夢のまにまに夜光虫のライトを付ける。
柔らかな青い光に照らされて、蛸壺の中で、アズールの薄墨色の肌が浮かび上がった。
ここはアズールの夢の世界で、愚かな闇の幻影たちをすべてイソギンチャクに変えて海底の岩に張り付かせた後、アズールは自らのイマジネーションが作り出した静寂の世界でその身を休めていた。
とても静かで、心地よい、アズールのためだけの世界。
世界の中心にいたい自分も、自分だけの世界に潜みたい自分も、どちらもアズールの中にある渇望だった。
今はただ疲れた心を休めるために、蛸壺の中でゆったりとその尾びれを伸ばす。
水タコを原種とするアズールはタコの人魚の中でも体長が大きくなる種族で、まだ成長途中であるにも関わらず、すでにその尾びれは原種同様に10メートルを超えている。
アズールが理想とする身を休めるためだけの蛸壺は少しばかり手狭で、その長い尾びれの先がわずかに蛸壺からこぼれ落ちていた。
いくらアズールが優れたイマジネーションを持っているとしても、未知の知識は得ることができない。
新しい知識も、事象も、理論も、発見も、何も生まれないこの世界はひどく退屈だった。
手慰みに取り出した一冊の魔導書は己の記憶を元に再現されているが、その正誤すら今のアズールに確認する術はなかった。
とはいえ、記憶力には自信があるので間違った内容とも思えず、復習がてらにページを開き読み始めた。
どれくらい時間が経ったのか、アズールはふとした違和感に意識を浮上させた。
没頭していた書物から顔を上げて違和感の元を探る。
いつのまにか蛸壺の外にはみ出ていた一本の尾びれの先を、ツンツンとくすぐるような感覚がある。
小魚が戯れている時の感覚に近いが、それにしては大きな物が当たっているようで、どちらかというと陸のテニスボールくらいのものが押し当てられている気がする。
記憶にない感触に興味をそそられ、アズールはそっと蛸壺から顔を出した。
「あ、あずーる!あずーるだ、あずーる!」
果たしてアズールの尾びれを突いていたのは、アズールの記憶にはない珍妙な生き物だった。
海の生き物については陸の生き物よりもよっぽど詳しい自信があるが、目の前にいる生き物はアズールも図鑑ですらみたことがない。
あえていえば、その形は太古に絶滅したとされているサカバンバスピスという古代魚に似ていた。
アズールも深海博物館で復元模型を見たことしかないのだが、コロンとしたボディには尾びれしかなく、目は顔の正面についている。顎がないため口はいつも開きっぱなしで、笑っているように見える。
胸びれがないために泳ぐのが下手だったと言われている、体長25センチほどの魚だった。
しかし目の前で拙くアズールの名前を呼ぶ魚は、サカバンバスピスのようで微妙に似ていなかった。
体表はくすんだエメラルドグリーンをしており、ウツボの人魚を彷彿させた。なにより特徴的なのは、あの双子のように右側に黒いメッシュがぴょこんと付いているのだ。右側だからこれはフロイドだろうか。確かに顔の正面に付いている両目はてろんと垂れていて、機嫌のいいフロイドのように愛嬌があった。
「……フロイド?」
「なぁに?」
フロイドだった。思わずアズールの口からこぼれた名前に反応して、目の前の謎の魚が嬉しそうに尾びれをぴょこぴょこと振った。短いそれを懸命に振ってアズールに近づいてこようとする姿はかわいらしく、アズールは思わず胸を押さえてウッとうずくまった。
「……っく、なんだこれは」
「わぁぁどうしたの?あずーる、あずーる」
よく聞いたら声もフロイドに近い。流石にこんな小魚じみた幼い声ではないが、声質的にフロイドに近かった。アズールがうずくまったことに慌てて一生懸命尾びれを振って近づこうとしているが、いかんせん泳ぎが下手すぎて全然進んでいない。それどころかゆらりと吹いてきた海流に流されてコロリンとひっくり返ってしまう有様だった。
