしとけよ。オッサンくせぇ」
指が、布の上から喉元をなぞった。
思わず息が詰まった。
チェキ会なんてただのイベントで、テンプレみたいなやりとりをするものだと思っていた。
だが、晃牙の声も、動きも、眼差しも――すべて“本物”だった。
「……どうすんだ。ハートポーズでもしてやろうか?」
「いや、普通に隣でいいぞい」
「つまんねーの」
そう言いながら、晃牙は零の腕に手を添えて、身体を寄せてきた。
頬がほんのわずかに触れそうな距離。
「カメラ、行きまーす」
スタッフの声に合わせて、カシャ、とシャッターが切られる
瞬間的な出来事だった。けれど零の中には、熱のようなものが残った。
こんな至近距離で他人と写真を撮るのは、人生で初めてだった。
「ほらよ」
プリントされたチェキを手渡しながら、晃牙が少し微笑む
「また来てくれよな」
その一言を残して、次の客へと向き直った。
零はその場を離れながら、チェキを眺める。
彼の横に自分の顔が映っていた。
少しだけ、頬が紅潮している。
アイドルの“距離感”なんて、どうせマニュアル通りの演出だと思っていた。
だが晃牙のそれは、違った
零はあの目に、あの声に心が少しだけ揺れていた。