N's キッチン計量済みの調味料の小さな器とメインの食材をバットに乗せ、ネロは向かいに置いたスマホのアプリを起動する。画面に映し出されるのはなんてことない料理前の画だ。
オープニング動画もない上に挨拶もない。そうして始まった配信で、ネロが最初にしたことは沸騰している湯の中にそうめんを投入することだった。菜箸で軽くかき混ぜ、コンロのタイマーをセットすると、隣のフライパンにごま油を入れて熱し始めた。
終始無言の中、調理音だけが響く。そんな配信がこのチャンネルだった。
顔出しはなし、映るのも手元だけ。レシピは概要欄。BGMも特になければ、生配信のため文字も入らず、淡々と料理をしているだけ。
内容はお手軽なものから少し手の込んだものまで、取り扱う料理は様々だった。それだけのチャンネルなのにそこそこ登録者数がいるのは、ひとえにネロの料理が美味しいからだろう。一部料理中のネロの手に惚れ込んで観ている層もいるらしいが。
本日もいつもと変わらず、淡々と進む調理過程を映す配信のはずだった。乱入者さえいなければ。
茹で終えたそうめんをざるに上げ冷水でしめ水気を切っている間に、温めたフライパンで豚挽肉を炒める。火が通って色が変われば順番に調味料を投入していく。豆板醤の食欲をそそる刺激的な香りが画面越しに伝わらないことをネロが残念に思っていると、突然キッチンの扉が開いた。
「なあ、今日の昼飯ーー」
急に聞こえた声にコメント欄がざわつく。
『え』
『誰?』
『チャイム鳴った?』
『Nの声?』
『親フラ?』
動揺したのはリスナーだけではない。
それまで規則正しく動いていたネロの手がぶれ、フライパンの外に挽肉が飛び散る。配信中ということも忘れ、ネロはうっかり「てめえ……!」と声を荒らげてしまった。
「悪い」
配信中だと気づいた乱入者は謝るとすぐに立ち去った。幸い姿は映らなかったが、声はしっかり入ってしまった。編集が面倒だからと生配信した事を悔やむのはこういう時だ。
フライパンで挽肉が焼ける音だけが響く、なんとも言えない時間が流れた。何事もなかったかのように再び調理を始めたが、コメント欄の流れの速さにネロはため息をつく。
「あー……………………ちょっとした知り合い」
長い溜めの後、ネロから出た乱入者の説明はそれだけだった。腐れ縁とか友人とか隣人とか、他の言い方もあったのだろう。だが自分が勝手に関係を口にするのは憚られた。
その後は平常運転の無言を貫き、慣れたリスナーはそれ以上求めることはなかった。
ネロは最後にスープを作り、豆乳を沸騰させる手前で火を消した。先に茹でたそうめんを器に盛りつけ、湯気を立てるスープを注いで挽肉を乗せる。白髪ネギと糸唐辛子を飾りつけたら完成だ。
リスナーによく見えるようにトレーに料理を置き、箸を添えた画を映すとそこで配信は終了となる。
配信が切れてることを確認すると、ネロはため息をつきつつトレーを持って部屋を出た。そう、先程昼飯をねだりに来た隣人の元に持っていくために。
ネロは出来上がった料理を持って隣の部屋のインターホンを押した。けれど家主が出てくる気配はなく、仕方なくポケットに入ってる鍵を出して中に入る。リビングには誰もおらず、奥の部屋で編集作業をしているだろうことは容易に想像できた。テーブルにトレーを置くと、ネロはブラッドリーがいるだろう部屋の扉をノックする。すぐにキーボードを叩く音が止み、部屋着のブラッドリーが出てきた。
「飯、持ってきたけど」
「待ってた」
テーブルの上に置かれたまだ湯気の立っている料理に目を輝かせ、ブラッドリーはいそいそと席につく。いただきますと手を合わせてから箸をとるのを確認して、ネロは冷蔵庫からペットボトルを取り出した。氷を入れたグラスに烏龍茶を注ぎ持っていくと、すでにブラッドリーは麺を啜っていた。
「美味い?」
「美味い美味い。けどなんで夏に熱い麺なんだよ」
「なんでって……てめえの部屋がクーラーガンガンだからだろうが」
誰もいなかったリビングでさえ暑さを感じない室温になっていることを考えれば、配信部屋はもっと冷えているだろう。呆れたような視線を向けるネロに、ブラッドリーは口の端を上げただけで何も言わなかった。
あっという間に完食したブラッドリーは、冷えた烏龍茶を一気に飲み干すと箸を置き手を合わせる。
