夜空を照らす形と一緒 UGNに定時という概念はない。いや、あれよ。夜間でも人の気配が無くなりはしない支部の中で、しかし事務所は閑散としている。
機械のように機械を動かすというのはなんという皮肉だろうか。白瀬鳴はただひたすらに画面を睨みつけてキーボードを叩いていた。
「うわ、本当にまだいたんですか」
そんな静寂に割り込んでくる聞き覚えのありすぎる声に、鳴ははたと手を止めた。ぼやけていたモニターの外側の景色が急激に鮮明になってゆく。返事をしなくては、と自身の社会性を呼び起こそうとして、想像以上に頭がぼんやりとしていることに気がついた。一度ぎゅっと目を閉じて眉間を強く指で押す。
一拍置いて椅子を回転させ、声がした方向、事務所の出入り口へ体を向けると、そこにはがっしりとしたスーツの男の姿があった。
「お疲れさまです〜。え……もうそんな時間です?」
「お疲れさまです。もうそんな時間です」
スーツの男、鼎夜摩人が親指で指す壁掛け時計は、もう二十二時を過ぎている。鳴は、口から意味のない音を漏らしながら項垂れた。
「もっと早く帰れる予定だったのに〜……」
現実を認識するというのはなんと残酷なことだろう。この場で過ごした時間を考えるだけで眩暈がして、体から力が抜けていくような。いや実際、肩が急激に重くなっている。目を逸らしていた疲労感が一気に押し寄せてきていた。
そう、本当はもっと早く帰れる予定だったのだ。確かに、報告書や溜め込んだ日報、訓練記録、レネゲイド研究用のデータ処理などやることは多かったが、一般的な終業時間にここを出られる予定だったのだ。
クラウドの同期エラーでデータが全て吹っ飛んだのがいけない。思わず履いていた革靴も力一杯壁に吹っ飛ばした。
流石のショックに、カヴァーの仕事に従事していた夜摩人に泣き言のメッセージを送ったが、まさかそれでわざわざ仕事終わりに様子を見にきたのだろうか。自分の靴下を眺めていた視線を上げると、夜摩人がデスクの間を縫って鳴の方へと近づいてきていた。
ほのかな甘くて香ばしい香りが、鼻をくすぐる。それは夜摩人が抱えている、小さな紙袋から漂っていた。茶色い紙袋に印字された流麗なロゴは、見たことがある。
「それ、あれ、あそこの……」
絶対店の名前を知っているのに、鈍った頭は言葉を出力しない。呆けた老人のようになってしまっている鳴に夜摩人は苦笑して、その紙袋をキーボードの手前に置いた。
「この間言ってたパン屋、仕事先のすぐそばだったんすよ。夜食にと思って」
「神?」
そう、クロワッサンが話題のパン屋だ。まだSNSではバズっていないが、UGNの調査班が美味しいだの種類が多いだの他のパンもやばいだの、やけに色めきだって噂していたのをよく覚えている。それを聞いて食べたいと思っていたのだ。
今にも夜摩人を拝み倒す勢いの鳴に、彼ははは、と笑って隣の椅子を引く。
「何か手伝えることあります?」
肘をついて覗き込むその表情は、まるで仕方のない弟を見るようなもので。
「神?」
「相棒です」
「神じゃん……」
促されて開けた紙袋の中には、薄紙に包まれた三日月のパン。広がるバターの香りが脳を溶かすような心地さえした。
「とりあえず……自販機でコーヒー欲しいです〜」
「はいはい」
一度座ったのにな、と冗談めかして言いながら、夜摩人は席を立つ。恵まれた体躯が少なくしている蛍光灯の灯りを遮った。
「……ありがとございます」
小さくなってしまった声に、夜摩人は顔だけ振り向いて口角と手を上げ、事務所の出入り口の向こうへ消えてゆく。
紙袋からパンを取り出す。机の上にハンカチを敷いて、小さくそれを齧った。
口の中から鼓膜を揺らす音。遅れて広がる甘いにおいが、なぜだかとても、心を軽くした。