独白いい日の定義は、きっと人によって違うだろう。
遊び費やせた日。
親友と会った日。
何かの記念日。
心穏やかに過ごせた日。
不調を感じなかった日。
思えば随分前から、“いい日”がわからなくなっていた。
いや、分かってはいるんだろうが、“いい日”
だと言っていいのか、わからなくなった。
遊びに費やした分、
無駄にした事があるのではないか、
親友は親友だと思っていないのではないか、
本当に記念日だったか、
心が穏やかであるという確証は、
不調とは何か、
そうやって“いい”を裏返して“わるい”にしては、頭を悩ませてジレンマに陥る。
それの繰り返しだ。
ただ、一杯のお茶を飲むのにも気を使う。
その感覚が、私で万人に理解されるだろうかと言えば、答えはノーだと思う。
だからきっと、全員が全員“わかる”という空間はないし、だからこそこのジレンマは存在するのだと思う。
自分の事がいくら分かっても、相手のことは分からない。
信頼や評価という基準があやふやであるように、全てを信じると言うのは、到底無理な話なのだ。
一度裏切られたと感じてしまった人間は尚更。
疑心暗鬼の猜疑心を抱えて、誰かを信じろなどと、なぜ人は容易く言うのか。
少なくとも、この感覚を一生抱えて生きていく事になる。
だから、慣れるしかないのだ、疑いながら、求めながら、一人では生きることの出来ない社会で、流されて失いそうな居場所に必死にしがみつくのだ。
笑われ、貶され、ため息をつかれ、その全てを自分のせいだと思いながら。
死してなお、きっと好奇の目に晒されるのだと感じながら。
“いい”を“わるい”と感じながら。
例えば、“あつい”と感じたものを、“つめたい”と感じるように、人と似ていて人と違う矛盾を抱えながら。