果たすべきは、 ここで待てと、あなたは仰いました。
『承知しました』
それが命令なら、私は従うだけでした。
『行ってらっしゃいませ、──様』
私の言葉に、あなたはただ、背を向けて去るのみでした。
待ちました。どれだけの月日が経とうとも。
待ちました。この体が立っていられなくなろうとも。
私はただ、待っていました。
──分かっていたのです。
あの日、あなたが終わりに向かわれたということを。
だからこそ、あなたが帰ってくることは、もう、二度とないのだと。
分かっていて、それでも。
私は、待つことを選んだのです。
それが、あなたが私に残した、最期の言葉だったから。
あぁ、でも。
申し訳ありません、──様。
私は、あなたの言いつけを守れなかった不忠者です。
待てと言われていたのに、待ち続けられず地に臥してしまったのだから。
──様。私は。
あなたが大願を果たす時、あなたは何者もを必要としないと、理解しておりました。
それでも、それでも。
ただ、私は、……僕は、あなたの──
『……う、か。……に、…くださ、い。──、様……』
最期に空に伸ばした手は、誰に拾われることもなく、力ないまま地面に落ちた。
■■■
──目を、覚ました。
ぼやける思考と視界を確認して、今まで自分が眠っていたことを自覚する。身じろぎしようとした体は痛く、重い。それに、ずいぶんと寒い。
「……また、あの夢」
それから、先ほどまでの光景を思い出した。昔から見る、よく分からない夢。定期的に見るものだから、いつからか他人事のようには思えなくなっている。
ただの夢だと言い切るには、あまりにもリアルな夢だ。まるで、いつかの経験を何度も繰り返しているような感覚さえする。
──夢に出てくるあの子は誰かを待っていた。でも誰を? ……分からない。何度夢を見ても、何度考えても、思考は靄がかかっているようにはっきりとしない。
本当にそんな「誰か」がいるのかは分からない。だって、所詮は夢だ。どれだけリアルだといっても、現実味がないのも確かだった。
それでも、「誰か」を探してみたいと思った。夢にいるあの子は、ずっと「誰か」を探しに行きたがっていたと思うから。
だから自分は、狭い場所から逃げ出して、彷徨いながらたくさんの街を歩いてきたのだ。
今日だってそうだ。答えが見つかるかも分からないまま、ただ歩いて、あちこちを見て回って。それで、視線を向けた先に誰かがいて──あぁ、そうだ。たまたま目が合ってしまっただけの、なんだか物騒な人たちに襲われたのだ。
治安が悪い場所とは聞いていたものの、目が合っただけで襲われるとは思わなかった。逃げる間もなく取り囲まれて、殴られたり、蹴られたり。痛い事には慣れていたから終わるのをただ待っていたが、そんな自分の態度があの人たちは気に入らなかったらしい。まさか、意識が飛ぶまでやられるなんて……。
そうしてふと、ここはどこだろう、と辺りを見回した。どうやら暗くて狭いどこかの路地裏、そこにあるゴミ捨て場に積まれた袋の上に転がされているらしい。
雨が降っているということも、ここでようやく気が付いた。眠っている間に降り出していたのだろう。無抵抗に雨ざらしに遭っていたのだから、寒くて当然だ。だというのに、顔の左側だけがやけに熱い。思えば、先ほどから視界は右側だけしか開いていない。
──そういえば、切られたんだっけ。
暴力を受け続ける体に刃が振り降ろされたことを思い出して、そっと手で触れてみる。指に感じる生暖かさから、ほぼ止まっているとはいえ、出血自体は続いているらしいことが分かる。なるほど、寒いのは雨のせいだけじゃないのかもしれない。
自分の置かれた状況を理解したところで、さてどうしたものかと思案する。このままここで転がり続けているわけにはいかない。けれど、痛みと雨に打たれ続けた体は動いてくれそうにない。それに、なんだかひどく眠い。
──ここで、終わりかな。
なにも見つけられないまま、死ぬのだろうか。そう思いはするものの、不思議と何も感じない。悔しさも、虚しさもない。胸の内にある空白に、すべてが落ちて消えていくようだ。
いつもそうだ。生まれてからずっと、自分の中に感じているもの。なにかが足りない、満たされていない──何を置いても埋まらない、そう確信できるほどの、空白。
空白があるからか、心はずっと凪いでいて、自分でも起伏があるのか分からない。ただそこにいて、生きているけど生きていない、ような。周りの人たちは皆、そんな自分のことを気味悪がっていたように思う。
ぼんやりと思考している間にも、重くなった瞼が少しずつ降りてくる。呼吸も、段々と浅くしか吸えなくなってきたような気がする。
夢の中のあの子も、そうだった。動きたいのに、動けない。瞼が重くてしょうがない。それで、結局。閉じた瞼は二度と開かなかったのだ。
あの夢は、あれで終わり。それなら、ここにいる自分も、瞼を閉じてしまえば、もしかしたらきっと……?