「なあ、配信中は来んなって言ってんだろ」
「悪かったって。起きたら腹減ってたんだよ」
「……また徹夜したな」
「そういう日もあるだろ」
そういう日もあるどころか、常にそういう日だろうがとネロは苦虫を噛み潰した顔をする。先ほどちらりと見えた配信部屋のテーブルに、エナジードリンクの缶が数本あったの思い出したせいだ。それでも少しは寝たようだし、ネロはこれ以上小言を言わずに食べ終わった食器を下げた。
何もないキッチンで食器を洗っていると、ブラドリーのいる方から「てめえ……!」と聞き覚えのある声が聞こえてくる。思わず食器を落としそうになったネロは、濡れた手のまま慌てて戻った。
「な、おい……!」
「はは、ここ面白えな。コメント欄もすげえじゃねえか」
「笑い事じゃねえよ……」
普段料理の配信中は無言のネロの慌てたような声音に、改めて見るとコメント欄はかつてない盛り上がりを見せている。乱入者は誰だというコメントと共に、いい声だとか意外とガラが悪いだとか。その合間合間に色付きのコメントがあるので、近いうちに雑談配信でお礼を言ったほうが良さそうだ。雑談配信が苦手なネロは頭を抱えたくなった。
ため息をつき再びキッチンへ戻ろうとしたネロの腕を、ブラッドリーがニヤつきながら捕まえる。
「で?ちょっとした知り合いってなんだよ」
「ちょっとした知り合いは………………ちょっとした知り合いだよ」
「下手くそか。友人とでも言っておけば問題ねえだろ」
そのことばにネロは唇を引き結んだ。視線を逸らし、不貞腐れたような顔になる。ブラッドリーが腕を掴む指に僅かに力を込めると、ネロの体がびくっと揺れた。力を込めたまま引き寄せられ、体勢を崩したネロはブラッドリーの膝の上に乗っかった。
「それとも、恋人って言っとくか?」
「は、馬鹿なこっ、んぅ」
馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。そう返そうとしたネロのことばは、ブラッドリーの口の中に消えた。大きな手がネロの後頭部を押さえ、差し込まれた舌がゆっくりと歯列をなぞっていく。擽るように上顎を撫でられ、我慢しきれずに鼻にかかった甘い声がネロから漏れた。
「ネロ……」
流し込まれた唾液をネロが飲み込むと、普段よりも低く甘い声でブラッドリーが名前を呼んでくる。後頭部を押さえていた手が耳を擽るように通り過ぎ、首筋を撫でたところでブラッドリーのスマホが鳴った。
「チッ、誰だよ」
舌打ちと共にあっさりとネロを解放すると、画面を確認しそのまま配信部屋へ向かった。少し開いた扉の向こうから少し苛立ったブラッドリーの声が聞こえる。
その場にひとり残されたネロは、今さっきの出来事を思い出し頭を抱えしゃがみこんでしまった。
「あー……くそ。恋人なんかじゃねえくせに」
熱を吐き出すようにゆっくりと息を吐くと、ネロはしばらくそこから動けなかった。
◇ ◇ ◇
小学校で出会って同じ中学に進み、気がつけば同じ高校に進学していた。互いに別々の友人はできたが、いつでもネロはブラッドリーとつるんでいた。彼といる時は気が楽だった。馬鹿なこともやった。親を呼び出されるようなこともした。喧嘩をして顔を腫らして、翌日ぶさいくだと笑いあった。料理は好きだが配信に興味がなかったネロがこんなことをするようになったのも、ブラッドリーがやっていたからだ。
高校を卒業して別々の道を歩むことになったふたりだが、それでも変わらず仲が良かった。空いてる時間はどちらかの部屋にいたし、部屋主がいなくても上がり込むことを許されていた。子供の頃から続いていたそんな関係が、ある時から急激に変化していった。
まずブラッドリーからの誘いが減った。最初は単に忙しいからだと思っていた。大学に入り、サークルとバイトで自由な時間が減ったんだろうと。現にネロも高校とは段違いに忙しくなったから、そうだと疑わなかった。
それでも夏休みに入った頃にはネロも新しい生活にも慣れ、自由な時間を作れるようになった。そうなるとブラッドリーからの誘いがないことが気になってきた。それならばと「今日飯行こう」と誘うと都合が悪いと断られた。今までなら当日の誘いでもなんだかんだで都合をつけてくれていたのに、だ。こういうことが何回か続き、ネロから誘いにくくなっていった。
