『ジェット』 夢を見た。
しとしとと降る雨の中、空を仰ぎ見るように佇む影。それがこちらを向いたかと思えば、子供のようにべーっと舌を出して。そうして、背を向けて去っていく、夢。
ああ待って、行かないで。
手を伸ばしてみたけれど、悲しいほどに腕は短くて、その背には届かない。
やがて降っていた雨がやんで、空を覆っていた雨雲は消えて。彼の背中も空へと溶けるように消えてしまった。残ったのは透き通るような青空だけ。
雲ひとつない、きれいな青空だった。
それなのに、こんなにも悲しい。まだお別れなんてしたくはないのに。
「――……なんで泣いてる」
「…………え……」
夢の中、遮るように静かな声がした。
声に導かれるように振り返って、掬い上げられるようにしてはっとして目を開ける。ぼやけた視界の先にいたのは横たわったアッシュだった。光を反射しない、けれど夕暮れ時の空が燃えるような色をした瞳が困惑したようにこちらを見ている。グレイを束の間の夢の世界から引き戻したのは、アッシュの声だったらしい。
伸ばされた無骨な指先が頬に触れたかと思えば、それは横に伸びるようにぬるりと滑っていった。
そこで初めて自覚した。己は今泣いていたのだと。夢を見て泣いていたのだと。
自覚すれば、夢で覚えた喪失感を思い出す。バケツを引っくり返した雨の日のように、眦からは再びぼろぼろと溢れていく。
「……っ、おい」
そんなグレイの様子に、アッシュは動揺したように声を揺らしていた。
まるで幼子を相手にしてどう対処していいかわからないといったふうで、ぼろぼろと涙をこぼすグレイをアッシュは暫く固まったように呆然と見ていた。
「……どこか痛えのかよ」
頬に添えられたままの彼の大きな掌が、まるで宥めるように撫でてくる。それは、他者を気にするなど殆ど経験もないだろう男の精一杯の気遣いだろうか。
グレイは声で応える代わりにその手に手を重ね、ふるふると首を振った。
「なら、……後悔でもしてんのか」
固く強張った声に、グレイははっとしてアッシュを見つめた。眉をしかめた表情は苦々しい。そのまま離れていきそうな手をぎゅうと握って、グレイは再びふるふると首を振る。勘違いなどしてほしくはない。
「し、してない……後悔なんて……」
それはグレイの心からの本音だった。だが己の気持ちがきちんと伝わったのかはわからない。アッシュの顔は未だ懐疑的だった。
――昨晩、グレイはアッシュと関係を持った。
掴まれた腕を振り払わず、衝動に突き動かされるままに自らも手を伸ばして、触れた。痛いくらいに抱きしめられて、抱き返して、互いに触れ合った場所が火傷したみたいに熱かった。全身心臓になったみたいどくどくと鼓動して、恥ずかしくて、……気持ちが良くて。唇を触れ合わせ、肌をこすり合わせ、薄い皮膚に口付けられて。暴かれる痛みや、繋がった充足感。それらにわあわあと泣くように歓喜して、震えた。
あんなにも恐ろしくて、グレイを惨めにさせて、自らに『ジェット』という殺意を生ませた原因なのに。そんな男を受け入れて、求めて、――愛した。
――アッシュを愛してしまった。
きっと『だから』なのだ。
止まらない涙をそのままに、一度ぎゅっと目を閉じる。いつもは感じる存在を探して。
心のなかで強く念じるように名前を呼んだ。ヒーローとなってから今までずっと共にしてきた己の半身。彼の名を呼んで、呼んで、探し続けた。応えてくれるのはいつだって気まぐれで無視されることのほうが多い。出てくるのは彼の気が向いたときだけ。だから、今だって呼びかけに応えてくれないのは彼にその気がないからなのだと都合よく考えようとしても、『理解』をしている頭が否定する。
夢の中で佇んでいたのは自らの半身。背を向けて、空に溶けるように消えていったのはジェットだ。
それは、グレイに一つの答えを突きつけていた。
心のなかにぽかりと穴が空いたような喪失感の、その意味を。
もう、『彼』はいないのだ。
もう、自分の中にジェットがいない。
その事実が、こんなにも寂しくて悲しい。
「……っ」
「……グレイ……ッ」
再びぼろりと大粒の雫が眦から溢れた。また夢の中からすくい上げるかのようにアッシュに呼ばれて、目を開けると、腕の中に抱き込まれた。
「アッシュ……」
どうしよう、と縋るように彼の肩に額を押し付け口を開くと嗚咽が混じった。
