無題:土産「ああ、君か」
その姿は昨日まで見せていた凛々しく清廉なものとは正反対だった。髪の毛はぼさぼさで顔が赤い。簡素な寝間着を纏った背はひどく丸まっていて、立っているのも億劫だと態度で示している。その呼吸からは強い酒精とほのかな薬草のにおいがした。
「突然すまない。城で戦勝記念の品が配られたのだが、生ものだからすぐに食べろと言われた。軍師殿は既にいなかったから、俺が届けに来た」
俺が抱えている包みにちらと半開きの目を向けて、軍師殿は一度頷く。玄関扉の開きを広げて、俺を中へと促した。
「悪いね。この通り一晩中飲んだくれていてちょうど寝るところだったんだ。保管庫……冷蔵室がある。そこに入れておいてくれないか――数日中には通いの使用人が来る。それまでは持つだろう」
少し重みがあるこれを、ふらついている酔っ払いに持たせる気はなかったので、彼の指示に頷いて後ろをついて歩く。
彼の家は下級貴族のものと同じくらいの規模だった。エントランスを抜けて、階段下の使用人エリアに迷わず足を踏み入れる。半地下のそこにはしかし誰一人姿がない。聞けば、不在の時だけ家の管理に来てもらっているのだという。連れていかれた食糧の保管庫には、作り置きの食事だろう鍋も置いてあった。軍師殿はひんやりとしたその中には入らず、包みの中身も見ずに「それは右奥の棚に」と指示をした。それに従って、冬のような空気の保管庫の中を進む。指示された棚には肉類が置いてあるようで、なぜ中身が肉だとわかったのだろうか、彼は千里眼でも持っているのかとため息をつくばかりだ。
「ありがとう。もてなしもできずにすまないね」
「かまわない。あんたにもそういう日があってもいい」
その言葉を「帰れ」という指示だと理解して頷いた。約束があったわけでもなし、さすがにこれから寝ようとする人間の家に居座るつもりはなかった。
また軍師殿の後をついて、玄関の方へと導かれる。しっかりと手入れされた室内に、ふらついているその姿が釣り合わない。
ふと、なんだか嫌な予感がした。背骨を内側から撫で上げられるような、時折ある悪寒。咄嗟に、前を歩く軍師殿に腕を伸ばした。この感覚がしたとき、一番に守るべきは彼だからだ。
俺の動きを感じ取ったのか、彼がちらと振り向く。その目はほとんど開いていなかった。かろうじて、どうにか薄らこちらを見て、次の瞬間にがくんとその体が崩れ落ちる。
その体を引き寄せて後ろから支えた。腕の中の細い体は、酔っ払いのものとは思えないほどに熱い。一気に冷や汗が噴き出した。
「くそ……」
朦朧としながらも自分の力で立とうとしているのだろう、腕で押されたが力が入っていない。
「あんた、酒の話は嘘か」
「薬草酒は、飲んだ」
だから嘘ではないと言いたいかのようだった。
無いのと等しい抵抗を無視して軽い体を抱え上げる。そのまま、玄関に向かっていた足を反転させて階段を駆け上がった。廊下の先を見れば扉が開いたままの部屋がある。迷わずそこに押し入り、乱れたベッドに軍師殿を放り込む。
不本意そうな視線を無視してその体に毛布を掛け、周囲を確認する。枕もとの机には確かに茶色い酒瓶とまだ湿っている小さなグラスがあった。逆に言えばそれしかない。
「厨房を借りるぞ」
ベッドから返ってきたのは細いうめき声だったが、それを承諾と捉えて厨房へと向かう。幸い、設備は自分でも使い方が分かるものだった。それを確認してから保管庫へと向かい、作り置きや残っている材料を確認する。幸い、今日持ってきた肉はそこまで重くない種類だったはずだ。それも念頭に入れていくらかの食材と作り置きのスープを拝借した。
小さな鍋に少しのスープを温め、細かくした野菜と肉を入れた。味を確認する。薄いが十分だ。多分これならば体調が悪くても栄養になるだろう。少量を大きめのマグカップに取り分ける。飲みきれなかったら自分が消費すればいい。
部屋に戻れば、軍師殿はベッドの中で目を閉じていたが、俺の気配にすぐ身じろぎをした。スープをテーブルに置いて、起き上がろうとする体を支える。
「体調、悪かったのか」
「戦の間は平気だったよ。大きな仕事が終わるといつもこうなる」
普段大勢の兵士たちに指示を出す声は鳴りを潜め、力なく彼は言った。その手にマグカップを差し出す。それを見て彼は驚いたように開ききらない目を丸くした。
「薬草酒は飲んだあとに何か食べたほうがいいのだろう」
「ああ……え、これ、君が?」
「そうだ」
少しでも多くぬくもりを得るようにマグカップを両手で持って、薄い唇が恐る恐るスープをすする。頼りない首に浮かぶ喉仏が小さく動いた。そして、彼は眼を細くして小さくほう、と息を吐く。
「……おいしい。意外だな」
「よく言われる」
軍師殿は黙々と、少しずつスープを飲んでいった。さすがにおかわりはいらなかったらしい、空になったマグカップを俺に返すとまたベッドに潜り込む。
「こんな姿、誰にも見せる予定はなかったのに……」
「さすがの軍師様でも、俺が今日来るのは予想外だったか」
返事はなかったので、彼がどう考えていたかはわからなかった。代わりに、小さなため息が一つ聞こえるだけだ。
「体、悪いのか?」
「ひとより少し弱いだけ。死ぬようなものじゃない」
汗ばんだ額をそっと指でぬぐった。やはり、ほんの僅か触れただけでわかるほどに熱い。彼は小さく体を震わせたが、ただされるがままだった。あとで手拭いを探して持ってきた方がいいだろう。
「僕が、こんなざまじゃあ……士気に、かかわる、だろ……」
声がだんだんと小さくなっていく。瞼が震えて、閉じては開いてを繰り返していた。
「鍵、あけといていいから……帰るなら……」
誰が帰るか。その言葉を飲み込んで、そっと彼の目を手のひらで塞いだ。ほんの少しもごもごと口を動かしていたが、それは次第に寝息に変わってゆく。
天才と呼ばれる彼は、いったいどれだけのものを一人で背負っているのだろうか。俺には想像もできない。だが、そんな彼に重用されているのならば、少しでもその負担を肩代わりできればいいのに、そう思わずにはいられなかった。
そっと手を離す。眠る顔にかかっている髪の毛を払った。そのまま頬を撫でれば、彼は身じろぎをして、俺の手に弱弱しく縋る。
唇が小さく動く。
彼が何を言ったのか、聞き取ることはできなかった。