事後寿司 迅の、誰にも打ち明けていないささやかな趣味のひとつ。
視界の端をあざやかな色が連なりつぎつぎに通り抜けていく。迅はそれらには目もくれず、目の前の嵐山を見つめていた。
嵐山はちょうど、被っていたキャップを脱いだところだった。触れればやわらかい黒髪。ひと房だけひょこんといつもと異なる跳ねかたをしている。
迅の正面に座る嵐山のふだんよりもやや重たげな瞳は、横に逸らされていた。気怠げにもみえる視線は、迅とはちがって、レーンのうえを動く色とりどりの丸いお皿に釘付けだ。お腹が空いて仕方がないのだろう。嵐山にはそういう、隠し事の苦手なわかりやすいところがある。迅の口許はしぜんと緩んだ。
そんな迅の内心には当然気づかず、嵐山は視線を横に流したまま、顔の半分を覆っていたマスクをゆっくりと外した。
風邪をひいているわけではない。キャップもマスクも、他人の視線を遮るためのものだ。マスクを外す指先の動きすら、今はいちだんと色めいてみえた。
迅は嵐山をじっと見つめる。マスクのせいで強調されていた瞳が、露わになった他のパーツに溶け込んでいった。
──嵐山ってほんと、かっこいいよなあ。
なんて、何度目かわからないことを思う。
意志のつよさをあらわすような二重の大きな瞳とか、きりりと整っている眉毛とか、秀でた額とか、顔の中心をすうっと通る鼻筋とか……。
あかるい店内の照明のしたで、きらきらと輝くようにもうつる嵐山をじっくりと眺めていると、それだけでもうお腹がいっぱいになってくる。今日はもうずっと嵐山といっしょにいるのに、迅にとっては、どれだけそばにいたって飽きることがない。
「迅? どうした?」
はっ、と我に返る。
嵐山が「俺の顔になにかついてたか?」と続けた。
彼はマスクの片方のゴムを耳に引っ掛けたまま、首を傾げて迅を不思議そうに見つめている。かわいい、と思ったが口には出さない。
「……今日の運勢を考えてた」
かわいいという台詞の代わりに迅が口にしたことばに、嵐山はますます不思議そうな顔をした。眉間にすこし皺をつくって、むっとした表情をする。誤魔化されたことが分かったのだろう。「今日はもう終わるけど……」と、ちらりと窓の外をみた。お店のガラス窓の外は、藍色に染まりつつある。車道を走る車には、すでにヘッドライトを点けているものもあった。
不服そうな嵐山が、外したマスクを持参していたケースに仕舞う。たとえば、そのケースが家族に持たされたものであることを、迅は知っている。
「おれのささやかな趣味だからね。嵐山にはまだひみつ」
「なんだ……。それは……」
ぼんやりと言った嵐山が手を動かしかけたので、迅はそれを遮った。「いいから。先に選んでて」と、テーブルの端にあるメニュー代わりのタブレット端末を差し出す。すぐそばを流れていくものを取るという選択もあるけれど、どうせなら新鮮なものを食べてほしい。
まぐろ。サーモン。えび。いくら。
迅の脳裏を掠めていくのは、赤いものばかり。さて今日はどれだろう、と数分後の未来に思いを馳せながら、迅はお茶の用意をはじめる。四年前くらいの自分には想像もつかない現在だろう。回転寿司を自分から食べに行きたいなんて思わなかった。それがこの男に出会ってしまって、今となってはこの独特の粉末緑茶を淹れる絶妙なコツまで身に着けてしまった。
嵐山は、迅が差し出すまでもなくタブレット端末を操作する気でいたらしい。迅から端末を受け取り「よし」と気合を入れるようにつぶやいていた。顎に手をあてて、真剣にメニュー画面に見入りはじめる。
緑茶を用意して、迅は頬杖を突いた。
きっと、こういう表情が見られるのは限られた人間だけだ。そう思いながら、迅は嵐山の伏せられた黒いまつ毛と、考え込むあまり少しだけ尖ったくちびるを見つめる。
「迅は?」自分の注文を終えたらしい嵐山が迅にタブレット端末を差し出した。
「んー。もうちょっと後にする」
ぱちぱちとまばたきを繰り返した嵐山だったけれど「そうか」と言ってタブレット端末を元の位置に戻した。すこしの間を置いて、嵐山が口を開く。
「いつもすぐに食べないのは、なにか理由があるのか?」
「だからひみつだって」迅は頬杖を突いたまま答える。「しいていうなら、嵐山をみてたいんだよ」さすがに可哀そうかなと思って、そう付け足した。
「べつに、今日は朝からいっしょにいるだろ」
「えー。おまえだってかわいい双子ちゃんのことはいくら見ても飽きないでしょ?」
「……それは、そうだが…………」
嵐山が、迅の淹れた緑茶の入った湯呑を両手で包む。その姿勢のまま、彼は考えをめぐらせている。べつにそこまで悩むことないのに。いつもよりもだんまりとした態度が、やっぱりかわいらしいと思ってしまう。
「……じゃあ言うけどさ、おれは『さっきのおまえ可愛かったな~』って余韻に浸ってるわけ」
迅はすうっと目を細めてわらった。「は」と、嵐山のくちびるから、吐息とも応答ともとれるあいまいな音がこぼれる。
「朝からずっと、ほとんど一日じゅうなんて、かなり久しぶりだったしさ」
「じん」
嵐山が、きゅっと眉毛を吊り上げて険しい表情を浮かべる。と同時に、テーブルの下で迅を小突いた。足で足を蹴られて「いてて」とわざとらしく声をあげる。嵐山の頬は赤かった。「もう、いい」そう続けた嵐山が、唐突に手を伸ばす。肝心なときにはきちんと、自分の欲しいものを遠慮しない頼もしい手。その手が、先ほどから鮮やかに移ろうレーンの方に伸びた。ふたりのいるテーブル席の横をちょうど通った白いお皿を捕まえる。
「あ。たまご」
今日の運勢を読み逃した。そう思いながら迅はたのしげにつぶやいた。
/20211125