爆ぜ栗は盤上を転がらずコツコツ、と扉を叩く。
爆弾隊の宿舎の1階。その1番奥の部屋。二階の回廊が上を塞いだ暗い通路を進んだ先の、隣り合った部屋が一つもないそこが、フライの部屋だ。
今開ける、と中からあいつの声がして、すぐに戸が開いた。
…少しホッとする自分を内心で叱咤する。
会議の後に約束を取り付けたのだから、いないわけがないのに。
入ってくれ、と声をかけられて、慌てて一つ頷いて素早く体を扉の内側へ滑り込ませる。
この部屋の場所じゃ誰かに見られる事はないだろうけど、念の為だ。
「鍵は好きにしてくれ。いつも通り、水道使っていいからな。」
「…ああ。」
俺が頷くと、フライはそのまま奥へと進んでいく。
最初にこの部屋に来たときから変わらないやり取りだ。言外に逃げ道を確保しておきたければ開けておけと言われていると気づき、ナメられているようで腹が立って目の前で鍵を掛けてやってから、ずっと締めてはいるが。
本気で逃げるなら致す寝床の横にある窓をぶち破って出た方が早いし、万が一誰かが訪ねてきたらと思うと気が気では無いから今日もいつも通りに鍵を掛けて「…邪魔する。」と一応礼儀として断って、水道のあるスペースへ向かう。
「洗ったから清潔だ、これ使ってくれ」と、先に居たフライからこれもいつもどおりに杯を渡されて。
そのまま寝床に向かおうとするフライに「待て」と声をかける。
「ん?どうした?」
綺麗にしたつもりだったが、汚れていたか?と問われるから首を振る。
「…ここに、居てくれ。」
「別に構わんが…?」
待てと言うなら待つぞと柱に身を預けてこっちを眺めている。
…少し緊張するが、いつもよりはマシだ。
ぐび、と水を流し込んでもういいと頷くと、なんだかよく分からないが、いいなら寝床に行こうかと言われて、はし、と鰭を掴まれる。
「は?なんだ?」
「いや、わざわざ呼び止めるから。」
寝床まで鰭を繋いで欲しいのかと、と言われて「俺は迷い子の新兵じゃない!」とフライの鰭を振り払えばクスクスと笑われる。
「本当か?さっき、なかなか所在なさそうな顔をしていたがなあ?」
「な、ん…!!」
「ふふ、1匹で来れるなら構わないが。」
振り払った鰭をヒラヒラと振りながら、寝床に座ると隣をぽふ、と叩いて
「ほら、おいでシルバー?」
腹立たしいが行かないわけにもいかないから黙ってフライを睨みながら隣に座る。
「ちゃんと1匹で来れて偉いじゃないか。ん?」
つい、と下顎を取られてフライの方を向かされる。ゔ〜と唸れば楽しそうに目を細めて。
「それで?何がしたかったんだ、あれは?」
「…別に、何もない。お前への嫌がらせだ。」
「おや、そうだったのか。」
それは気が付かなかったなぁ、と鼻先を擦り寄せながら言われて。
すり、すり、と鰭でも頭を撫でられて思わずほぅ、と嘆息する。
「ほん、とうだ…。ん、うそじゃない…。」
「そうかそうか。うん、それで?」
腹の奥まで染み入るような、甘い声音がどろりと注がれて、ナニか得体の知れないモノが満ちていく。
もっと満たされたくて、促されるままに口を開いて。
「お、まえの、じゅんび、じゃま、したくて…」
「ふふ、そうなのか?…悪い子だなぁ。」
耳元で囁かれると、なぜか腹の深くがびくりとして「ひ…」と喉が鳴る。
「だ、て、おまえ、が…」
「ん?俺がなんだ?」
もう背骨に力が少しも入らなくて、くたりとフライに寄りかかる
「お、まえ、が、ベルト、はずすおと、きこえる…から」
そう、いつも俺が水を飲む間にフライはベルトを外して準備を整えている。…その音が、自分を酷く緊張させるのだ。
「そりゃあ、外すだろう。」
こうして身を寄せるときに邪魔だしな。とフライがワザとベルト同士を当ててカツリと音を出す。
「ああ、それとも今日は口吸いだけがいいってことか?ふ、随分と洒落た言い回しをしてくれるな、俺はそれでも構わないぞ。」
「べつに、そういうことじゃない…」
ズボンを脱ぐなと意味で言ったんじゃない、そう言って首を振ると「お前の嫌がらせは難解だなぁ」とクツクツ笑われる。
「まさかベルトを外す音を聞くと緊張するから聞きたくない、なんてわけでもないだろう?」
「…お前の嫌がらせは、ストレートに最悪だな…」
分かっているならそう言えば良いものを、まるで質問のようにこちらへ投げつけるのは、あまりにも性格が悪い。
「俺は嫌がらせのつもりなんてないぞ?確信もなかったしな。ただ、今日はいつもより身が硬くなって無い気がしたから、もしかしたらと。」
この音、そんなに緊張するか?と言って留め具を一つパチリと取って見せる。
「…今は、平気だ。」
「ほう?」
遠くで聞くのが嫌なのか?と聞かれても自分でもよく分からないから、さあ…?と首を捻るしかない。
「分からないが…、なんというか、『これからするんだ』って、明確に感じてしまう、というか…」
「そうだぞ?これからたっぷり可愛がってやろうと思ってるが?」
