本に融ける ある日、世界が百八十度変わってしまったとして。
変わってしまったのが自分だけだったとしたら。
書斎机につくと、だいぶすわりが悪かった。テーブルランプのスイッチに、ほんの僅か手が届かない。十センチ縮んだ身長はこんなにも大きいものだったのか、と伊吹は大きくため息をついた。
事故の後処理から解放されるのにそこそこ時間がかかり、実に一週間ぶりの自室だというのに、固いクッションが効いているお気に入りの椅子に深く身をゆだねても、落ち着く心地が全くしない。
目を閉じて、この一週間を反芻する。教えを請いている教授が大学に出し忘れたという申請の書類を事務課に提出するために、足早に研究棟を歩いていただけだったのに、と。
正直、その時何が起こったのかは分からなかった。記憶もあやふやだ。
突然の轟音と衝撃に吹き飛ばされて意識を失い、目が覚めた時には”こう”なっていた。
フィロソフィアにおいて、意味が分からない実験やそれに伴う騒ぎは日常茶飯事である。しかし、まさか自分が巻き込まれるなど夢にも思っていなかったのは間違いない。
深く息を吐いて目を開く。いつも通りの天井だ。その視線を下に向ける。自分のものとは思えない自分の身体がある。
元々、志木伊吹という人間は男だったのに、目が覚めたらその肉体は女のものになっていた。
目が覚めてそれを理解した時、早く元に戻せと酷く取り乱したものだ。
しかし事故を起こした研究室の人間も爆発の影響か昏睡状態に陥っていた。未だ目を覚ましていない。
情報は彼のノートやパソコンに入っている情報を解読しないといけないが、フィロソフィアの者にありがちな煩雑さで事態の解明を阻んでいる。
研究室の中にいた人間は性別が変わるなんて現象に見舞われてはいなかった、どうして外を歩いていた自分がこうなってしまったのか。他にも考えることは色々ある。この一週間で色々身体の検査をされたが、あの面々に任せておいたところで元に戻るのはいつになることか、そう危惧せざるを得ない。
もちろん、両親へと連絡は行った。一度面会をしたが、彼らは特に何も気にしている様子はなかった。「男でも女でも変わりはない。勉学に励むこと」、それだけだった。
どんどんと重くなっていく胸を誤魔化すように一度腕を伸ばす。いや、本当に物理的に重い気がする。この一週間である程度は慣れたものの、脂肪の付き方も変わってしまって、どうも体を動かす感覚に違和感があった。
あれこれと今後どうするかを考えようとして、すぐに頭がぼうっとして、視界の明度が下がっていく。これが途方に暮れるということなのだろうか。こんな時はとにかく動かねばならない。何もしないということは何も変わらないということだから。机に手をかけて体を引くようにして、椅子の背もたれから、重く感じる体をどうにか剥がす。机上に放り投げておいた事故現場の研究室から提供されたいくらかの資料を眺めた。目の焦点が合っていないのか、内容は全く頭に入ってこない。
そういえば、自分と同じ事故に遭った人間がもう一人いたのではなかったか。像を結ばないながらも、そんな記憶が蘇る。多分、あの時廊下の対面から歩いてきていた者がいたような気がする。黒髪だったことくらいしか覚えていないが。
その者に会ってみようか。ふとそんな発想が頭によぎる。
被害者の会というべきか、同じ状況に陥った者同士で感情を共有したり意見を交わすのは精神的な安定をもたらすのではなかったか。
御託を並べるが、本当はこの孤独に耐えられなかいだけなのかもしれない。しかし、それを認めれば自身の矜持に瑕がついてしまうような気がしてしまった。
手元の資料をめくる。何枚目かに、もう一人の”被害者”の情報がほんの僅か書いてある。
「杭瀬、穂高……か」
この程度の情報だけでも、自分にかかれば接触は容易いだろう。善は急げと段取りをメモに書きつけてゆく。
「何を着れば失礼に当たらないんだろうな」
小さな独り言は、壁際の本棚が吸い込んでいった。