月夜線香の煙が揺れる。
一人ひとりが焼香を済ませていく中、ゆっくりと回ってきたそれにやけに緊張したのを今でも覚えている。
「大丈夫だよ」
そう隣で小さく言う彼女は、淡々とそれを終えた。
俺も彼女に倣ってゆっくりと一連の動作を終わらせる。
それが、今この空間の中で最も必要だった人への俺からできる最後の作業だった。
「お疲れ様。」
「それはこっちのセリフだろ。」
縁側に座れば、涼しい風が吹き抜ける。
部屋の中に充満した匂いは嗅ぎなれないもので、智治にとっては初めてのものだった。
腕の中で寝息を立てる我が子。
明音は、どうやら長時間のお経が良い子守歌になってしまったらしい。
「千明にとってはおじさんになるのか?」
「うん、父方のね。とっても優しくて、昔よく遊んでもらってたかな。」
「そうか。」
室内を見れば、10畳ほどの部屋に揃って黒い服を着た人が溢れている。
それぞれに食事を食べながら、話題は亡き人との思い出で溢れる。
溢れた人と思いはひしひしと悲しみに暮れるが、それでも誰も終始悲しみに更けこむことはなかった。
「千明ちゃんはやっぱり美人になったね。こいつも言ってたよ。」
「ねぇ、ちょっとお酌して千明ちゃん。旦那の話も聞かせてよ。」
「もぉ、おじさんたち飲みすぎだよ。」
酒の入った親戚が騒ぎ立てれば、千明は困った顔で笑って立ち上がる。
智治も「俺も挨拶に」などと立ち上がり輪に入れば、話題は新婚の夫婦に集中する。
いわゆる、親戚の集まり。
しかし、これはよくあることではない。
なぜならこれは三回忌だからだ。
故人は千明の叔父。
父親の弟で昔から付き合いの良い男性だったそうだ。
終始独り身だったというが、誰にも優しく聡明な男性だった。
智治自身も、結婚式に参列をお願いした際に、顔を合わせており、その印象は大きなものだった。
最初、千明の家に挨拶に行ったとき、『お前が千明ちゃんを幸せにできるのか』と、問いただされたときは焦った。
それは父親の口から聞くセリフだと思っていたからだ。
面食らった俺に彼は続けてこういった。
『って、一回言ってみたかったんだよね』と。
それは場を和ませるジョークだったのだろう。
それでも、智治にはどうにも真正面の疑問に聞こえてならなかった。
だからその時、俺は咄嗟に返事を返した。
「千明は俺を幸せにしてくれます。だから、俺は全力で答えたい。」
あのセリフは痺れた。などと、知らぬうちに親戚中に触れ回っていたその返事が、後々まで尾を引いたのは言うまでもない。
「なんだっけ、幸せかどうかは千明が決めてくれます。俺は、俺を幸せにしてくれた千明を幸せにしたいです。だっけ」
「父さんなんでそんなはっきり覚えてるのよ。」
「あの、えっと、ほんと、、勘弁してください。」
「いいじゃないか、若い時しか言えないぞ!」
掘り返されて囃し立てられれば、返す言葉もない。
千明は終始恥ずかしがっているが、それさえいい酒の肴だった。
腕の中で身じろいだ明音に視線を落とせば、うっすらを目を開いている。
瞬間クシャリをゆがむ表情。
智治が「おっとこれは」と立ち上がると同時に、大きな口を開いて泣き始めた。
すると今度は、親戚の女性陣が一斉に盛り上がる。
怱々に腕の中から離されていった娘は、女性陣の輪の中であやされる。
泣くことが仕事とはよく言ったもので、泣いても笑っても、周囲の顔が険悪に変わることはない。
盛り上がる話題も底を付き始めたころ。
親戚の話題はプライベートな叔父さんの話になっていき、次第に何も知らない若造達が、聞き手に回ることになった。
漏れることなく智治もその一人だったわけだが、やんわりと結婚をしなかった叔父が無類の酒好きだったとか、
それでいてメリハリのついたいい酒の飲み方を知っている人だったとか、自然と酒の話になっていた。
それは叔父が飲んだくれるタイプではなく、酒の席で語る人間だったからだと、誰かが言う。
酒の入った叔父はどんなに薄暗く、嫌みな話題でも、現実的に語ることが好きだったそうだ。
それは正解を見つけるというよりも、自身の意思をはっきりとさせたい気持ちがあったんだろうと、また誰かが言う。
そうやって語られる中、智治の意識はぼんやりと別のことに向いていた。
しばらくして、酒の席も終わりとなり、それぞれに帰路につく。
智治は腕に抱いた明音を眺めながら、ふと口を開いた。
「なぁ、千明。千明は俺のことどう思う。」
「?何突然。」
「いや、今日みんなの話を聞いていて思ったんだ。
俺は葬式も三回忌も初めてで、あーゆー雰囲気はどうにも苦手で、」
「珍しい、ちょっと酔ってる。」
「ちょっとな」
薄暗い道に、街灯が点々としている。