「そ、そういうことをわざわざ、言うなよ…!」
しかも耳元で…!!思わず体にグッと力を入れてしまう。そうだ、いつも水場でフライがベルトを外す音を聞いている時は、体がこんな風に緊張する。
せっかく今日はあまり緊張しないでいられていたのに!とフライを睨むと面白そうにこっちを見て、ふふ、と笑われる。
「な、なんだよ…!!」
「ああ、いや、すまんな。お前より先になんでなのか分かってしまって」
つい面白くなってしまったと言われて顔を顰める。
「なんで俺のことなのにお前が先に分かるんだよ…」
「自分のことなどそうそう分かるものでもないだろう?他の目から見ればあまりに分かりやすくても。」
「それは、まぁ、そういうこともあるだろうが…」
前にコイツと対局したチェスを思い出す。
追い込まれた局面で、何か打開は出来ないかと逃げ回るだけの俺の駒を心底楽しそうに詰められて。
こちらの負けはずっと前に決していたと後になって言われたが、最中自分では全く分からなかった。
「…降参だって言えば教えてくれるのか。」
「おや、今回は往生際がいいな。」
そう言ってあのときと同じ顔で笑うから、どうやらフライも同じことを思い出していたらしい。
「あのときだってもう手はないって言われていればやめていた!無駄に逃げ回るのは俺の性分じゃない。ケリが簡潔に着くならそれに越したことはないからな。」
勝ち目の無い戦いを続けるならさっさと切り上げて次に繋げたほうがいいに決まっているんだ。
「そうか?じゃあ教えてしまってもいいが…ふむ、タダでと言うわけにはいかないな?」
「な、なにさせる気だ…?」
「いやなに、残りのベルト、お前に外してもらおうと思ってな。」
そう言ってさっき自分ではずしてみせた留め具をぷらぷらと揺らして見せる。
「なんだ、そんなことか…。」
そのくらいなら別に、と頷いて、向かって右の留め具を同じくパチリと外す。
あとは後ろだ、とフライに抱きつくようにして背の方に鰭を伸ばす。
と、フライがぎゅ、と抱きしめてくる。
「ん…?なんだ?」
「そっちのベルトは、答え合わせの後に外してもらおう。」
「うん…?ああ、なんでなのか教えてくれるのか?」
なんだ、前のベルトだけで良かったんだなとフライを見上げると、うっそりと笑われて。
「な、なん、だよ…」
「なあ、さっき言ってた『緊張』、勘違いだと思うぞ?」
「は?」
「勘違い、も少し違うか。当たらずとも遠からずと言ったところだな。」
この年上のシャケは、時折こうして言葉を小エビか何かのように口の中で転がして遊ぶ節がある。とっとと吐き出せと言いたくなるのは自分が比べてあまりに若いせいなのだろうか。
「…回りくどいのは嫌いだ。はっきり言ってくれ。」
「じゃあはっきりさせよう。お前が『緊張』だと思ってるそれな、『期待』っていうんだ。」
…キタイ。
「…空気とかガスをそう呼ぶんだよな?」
「それは気体だなぁ。」
てことは、キタイって…期待か…?
言わんとしていることをやっと正確に汲み取って、顔に熱が一気に集まる。
「き、期待なんかしてない…!俺は、その、癖になったから、仕方なく…!」
「それはもちろんそうだ。まあ、俺がそうだったら嬉しいと思ってる、希望的観測も入っているから強くは言えんがな。」
「希望的って…嬉しい、のか、それ…」
「ああ。嬉しいな。」
こつ、こつ、と嘴の先で首元を甘噛まれて、思わず「んん…」と声が漏れる。
「思えば最初に優しくしてくれと要望を受けたきりだ。なにか俺に期待してくれているなら、言って欲しい。」
身がすくむ程、俺に何かを望んでくれるのは、純粋に嬉しい。
そう言って背中を摩られるから、黙ってフライの背中のベルトをパチリと外してやる。
「ん、全部外してくれたか。ありがとうな。」
「…変わってない。」
「うん?」
「コレが期待だっていうなら、その…。お、お前に、求めてることは、最初から、変わってない…」
最初からずっと甘やかされて。
いつだってこの盤面には逃げ道まで用意されているから。
自分でそれを閉ざすしか、不器用な自分には応えられない。
「…ケリを着けてくれ。逃げ回るのは、好かない。」
もう逃げ道を用意したフリをするのはやめてくれ。本当は詰んでいるんだから。
「ふふ、そうか。じゃあ今日もたくさん甘やかしてやらんとなぁ。」
愛おしそうに触れる鰭に擦り寄る。
「ああ、可愛いなぁ、シルバー…。」
すぅ、と細めた瞳に宿るのは狂気だ。
これは、愛ではなく、愛玩で。
形を変えた暴力と征服。それ以上でも以下でもなく。
…それを真っ直ぐにふるえる相手が俺しか居ないのは、正直、堪らない優越感がある。
あの盤上で追われていたとき、俺の駒に注がれた視線は、珍しく楽しそうだった。
だから、追い詰めてくれ、骨の髄まで。駒ではなく、俺を。
そうしたら快楽を感じづらいお前の、虚ろな心のその片隅くらいは、俺でも埋めてやれるかもしれない。
そう願って、喉の奥で何かを乞うようにきゅうと鳴いてみせた。