「なあ、おまえもこのゲームやってたよな?こいつ知ってるか?」
ブラッドリーと会わなくなって半年ほど過ぎた頃。ネロは学校で友人から一本の動画を見せられた。画面には人気のFPSゲームが映し出されている。激しい銃撃戦と飛び交う指示。そして最後にCHAMPIONの文字がでかでかと映った。
「口開いてるって。でもわかるわ、その気持ち。ボス上手すぎだよなー」
「ボス?」
「そう、今このキャラ使ってた人」
友人は1番立ち回りが上手かったキャラを指さして教えてくれる。
自分から進んでゲーム実況を見ることはなかったネロだが、家に帰ると昼間の動画を探した。名前はボス。登録者数は30万人超。たしか昼間観た動画はーー。覚えていた単語を打ち込むと、目当てのチャンネルはすぐに見つかった。ネロは早速イヤホンをし、再生する。
上手い人はみんなこんな感じの動きなんだろうか。馴染みのあるキャラクターの動きに、ネロは首を傾げた。そして何よりも気になったのは指示を出している声だ。昼間は音が小さくてよく分からなかったが、イヤホンをしている今ならはっきりと聞こえる。その声は幼い頃から馴染みのあるものによく似ていた。機械を通して聞くことがあまりなかったため、人違いの可能性も捨てきれない。けれどもネロはどこか確信に近い思いで動画を遡っていくと、画面の上で滑る指先がひとつのサムネイルの上で止まった。
「ブラッド……だよな」
ネロは動画の概要欄からSNSのリンク先をタップし、ボスの投稿を辿っていった。開設は今年の春で、チャンネルの開設と同時期だ。
投稿された写真に顔は映っていない。住所が特定できるような建物もない。けれど手元が映し出されていた写真にネロの手が止まる。
「あー……」
右手の親指の指輪に、ネロの視線は釘付けになった。紫がかった赤い石が嵌ったそれはブラッドリーの瞳とよく似た色で、本人もえらく気に入っていたのを覚えている。それから人差し指、中指に嵌っている指輪にも見覚えがあった。
これは間違いなくブラッドリー本人だろう。
ネロはスマホを裏返しに置くと、天井を見上げて息を吐いた。ブラッドリーがネロに教えていないということは、知られたくないのかもしれない。もしくはもう別の道を歩み始めているから関係ないと思われているのか。
ネロはそこまで考えて胸に痛みを覚えた。
「離れたら、もう他人なのかよ」
幼い頃から家族のように過ごしてきた。むしろ親よりも自分のことをわかってくれていると思っていた。それなのにーー。ネロは奥歯を噛み締め、言葉にならない思いを飲み込んだ。
配信者のボスがブラッドリーと知ってから数日後。ネロは親のお使いでブラッドリーの家に来ていた。田舎から送られてきた桃のおすそ分けだ。ブラッドリーはあいにく外出中らしいが、久しぶりだからと家の中に呼ばれる。それだけではなくブラッドリーの母親に、一緒にキッチンに立って欲しいと頼まれた。どうやらブラッドリーはあまり家に帰っていないようで、ネロの作ったごはんがあるなら帰ってだろうと踏んだらしい。そんな馬鹿なと思ったが息子をネロで釣る計画は本気らしい。ブラッドリーの母親は料理中のネロを撮ると、いそいそとブラッドリーに送りつけていた。
こんなことでブラッドリーが帰ってくるなら、とっくにネロと会っているだろ。ネロは作戦失敗だなと内心ため息を零しつつ、肉だんごのミートソースパスタを皿に盛った。大量のフライドチキンも最後のひとつが揚げ終わると、なんの通知もないスマホの画面を見る。どこかで期待していたのかもしれない。まだブラッドリーが自分の料理を食べたがっていると。
そっとため息をつくと、ネロは油を切り終わったフライドチキンを皿に移した。ブラッドリーがいなければこんなに沢山作った料理も残ってしまうだろう。もったいないからもう独立をしているブラッドリーの兄達に連絡して、食べに来てもらおうか。そう思いネロがメッセージアプリを立ち上げた時、玄関のドアが開いた。
「まだ食ってねえよな」
「あら、おかえり」
「は?」
ブラッドリーは真っ先にキッチンへ来ると、揚げたてのフライドチキンを手に取った。
「おい、手洗ってから食えよ」
「母親かよ」
「もうネロちゃんが母親でいいよー」