でも、まあいいか、とも思う。正直に言えば、疲れてしまった。これ以上、存在するのか分からないものを探したところで意味はない。
それなら、今の体が求めるものを与えようと、瞼を降ろそうとして────
──降ろしきるよりも先に、耳に届く音があった。
■■■
「若様、濡れてしまいます。傘を──」
「要らないよ、邪魔だもの」
──誰か、いる……?
聞こえてきたのは二人分の声。降りたがる瞼に抵抗して、無理矢理にでも開いてみる。ぼやけた視界の先に、誰かが立っているのが分かった。聞こえた二つの声のうち、片方は……特有の高さからして、子どもだろうか?
「ねぇ、しんでる?」
楽しそうに問う声に、つい眉をひそめた。返される答えが分かっていながら、わざとらしく、面白おかしくこちらに訊いているような声だった。
声の主の姿はまだよく見えないが、転がっているはずの自分の目線、その高さにちょうど頭部らしきものが見える。そこから背丈を考えれば、やはり相手は子どもなのだろうと思う。
自分に、子どもの知り合いなんていない。でも、なぜだろう。自分はこの声を知っている気がする。昔、似たようなことを誰かに問われたような──
──昔って、いつのこと?
『君、死んでるの?』
──声がする。
『ああ、動けるんだ?思ったよりタフだね』
『ふうん。壊れにくいなら、その分使いやすそうだ』
──楽しそうに笑う声が聞こえる。
『別に種族名でいいんだけど、区別が面倒だな。……あぁ、そういえば──』
──空を見上げた瞳の、その色が見える。
覚えのない記憶が、走馬灯のように脳裏を駆けた。知らないのに、知っている。初めてのはずなのに、なぜだかどこか懐かしい。
その感覚を覚えた途端、胸の内がざわつき始めた。今まで生きてきて初めて得る感覚に戸惑うが、苦しくはない。まるで自分を急かすようなそれは、瞼の重さすらも忘れさせた。
瞼をこじ開けて、前を見る。そこには一人の少年がいた。上等そうな着物が雨に濡れるのも構わず、愉快そうに目を細めて笑っている。
そんな少年の瞳が、琥珀色の光が、真っ直ぐに自分を見ていた。
「──────……ぁ……?」
──それを、見て。
胸のざわつきが集まって、確信を告げるように、ひとつ、ふたつと鼓動を響かせた。
凪いでいた心が嘘のように波立って、鼓動は自分の中の空白に落ちていく。
落ちて、落ちて──それは段々と積み重なるように、余白を埋めていく。靄がかかっていたはずの思考が、鼓動と共に緩やかに晴れていく。
そうして一度、瞬く。定まった視点の先にいる少年の顔と、輪郭を取り戻した自分の胸の内を探り、震えた息が思わず零れた。
───あぁ、そうか。あの夢は。何度も見てきたあの光景は。
いつかの時を生きた、かつての自分だったのか。
「誰か」を待ち続けて、でも本当は探しに行きたくて、けれど虚しく命が尽きてしまった、かつての自分の、いつかの終わり。
「ね、聞こえてない?『しんでる?』って、訊いてるんだけど」
間違いない。間違えるわけがない。
夢の中の自分がずっと待っていたのは、今ここにいる自分がずっと探していたのは。
この方だ。この方以外にはあり得ない。
──だって僕は、この声を、この色を、この光を、知っている。
あの日、言葉を残した「誰か」が。
あの日、終わりに向かった「誰か」が。
──「あなた」が。今、僕の目の前で──
「…………、いき、てる……」
うるさいほどに鳴り続ける鼓動で押し出した声は、ほとんど掠れた吐息になってしまった。けれど彼は、その中にある言葉を聞き取ってくれたらしい。