普段はあまり歩かない道だが、それでも、覚えのある通りに進めば、家までは30分ほどでつく。
酒に弱いわけではないが、親戚の集まりではどうにも緊張してうまく酔えない智治だったが、今日は幾分か穏やかに飲めた。
それは娘ができた責任やら、周囲との咀嚼の良さがあったのだろう。
「俺には親戚はいない。
だから、俺のことを語り継いでくれるのはお前と娘だけだろ。」
「大げさだな。
前にも言ったけど、母さんも、父さんも、それに宮さんだって、智治のことちゃんと見てくれてるよ。」
「・・・おう」
「不服?」
「不服、じゃない、けど」
煮え切らず言いよどむ智治に千明はあくびを溢した。
ばたばたと立ち回り、娘の世話をしていた彼女に疲労感があるのは当たり前だ。
それを見た、智治はくすっと笑った。
「俺はお前に語ってほしい。」
などと、口に出たのは、きっと酔っていたから。
━━9年後。4月28日。
線香の煙が揺れる。
それをどこか心細く感じるのは、それが迎え火のように感じているからだろう。
昔、彼女の家で見たお盆の迎え火は、焙烙の上でオガラを焼いて、火の粉を巻いて上がる煙は、人が掴みやすい大きさをしていたように思う。
「お父さん!お水注いできたよ!」
「おう、重かったろ。」
「大丈夫!はじめよ!智音は私がする!」
「はいはい、んじゃ、任せたぞ。」
持ってきたのは水の入ったバケツに柄杓とタオル、線香と、お米とお菓子、そして花。
場所は寺の墓地。
そして目の前には、『松川家』と書かれた墓が二つ並んでいる。
今日は、松川千明と松川智音の命日だ。
明音はゆっくりと小さい墓に水をかける。
掛け方など知りはしないだろうが、それでも丁寧に裏側まで回ってきちんと拭き上げる様子に、いつかのお風呂での騒ぎを思い出す。
智治は、明音が賢明に姉でいる姿にぐっと涙をこらえて、千明を見る。
そこにあるのは冷たい石だが、それでも、もう、彼女はここにしかいない。
肩口に水をかける。
彼女は、いつも長い髪が濡れることを気にしていた。
『智治がほめてくれるから』と伸ばしている髪はいつも艶やかだった。
反対の肩にも水をかける。
背中はすらっとしていて、項に入れた真っ赤なアマリリスのタトゥーは、智治の誕生日花だ。
いつもそこにキスすることを、彼女は嬉し気に受け入れてくれた。
ゆっくりと頭に水をかける。
髪のインナーに入った薄紫のカラーが、きらきらと水と光に反射するのが好きだった。
彼女は自分の瞳を好いてくれていて、その色にとお願いしたと突然染めてきたときには込み上げる感情を抑えるのが大変だった。
流れる水をゆっくりと拭き上げる。
智治より本当は少しだけ身長が高くて、それでも、出会ってすぐのころ、智治の方が身長が高かったことを懐かしんでは、
抱きしめてほしいと温かさを求めてくれた腕が背中に回れば、彼女は心臓の音に耳を寄せて、言っていた。
『どうか、生きていて』
それはいつも無茶をする智治への、純粋な願いだった。
その一言で、鉄砲玉とまで言われた一人の警官は、怪我こそ耐えなかったが、ぐっとこらえることを覚えた。
「お父さん終わったよ!きれいになった?」
「!ふはっ・・・おう、きれいになったよ。」
呼ばれてぼんやりしていた思考を急いで戻す。
智治は自分を呼んだ明音を見て、笑った。
満面の笑みでタオル片手にやり切った顔をしている明音は、自分が汚れることなど気にしていなかった様子で、シャツがびっしょりと濡れていた。
指摘されれば、「でも綺麗になったからいいの!」と言い放つ。
それでも、お母さんに見てほしいからと意気込んで着て来たシャツが濡れていることに少ししょんぼりもしている。
智治はそんな明音に、花を二人分に分けるように伝える。
さっきのしょんぼりなどもう忘れたのか、花の好きな娘は楽し気に「この花は母さんの、この花は智音の」と分け始める。
智治は、墓石を拭き上げ終えると、周囲に箒をかけ、線香を準備する。
すでに、誰かが墓参りに来てくれていたようで、すでに何本かの線香が立っていたが、掃除のために一時的に線香立てごとよけており、それをそっと持ち上げる。
灰がふわふわと風に乗る。
匂いがすっと広がる。煙が、揺れる。
空に飛んでいくそれが、智治の瞳には月夜に照らされて白く伸びていくように見える。
どこまでも、どこまでも、ただ白い糸のように、彼女の元に。
「はは、ナイーブかよ。」
「とおさん!これ母さんの!」
「ん、サンキュー。」
智治は線香立てを元に戻し、明音から受け取った花を、花立てへ差し込む。
手を離せば、ふわっと広がる花と葉。
簡単にそれをまとめると、今度は別の花立てへ。
明音は智治が簡単にまとめたそれを、丁寧に広げ直し、見栄え良く整える。
それを計四回繰り返して、明音は満足気に笑った。