帰宅早々つまみ食いをしたブラッドリーへ注意するネロに笑いがおきる。
それでも言うことを聞いてシンクで手を洗うブラッドリーを横目に、ネロはスープを温め直し料理をテーブルに運んだ。山盛りのパスタに、山盛りのフライドチキン。それから鍋いっぱいにつくったコーンスープ。野菜嫌いの誰かがいるせいで、普通の量で盛られたサラダ。成長期の子供がいる家庭みたいな食卓の並びになったがこの際仕方がない。
親から言いつけられた届け物もしたし、頼まれた料理も作ったし、無事に釣れた。ブラッドリーと話したいことは山ほどあるが、親がいる前で話すことでもない。ネロは使った調理道具を洗うと、帰るためにそれじゃと声をかける。
「何勝手に帰ろうとしてんだよ」
「そうだよ。ネロちゃんも食べてから帰りなよ」
「え、いや……」
ふたりに引き止められ戸惑うが、当たり前のようにブラッドリーの隣に食器が置かれていた。家に夕飯があるとか、やらなきゃいけない課題があるとか。帰るための言い訳はある。けれどネロはそれを口にする代わりにブラッドリーの隣に座った。
「ねえねえ!これってさー、あの犬の映画に出てくるやつ?」
いただきますと手を合わせ、各々が好きなものを皿によそっていると、ブラッドリーの母親がミートボールを刺して聞いてきた。犬の映画ってなんだよとブラッドリーは怪訝な顔をしたが、ネロはそうそうと頷いた。以前母親のリクエストで作って以来、ネロも気に入って時々作るようになったのだ。
映画に出てくる料理で盛り上がるふたりを横目に、ブラッドリーはフライドチキンにかぶりつく。だがふと口の端を上げると、ネロに声をかけた。
「飯終わったら部屋行こうぜ」
持ってきたおすそ分けの桃も食べ終え、ネロはブラッドリーの部屋へ来た。高校を卒業してから半年弱、久しぶりの場所は記憶の中とほぼ同じだった。変わったところはハンガーにかけられていた制服がなくなり、床に置きっぱなしの本のタイトルが違うくらいだ。小学校の頃から使ってる机に置いてあるパソコンも普通の物で、これが配信をしているものなのかネロにはわからなかった。変わっていないはずの部屋なのに、どこか居心地の悪さを感じたネロは扉のところで立ち止まる。
「なにしてんだよ。適当に座れよ」
「あ、ああ……」
ブラッドリーがパソコン前のイスに座ったので、ネロは昔と同じようにベッドに腰を下ろした。ネロの体重を受けベッドが沈む。
部屋に入った時から感じていたが、どこにいてもブラッドリーの香りがしてネロはどうにも落ち着かなかった。昔は当たり前のように隣にあった匂いのはずなのに、だ。ネロが勝手に感じている気まずさを知ってか知らずか、ブラッドリーはペットボトルを投げてよこした。そうしてネロと向き合って座り直すと口を開いた。
「なあ、ネロ。てめえも動画配信やってみねえか?」
「は?」
「さっきのパスタ、なんか映画のやつなんだろ。ああいうのの再現レシピとてめえの顔があれば、けっこういけると思うんだよ。最初はそれで客呼んでよ、実際作ってみりゃてめえの料理はうまいって誰もが認める。もちろんSNSともリンクさせてだ。そうなりゃ」
「ちょ、待てって!」
「あ?」
一気に捲し立てられネロが慌てて止める。話を遮られ、ブラッドリーは不満そうな声を上げた。だがイスから立ち上がると、ネロの隣に腰を下ろした。肩に腕を回し、まるで密談のように顔を近づけ声を潜める。
「なあ、相棒。金を稼ぐのにわざわざ外で大したことない奴に頭を下げる必要もねえ。クソみたいな時給でへらへら笑う必要もねえ。てめえが好きでやってることが金になるんだ。一国一城の主になれんだぜ。悪くねえだろ」
「だからちょっと待てって!」
ネロは声を荒げるとブラッドリーの体を押して引き剥がす。二度も止められたブラッドリーの眉間に皺が寄るが、ネロも負けじと眦を釣り上げた。
「だいたいなんだよ。てめえもって」
「ああ、言ってなかったか。今やってんだよ。まだほんの小遣い稼ぎ程度だけどな」
「は?」
あっさりと告げるブラッドリーに、ネロの口はぽかんと開いたままだ。てっきり自分に隠していたのかと思ったがそうでもないらしい。散々放っておかれ、もう自分は用無しかと鬱々した気持ちで過ごした日々はなんだったのだろうか。ネロは自分を落ち着けるために、先ほどもらったペットボトルに口をつけた。