アズールは陸の先輩がよく口にしていた「萌え」の概念をたった今完全に理解してしまった。
「ふ、フロイド、どうしたんですか、こんなところで」
アズールが尾びれを動かして海流を作り、ひっくり返ったフロイド(仮)を元の姿勢に正してやる。
元の位置に戻ったフロイド(仮)は、また嬉しそうに尾びれを振ってアズールの黒い尾びれにぽよんとまん丸い顔を埋めた。
なるほど、先ほどアズールが読書中に覚えた違和感は、こうしてアズールの尾びれにちょっかいをかけるフロイド(仮)の仕業だったのだろう。
「あずーるはなにしてんのぉ?」
「読書ですよ。魔導書を読んでいました」
「ふぅん、またおもしろいことする?」
「……そうですね、お前にも手伝ってもらいますよ」
「いいよぉ、きがむいたらてつだってあげる」
「ええ、頼りにしてますよ、フロイド」
でも、今日は遅いからとアズールはフロイド(仮)を蛸壺に招き入れた。
フロイド(仮)は嬉しそうに蛸壺に潜り込むと、アズールの尾びれの上にちょこんと落ち着く。ただでさえ垂れた目がさらにトロンと溶け出しそうで、アズールは手のひらでフロイド(仮)の両目をそっと覆うと、おやすみと囁いた。
ピスピスと寝息が聞こえてきて、アズールは夜光虫の灯りを落とす。
イデアは、寮長クラスのそばには特別な『闇』がいると言っていた。おそらくこのフロイド(仮)がその『闇』なのだろう。
自身がマレウスの夢に完全に囚われていた時はそれなりに正確なジェイドとフロイドがそばにいたはずだが、今はなぜかこのちんちくりんなフロイドがいる。
これも己のイマジネーションが生み出した結果なのだろうか。
いずれにせよアズールに害をなすようには到底見えず、思わず手を伸ばしたくなる愛らしさまである。
この退屈な夢から覚めるまで、パーティーが始まるまでは、このフロイド(仮)とゆっくり過ごすのも悪くないだろう。
アズールは可愛らしい姿になったフロイド(仮)を起こさないようにそっと抱き寄せると、蛸壺の中で小さく丸くなって青い目を閉じた。
◇◇◇
「夢から覚める時が来ました」
「あずーる、どうしてもいく?おれのこと、もういらなくなっちゃった?」
「……いいえ、でも、ここから先はお前を連れていくことはできないんです」
「わかった……じゃあ、せめてこれをもっていって」
「これは……お前のウロコ?痛かったでしょうに」
「おれのこと、わすれないで、ゆめからさめても、ずっと、ずっと」
「ええ、忘れませんよ」
アズールはフロイド(仮)から渡された小さな、アズールの小指の爪よりも小さなウロコを大切に握りしめる。
「ありがとうフロイド、お前がいたから僕は心を休めることができた」
「うん、おれもたのしかったよ、またね、またあおうねあずーる」
「……もちろん、待っていてください」
◇◇◇
「フロイド!ちょっと失礼しますよ」
「いてっ、も〜なぁにぃ?急に髪引っこ抜くとか、つまんねえことだったら承知しねぇぞオイ」
「ふふ、僕にとってはおもしろいことです。これですべての材料が揃いました」
「おや、それは魚のウロコですか?ずいぶん小さいですね」
「ええ、かわいらしいでしょう」
「ウロコと髪の毛、カルシウム、窒素、さざなみのカケラ、リン、海溝の澱み、マグネシウム……アズール、貴方、何か海洋生物でも錬成するつもりですか?」
「成功してからのお楽しみですよ」
◇◇◇
「あずーる!!!あずーる、またあえたあずーる!」
「ふふ、忘れないって約束したでしょう?」
「はぁああああ???!?アズールなにそれ!!」
「フ、フロイドが、二人??」
「ジェイドはだまってろ!!!」
〜Happy end〜