「今日も綺麗!」
「ん、そうな。んじゃ、俺は線香に火をつけるから、明音は二人のお供え物な。」
「はーい!」
明音は元気よく返事をすると、お菓子の袋に手を伸ばす。
すでに二人にはいくつかのお供え物がしてあったが、誰もが甘いものを並べていた。
それはそうだろう。
千明はパティシエであり、ケーキ職人だった。
地元では名の知れた人気店で働いており、いつも新しいケーキをと余念なく研究をしていた。
甘いものが好きで、いつも家でも作っていた。
娘たちにも、そして智治にも作り方を教える。
それが彼女の趣味になっていたし、楽しみだった。
その中でも智音は一番上手にお菓子を作っていた。もちろん5歳の少女にできることは限られていたが、それでも、幼い子が作ったとは思えないほどにそれは完成度の高いものだった。
明音はそっと、お菓子を開く。
それは市販に売っているものではなく、自分たちで作ったクッキーだった。
「おいしいと思うんだよ。」と話し、そっとそれをお供えする。
少しだけ、褒められた気がして、明音の背がすっと伸びる。
「だっておねぇちゃんだもん」
一緒に作った時の事を思い出す。その時だって、智音にできない事は引き受けたし、楽しかった。
「ほら、明音気を付けて持てよ。」
そういって、後ろから智治が線香を手渡す。
三本渡されたそれを線香立てに立てると、明音は手を合わせた。
智治は先に二人に米をお供えする、「お前たちは実家の米好きだもんな」と一言添えて、白い米が二人の皿に並んだ。
そして、智治も線香を供えて手を合わせる。
明音は、そっと目を開けて父を見る。
閉じられた瞳はいつからあんなに黒かったのだろうと、少し思案する。
変わってしまったその色に、ずっと一緒にいる明音が気づかないわけがないのだ。
柔らかく涼しく包み込んでくれるあの紫は、母の髪の色で、私の自慢だった。
『ねぇ、お母さん。
父さんね、最近元気になってきたよ。
お仕事も頑張ってるし、なんだか楽しそうなの。
でもね、ちょこちょこ入院するの。
絶対かえって来てくれるけど、おっちゃんは最近怒ってるみたい。
智音もお父さんが大好きだよね。
頑張ってる父さんはとってもかっこいいよね。
でも、無理するのはよくないよね。
だから、二人ともお父さんが無理しないように、ちゃーんと見張ってて、私も頑張るから。』
そうやって悩みながら思いつく言葉を思い浮かべてまた目を閉じる。
それはしっかりと二人に届いている気がした。
智治はすっと目を開けて娘を見る。
うーんうーんと唸りながら何か願っているらしいその様にどこか申しなさを感じながらも、それでも、愛おしく感じた。
周囲は暗い。あたりを照らすのは月夜だけ。
『千明。智音。明音は元気だよ。
俺も、そこそこにやってる。
最近は変なことに巻き込まれることも増えてるが、でも、信頼できるやつも増えたんだ。
守りたい奴が、また増えた。
いつか、お前たちにも紹介したい。
きっと、明音のこれからを支えてくれると思うから。
俺が支えられているみたいに。
ここに来るといつも謝ってばかりだから、今日は、それを伝えようと思ってたんだ。
ごめん、ごめんな。
どうか、俺を見捨てないでくれ。どうか、明音をこれからも見守ってくれ。』
そうやって心に決めてきたことを頭に浮かべる。
相手に伝わっていないことは百も承知だったが、それでも、どうしても自身が立ち直るきっかけをくれた人たちのことを、大事な二人に伝えたくて仕方なかった。
そして、謝ることじゃないと言われる現実ではなく、謝ることを咎められないこの時間は自己満足な救いでもあった。
「よし!いくか!」
「・・・うん!!それじゃ、また来るね!」
二人は存分に伝えたいことを思い浮かべると、立ち上がる。
それは間違いなく、かけがえない家族の時間だった。
荷物をもって、もう一度墓石に向きなおる。
なんと表現しても合わない感情の波が、小さく渦を巻いている気がする。
なんでとか、どうしてとか、目をそむけたくなる現実は、この場の、その石の分だけある。
どうやってもその感情を整頓してしまいこむことなどできない。でも、それは同時に、そこに眠る人が、自分にとってそれだけかけがえない事の証でもある。
二人は歩き出す、二人に背を向けて。
当たり前のように振り出した足は幾分か軽い。
見送り振る手を見ることはなくても、送られる言葉はなくても、それでも、確かにあった現実が自分の心を奮い立たせてくれる。
『私が智治を語るなら、智治はちゃんと私を語ってね。
この子に、あとはそうだな、、智治の友達に。』
記憶の中に確かにある。
彼女たちの生きた証を、覚えている。
残された者の、それが唯一の、光だ。