時折身動ぐたびに聞こえる衣擦れの音以外、わざわざ取ったホテルの部屋は静寂に包まれている。だから、普通だったら生活音にかき消されてしまいそうなぎゅるる、という微かな腹の音さえやけに大きく響いた。
「……うー……」
いたい、と呻くように浅い呼吸を繰り返しながら布団に包まったままグレイが己の腹を擦っていた。苦しむグレイの様子を隣でアッシュは見ていることしかできない。
「……薬はちゃんと飲んだんだろうな」
「飲んだ……」
まだ効かないと嘆くようにこちらに背を向けた丸まった背中が震えている。
こういう時はせめて擦ってやるべきなのか。だが、そんな労りをアッシュは他人に施したことはない。だから苦しむグレイを見ていることしかできず、それしかできないことに内心焦ってもいた。
「…………ごめん……」
「ああ?」
突然ぽつりと零された謝罪に眉を上げる。一瞬考えて、何に謝っているのか察しが付いて呆れた。
「……こういう時だけ謝るのかよ、お前は」
「だって……今回は完全に僕が悪いし……」
ぼそぼそと喋る声は憔悴していた。痛みとだるさに加えて情けなさも覚えているのだろう。
昔は事あるごとに謝っていたその口は、最近めっきりとその言葉を言わなくなった。しかもアッシュにのみだ。
けれど、こんな時にばかり謝罪するなら、普段からももっとしたらどうだと思いはしたが、そこは蒸し返さずにおいてやった。
「そうだな。テメェが悪い。自分で勝手にやるからそうなる」
「う……、でもアッシュに見せるわけじゃないし……。というか、見せられないけど……」
それに、一応はきちんと事前に調べて実行したのだと、グレイは言い訳じみたことをぶつぶつ言う。
「実際に見る見ないの話じゃねえよ。だいたいテメェで加減がわかってねえからそのザマなんじゃねえか」
「そう、だけど……」
返す言葉もないとばかりにグレイは縮こまった。アッシュが呆れたように息を吐くと居心地悪そうに身動いでいる。普段ならそれだけでびくつく身体が、他に気を取られているせいかいつもよりも鈍いらしい。
まあ、毎回それではこちらも鬱陶しいことこの上ないし、今はこの男を害そうという気は微塵もないのだからそれでいい。
自らも横になると、腕を伸ばしてグレイを引き寄せた。自身の腕を枕にさせるようにグレイの頭を乗せてやる。
「……え、あ、アッシュ……?」
流石に驚いたらしい身体がびくりと跳ねた。戸惑ったような黄金色がアッシュを見上げてくる。
「大人しくしてろ」
「で、でも……」
「不満かよ」
「そうじゃないけど……、変なかんじ……」
「何が」
「アッシュが――……」
そこでグレイは不自然に口を噤んだ。
俺がなんだ、と視線で訴えてやると、恥ずかしそうに目元が染まり、慌てたようにふいと逸らされる。
「おい、俺がなんだ」
逃してやるかとばかりに追求すると、根負けしたかのようにへにょりと眉が頼りなく下がった。
「…………アッシュが、……やさしい、気がするから……変……」
「テメェな」
言うに事欠いてそれか、と苛立ちとも呆れともつかないように音にすると、再びびくりと腕の中のそれが跳ねる。
けれど逃げる気はないらしい。いや、逃げる気力がないのか。
どちらにしても逃がす気はない。
改めて抱き直せば、グレイは抵抗することなく大人しく抱き込まれた。
「いいか、もうテメェで勝手にやるんじゃねえぞ」
「でも……」
「でももへちまもねえ。……これは俺が抱く身体だ、つってんだよ」
「……っ」
不遜に宣言してやると、腕の中の身体は緊張で固まったように動きを止めた。覗き込んでやれば、ぼっと火のついたように赤くなっている。それにほっとした。ここに来て青褪められていたらいささかショックだ。
なにもこの関係をアッシュが強要したわけではないし、これはグレイの意思でもある。けれど、心変わりは誰にでもあるのだ。特にこの男はこういったことが初めてなのは知っている。
しかし、踏ん切りがつかずにぐずぐずと駄々をこねるばかりで骨が折れるだろうと当初は思っていたが、まさか予想の斜め上で来るなどとは考えもしなかった。
こうして腕の中でうぶな素振りをしているくせに、大胆な面もあるものだと改めて思う。
「何を今更照れてやがる。そのつもりで準備してきたんだろうが」
「…………ごめん……」
「そう思うなら慣れねえことしてんじゃねえよ」
最初から全部任せておけばよかったものを、と思う。気を利かせたつもりなのか、それとも少しでもアッシュに触れられる時間を減らしたかったのか。
考えていれば、蚊の鳴く声で「アッシュ……」と呼ぶグレイに思考を遮られた。
「……もうちょっとしたら、たぶん……大丈夫だから」
「大丈夫ってなにがだよ」
「……今日、こ、これから……する予定だった、こと。多分できる、から……」
「は?」
思わず間抜けな声を漏らしてぽかんとした。
「あ……、アッシュはもう、そんな気……ない?」
「あるとかないとかじゃねえだろ。そもそも死にそうな面してるやつに手は出さねえよ」
「……う……」
目に見えて落胆したようにグレイが肩を落とした。その様子に、まさかと思いながらも思い至った可能性を口にしてみる。
「ギーク、お前まさか……期待してただろ」
しかもこちらの想像以上に。それを指摘してやれば、図星のようにグレイの身体が固まる。けれど、密着する部分から早くなった鼓動が聞こえ、アッシュの問をまるで肯定しているかのようだった。
「怖気づいてるかと思えば……俺に抱かれること想像して念入りにしすぎたのか? とんだ淫乱な処女がいたもんだな、ギーク」
「う、うぅ……」
からかってやれば、腕の中の男は羞恥で今にも泣きそうなほどに震えていて。その反応はアッシュの言葉を肯定しているに他ならない。
へえ、だとか、ふうん、などと思わず零し、自分でも知らずに口角が上がる。
己の想像以上にグレイに求められていたのだと知れば、気分も良かった。
とはいえ、それはそれ、これはこれだ。
「どっちにしろ、今日はなにもしねえよ」
「……え……?」
「『どうして?』みたいな面してんじゃねえよ。俺に抱かれたきゃ体調を万全にしろ」
それまではおあずけだ、と囁いてやると、グレイはまたしても恥ずかしそうに小さく呻いた。