山羊のうた「父上はいつも何をしているのですか?」
ノートに書きものをしていたら、不思議そうに首を傾げたインドラが立っていた。いつの間にと思ったが、そう言えば返事が無くても好きに入って来なさいね、と言ったのは自分だった。以前管制室の前で会議が終わるまで待ちぼうけをしていたインドラは、「許しが無くても」「自分の考えだけで」「入室する事を選ぶ」事が出来るようになった。こういう結果があるからゴルドルフはインドラの健やかな成長に係わる全てのスタッフに都度信頼を寄せられるのだ、まだ未婚で子供もいないのに。
「これはだな、君の……」
「私の?」
「……日記かな!うむ!成長日記!子供の成長は日々のものであるからしてマメに記録をしておかないといかんからね!特に君は成長著しいからもう嬉しくって全部書いちゃうみたいな!?」
「……!」
とても嬉しそうな笑顔だった。悪意は無いにしろレポートに纏めているとは言いたく無いし、それとは別に日々の報告を入れている相手がいるとも、まだ言う段階では無いらしい。
ある日インドラには霊基異常が襲って、心身ともに幼くなった。この時の騒動は割愛するとして、どうにもインドラの異変は霊基異常だけが原因では無く、寧ろ何かの要因がありそれに伴い霊基異常が起きたのだ――という見解だった。解決策としてダ・ヴィンチが打ち出したのが「成長する事」で、そして成長を導く親の役として白羽の矢が立ったのがゴルドルフだったという訳だ。インドラはゴルドルフによく懐きよく慕い、ゴルドルフの方も自分が絆されている自覚がある。そうでなければ毎日三食におやつまで、メニューを考え抜いて用意していない。
「私も日記、やりたいです。父上の事を記してもいいですか?賛歌は禁止されてしまったから……」
「そうね神々の王に賛歌されるのはちょっと人類史も腰抜かしちゃうからね」
「いけない事ですか?」
「ああいや、日記は……うん?日記!そうか!」
がたんとゴルドルフのが立ち上がり、転がり落ちたペンをインドラが追いかける。この手があったかと、ゴルドルフは希望と期待とを胸に新しいノートを求めてインドラと走り出したのだった。
***
インドラにとって一番側にありたいのはゴルドルフだが、逆にインドラ自身に一番寄り添ってくれているのはサンソンなのだろう、と思っている。その事に不満や落胆は無く、そも父親という存在がインドラに親しく振舞っている現状がおかしいのだ。よくはわからないけれど、そう、思っている。
「そう、それで日記を?とても賑やかで楽しいね」
「それは、ダ・ヴィンチにイロエンピツを貰ったから、それで絵も描くといいって言われて」
「良いと思うよ。このノートが埋まったら、一ページずつ一緒に見ていって思い出話をしてみてほしいな。これは記憶力の検査も兼ねるからね」
頷けばサンソンは優しく微笑んでくれた。サンソンの他にも医者がいるのは知っているが、その人達はインドラの前には現れない。忙しい方達だから、とサンソンが言っていた。きっとサンソンも忙しいのに、インドラのために時間を割いてくれているのだろう。その事に対して焦ってしまうけれど、同時にとても嬉しいのだ。「ここ」の人々は、インドラを気にかけて大切にしてくれる。
「でも、……難しくて」
「それは、何が?」
「毎日、残したい事が沢山あるから」
「そう……では先生が一つ悪い事を教えてしまおうかな。これを教えたらきっと沢山困らせてしまうかもしれないなあ、もしかしたら君は大変な思いをするかも」
急にサンソンがそんな事を言い出した。どうすれば良いのかがわからずに口を結ぶと、サンソンは悪戯ににやりと笑ってみせた。ゴルドルフはしない顔だ。だけど多分、インドラはそういう顔も、したかった。
「知りたいかい?」
声で示すには勇気がない。必死の思いで頷いて、そうしたらサンソンはある秘策を授けてくれたのだった。
***
その夜、アルジュナ達に届けられた連絡帳は三冊あった。内一冊は通常の、ゴルドルフとのやり取りに使っているものだ。今日もインドラは健康そのもの、よく寝てよく食べてよく遊び、ダ・ヴィンチに絵を習い始めて、背丈が伸びたから急ぎ新しく衣服を誂える時もデザインに希望を出す事が出来て、趣味を作る事が出来た。笑顔も増えた。詳しくは見て確かめて欲しいし、これからは毎日のチェックが大変な作業になるだろう、と書かれている。
そして残りの二冊は、インドラの絵日記だった。たった一日の間に出来た沢山の出来事が、一冊には収まりきらず二冊目にまではみ出している。
朝ゴルドルフに寝癖を直して貰った事、朝食のスープがとても美味しかった事、デザートに出て来たプリンははちみつの味がした事、ゴルドルフは予定を毎日教えてくれて嬉しい事、ナーサリー・ライム達と絵本を読んでその絵本のごっこ遊びをした事、日記をつけるようになった事、昼食に食べたウドンが実はキシメンという別のもので驚いた事、箸の使い方をゴルドルフに褒めて貰えた事、おやつのケーキ作りを手伝った事、ケーキの焼き時間はずっとゴルドルフと話が出来た事、ケーキのデコレーションが上手く出来た事、管制室の皆でケーキを切り分けて食べた事、ダ・ヴィンチが絵を教えてくれる約束をしてくれた事、マリーンとトランプタワーを作って遊んだ事、ネモが手伝ってくれてトランプタワーがトランプシップになった事、マリーンと卓球をした事、サンソンが「悪い事」を教えてくれた事、新しい服を作って貰える事、夕飯はグラタンでそれをパンと食べる「悪い事」をゴルドルフも教えてくれた事、日記がたくさんつけられた事、収まらなくて悩んでいたらゴルドルフが二冊目のノートをくれた事、今日の全てが楽しかった事、それらを自分で確かめられた事。
溢れんばかりのさいわいが詰まったノートは、明日からも見られるらしい。良かった、とアルジュナ・オルタが呟き、アルジュナもそれに頷いた。
「あの方の……あの方に不要なものは、全て払拭して頂けそうですね」
「はい。きっと……いつかご挨拶がしたいですね。許されない事であっても、一度笑顔が見てみたい」
笑顔が増えた、と、連絡帳にはある。インドラの、あの時見た、硬直した様子ももう解かれている。このまま部屋に籠っていても、きっとゴルドルフ達がインドラを育ててくれるだろう。一助になれるとも思っていないが、それでもいつか、と願ってしまう。
名前を呼んで、わかりにくく笑んだり頭を撫でたり、心配したり誇らしげにしてくれたり。インドラが向けてくれる愛情が嬉しかったのだ。同じだけが無理だとしても、同じように伝えられるものが自分達にもある筈だ。それを思い出して、アルジュナ達も連絡帳に書き込みをしてノートを閉じたのだった。