山羊のうたマリーンのひとりが――その日によってまちまちではあるが、誰かしらマリーンが――、アルジュナの元に一冊のノートを届けてくれる。連絡帳、と表紙に書かれたそれは、そろそろ半分程のページが埋まろうとしていた。
「もう一人の私」
「ええ、……見てみましょうか」
近頃、アルジュナの部屋にはアルジュナ・オルタが共に過ごしている。どちらも自主的な謹慎状態で、そこまでしなくても、と藤丸にすら言われているが、どうしても外に出る事が恐ろしいのだ。
「今日は、なんと?」
「――本日の報告。朝食にフレンチトーストを食す。今朝はカリカリのベーコンと目玉焼きをつけたら大層気に入った様子で、昼もこれがいい、と言われた。食に関しての要望を口にしたのは初めての事だったので、一先ず前進とする。先日からの習慣でナーサリー・ライム達と本を読んで昼食までを過ごす。昼食時には一人で管制室に戻って来るので、何処で食べるかを選ばせてみる。理由は明確には判別つかないが、今日は私と二人で食す事を選択出来た。昼食はフレンチトーストでベーコンエッグを挟んだサンドイッチにした所これも気に入ったようで、夕飯にも強請られた。夕飯は既に別の料理を仕込んでいると伝えると、楽しみにしているとの発言あり。先の事、先の楽しみの事等を当たり前に自分にあるとして動き始めている。これはサンソンも経過良好としている。食後は小休憩の後にサンソンの診察を受け、その後はマリーンとボードゲームやバレーボールに興じていた模様。背が高い事を褒められましたと、自身の事を嬉しそうに語っていた事が印象に残る。夕食のカレーはほうれん草のカレーにしてみたのだが、どうやらあまり好みでは無かったらしい。いつも通りの反応と完食はしていたが、やや引き攣ったように見えたので尋ねてみるとどうやら匂いが嫌だった模様。こうして聞き出せるまで信頼関係は築けたとする。口直しにデザートのレモンソルベをミニサンデーにして出したら喜んでいた。寝る前に本を読んでやり、明日の朝食にほうれん草のソテーが出ても残さずに食べるから今夜のようにデザートが欲しい、と言われる。要望を受け入れるが、明日からはあまりほうれん草は出さない事にした。無論朝食にもデザートは付ける事とする。提案、そろそろ君等の話をしてみようと思うがどうする?」
「……相変わらず丁寧ですね」
「ええ……ええ、そうですね。丁寧で、とても優しい方だ」
あの方を導くに相応しい。ノートの書きこむために、アルジュナはペンを持った。連絡帳は、新所長であるゴルドルフ・ムジークと、アルジュナとアルジュナ・オルタとの間でやり取りされているものだ。交わされるやり取りは、全てインドラに係わる話題である。
インドラに霊基異常が襲い心身が“幼く”なったのは一月程前の事だった。発覚した時のインドラが少年程の姿になっていた事でいつものやつだなと誰もが頭を抱えていたのだが、どうも様子がおかしいとすぐに気付く事になった。インドラはぴくりとも動かずにいたのだ。なので依代にも不具合があったりするのだろうかと検査の手段を講じている頃、騒ぎを聞きつけてアルジュナとアルジュナ・オルタもその場に駆け付けた。
その時の事は、あまり思い出したくない。インドラはアルジュナ達を怖がったし、特にアルジュナ・オルタを前に失神する程怯えたのだ。その辺りの原因はまだわかっていないが、アスクレピオスによる判断で親子の接触は禁じられた。焦点の合わない目を向けられたアルジュナは「お父様、どうして」と掠れた声のみが渡されて、アルジュナ・オルタは見る事さえも拒まれて短い悲鳴だけが残された。そんな事があったので、アルジュナやアルジュナ・オルタは勿論だが、今インドラの周囲にインドという国に係わる英霊達は出来るだけ近寄らないようにしているらしい。
インドラの霊基異常について、ダ・ヴィンチは「成長する事」を解決策とした。色々と不安要素があるらしいが、結論はゆるぎなくその一点にあるらしい。そして成長するには導き手である所の親役が必要で、さてどうしたものかとひと悶着あったのだという。当初、藤丸が立候補したのだが、インドラの方が藤丸を怖がったので却下された。ボーダーで馴染みになったサーヴァントも幾名かが立候補してくれたが、アスクレピオスの判断で全員却下となり、このボーダー内で最も良識があって善良で優しい――お人よし、という基準で選ばれている――人物、という事で選ばれたのが新所長であるゴルドルフ・ムジークだったのだ。
インドラはゴルドルフによく懐いているらしい。ようやく別行動が出来るようになった、という程で、他には主治医に就いたサンソンや、普段遊んでいるマリーンや幼い姿のサーヴァント達と仲が良く、それからイアソンやオリオンが気にかけてくれているとも聞いている。今日の連絡帳にあったように、ようやく、やっと、自分の思っている事を素直に口に出せるようになって来たのだ。先は長いだろう、語り継がれるそれを聞いているだけのアルジュナ達が、知らないインドラの歩んで来た道の長さを思えばそれは当然の事だった。
「我々の話は不要、でいいですよね」
「はい。……父様には、許される限り穏やかな成長を」
「望みはただ、健やかである事、ですね」
まるでこちらが親になったようだと笑い合いながら、アルジュナとアルジュナ・オルタは連絡帳を閉じた。明日の朝、インドラは何を食べるだろう。好きな物ばかりの朝食の最後にデザートが出て来たら、どんな顔をするのだろうか。
笑顔で、喜び、美味しいと頬張って、無くなったらおかわりと言えるなら、そんなに幸せな事は無いだろう。心からそう思う。そのようにあれとインドラが自分達に望んでいた事を知ってしまったからには、もう、父のあの笑顔を失う訳にはいかないのだ。