「あは、喋った」
と、まるで壊れかけの玩具が動いたのを面白がるように彼はまた笑った。そのままじろじろとこちらを見ていたかと思えば、小さな手を持ち上げる。
「うーん、汚い。素人の腕だね」
細い指が、自分の目を縦に走る傷口をなぞる。切り口を割り開くように指を押し付けられて、鋭い痛みに思わず顔を顰めてしまう。それでも決して瞼は閉じず真っ直ぐに、目の前にいるその人を見ていた。目を、逸らしたくなかったから。
そんな自分の様子を見て、彼は一言うん、と頷くと。
「気に入った。……これ、持って帰るよ」
そう言って、後ろに控えている付き人らしい男に、いいよね?、と振り向きながら声をかける。
「……若様。素性の知れないヤツをウチに連れ込むのは……」
彼の言葉を受けた男は頷きつつも、怪訝そうに苦言を呈す。が、それに対して彼も、冷ややかな声を返した。
「僕が決めたことに君が口を出すの?偉くなったねぇ」
嫌味か脅しか、圧を込められた言葉に男は慌てたように「そんなつもりでは…!」と弁解をした後、電話を取り出す。何処かに連絡でもするのだろうか。
「ふふ、平気だよ。帰ったら僕のだって分かるようにしておくから」
指示通りに動き始めた付き人を流すように見た彼は、再びこちらに視線を向けると、顔を覗き込むように自らのそれを寄せて、訊ねる。
「さて、と。君、名前くらいはあるよね?教えてくれる?」
「…………な、まえ」
問われた言葉を復唱する。それから、言葉を続けようとして、でも一度だけ口を引き結ぶ。
名前は、ある。この世に生まれて、与えられた名が確かにある。
──けれど。
『今夜は満月、か。……うん、決めた。お前は今日から───』
あなたに呼ばれるのなら。また、お呼びいただけるのなら。
「────"月詠"、と」
この名が良い。この名以外は、要らない。
「はは、変わった名前。ま、僕が言えたことではないか」
乾いた笑いと共に言葉を落とした彼は、そのままこちらを誘うように手を差し伸べた。
「──それじゃあ、月詠。君は今日から、僕の所有物だ」
拒否権なんてないから、と。瞼と共に細められた琥珀色が告げている。
その色に、勿論です、と。胸の内でひとり呟く。あなたが、それを望むのなら。受け入れない選択肢は、自分の中に存在しない。
ひとつ頷いて、それから。差し伸べられた彼の手に、おそるおそる己の手を伸ばした。
……夢とは違う。手は、地に落ちない。差し出したそれは、確かに彼に拾われる。
そのまま、力任せに引き寄せられた。無理矢理に腕を引かれた体が痛い。なんとか地に着いた足も、気を抜けばすぐに崩れ落ちてしまいそうだ。
鼓動は、いまだに胸を打ち鳴らしている。内側から込み上げる熱が、じわりと目元を焼いていく。声にならない感嘆が、浅い呼吸と共に雨の中で溶けていく。
それでも、あなたに示さなければ。
体が震えながらも膝をついた。首を垂れて、己の手を掴んだ彼の手を崇めるように持ち上げる。
それから。息を吸って、口を開いて。
「───あなたに拾われた命は、ただ、あなたのために」
いつかの忠誠を、果たせなかったものを、もう一度。
ただひとり、あなたのためだけに。
彼は、静かに自分を見ていた。その瞳に、満足そうな色を浮かべて。
そして一言、「精々、壊れないようにね」と、笑っていた。
■■■
───分かっているのです。
道具風情が、こんな願いを持っていいはずがないと。
……それでも。
今度こそ。今世こそ。
どうか、最期まで。
私を、あなたのお傍に置かせてください。
────黒雷様。