「ジェットが、……ジェットがいないんだ……」
「……なに?」
「僕の中から、消えちゃった……」
「どういうことだよ?」
「喧嘩、したんだ。アッシュと僕が……こうなること、ジェットはずっと止めてたのに……」
もとより、グレイの負の感情を煮詰めた存在がジェットだった。裡に秘めていた鬱屈した吐き出せないドロドロしたものを、グレイの代わりに子供のように振りまいて。
彼が生まれた原因でもある感情の根源がアッシュへの怒りや憎しみだった。だからアッシュをトリガーとしてジェットという殺意は発露する。
けれど、その源であるアッシュをグレイは受け入れて、あまつさえ愛してしまった。
受けた傷も、痛みも、悲しみも、未だにずっと残り続けてはいる。アッシュのことを受け入れたからと言って、過去に受けた痛みがすべてなくなるわけではなく。だから許すこともきっと生涯ないのだけれど。
それでも結局、ずっと焦がれていたのだ。アッシュ・オルブライトという強くて眩しい存在に、憧憬さえ覚えていた。それに気づいてしまったから、抗うことなどできなくて。抱きしめられれば歓喜に震えた。アッシュに求められる悦びを知ってしまった。――愛してしまったのだ。
警鐘はあった。それ以上進んではならないと。気づいてしまえば戻ることは出来ないと。
だから最初から予感はあったのだ。
そうなるだろうという確信めいたものさえあった。
けれど、グレイは気づかぬふりをした。わかっていたのに知らぬ顔をして、ジェットを振り切り心のままに従って、アッシュに手を伸ばして受け入れたのだ。
「……やっぱり後悔してんじゃねえか」
「し、してないよ」
アッシュを受け入れることがジェットとの決別になったのだとしても、それでもアッシュに求められ満たされた瞬間に感じた充足も幸福も、紛れもなく得難いもので。
グレイの思い描くヒーローになるためには、他者を憎しみ怒るその感情の根源であるジェットとは、いずれは決別しなければいけなかったのだから、そうなるのはある意味必然で、時間の問題だった。
けれど。
けれど、それは今ではなかったのに、とも思うのだ。
ぽっかりと空いた穴が空虚だ。
寂しい、悲しい。
その感情に流されるように、止めようと思っても駄々を捏ねるみたいにしてしとしと泣く雨のように涙が止まらなかった。
「……アイツで泣いてんじゃねえよ」
気に食わねえ、とばかりにぼそりと零された声は、グレイにはよく聞こえなかった。
抱きしめられる腕に力が込められて、「ギーク」と耳元でアッシュが囁く。その蔑称は普段であれば何等不思議ではない。けれど、抱かれてからずっと、名前で呼んでくれていたのに、と思う。
まるで夢の終わりを告げられたかのようだ。ずきりと胸が痛む。それに追い打ちをかけるかのようにして、アッシュの言葉が続いた。
「淫乱」
「……え……?」
「お前、さっきは随分と善がってたじゃねえか」
「あ、アッシュ……?」
突然どうしたのだろうと困惑する。いや、嘲笑するようにグレイをからかう男こそグレイの知るアッシュである。だから、宥めるようにグレイを腕に抱くアッシュこそ知らない男ではあるのだけれど。
それでも、アッシュの本質に少しだけでも触れられたような気がしていたのに。それが嬉しかったのに。
けれどそれらはすべてグレイの都合のいい幻覚だったのだろうか。
ずきずきと痛むグレイの胸など気づきもしないのだろうアッシュは、剥き出しの背中をたどるように乱暴に触れて、尻たぶをかき分けるようにして窄まりをなぞってきた。予期せぬアッシュの戯れにびくりと身体を跳ねさせる。
「……初めてにしては随分とうまそうに咥えこんでたじゃねえか。実際、俺が初めてとか言うのは嘘だろ? なあ、ギーク」
「な、に言って……。ぼ、僕、本当にアッシュが、はじめて、で……」
ぐわん、と頭を殴られたような衝撃に目眩がする。心臓がばくばく言って、冷や汗が吹き出るようだった。ジェットを失った悲しみと、アッシュに酷いことを言われている辛さがない混ぜになってグレイを襲う。ずきずきと痛む心臓に連動するように頭痛がした。「うう」と呻いて、次の瞬間には頭の中が白くなるようにふっと記憶が飛んだ。そうして、気がつけば目の前には呆れたように息を吐くアッシュの姿がある。
「あ……れ……?」
腑抜けたように声を漏らした。不自然な記憶の欠落を裏付けるかのように、アッシュが「グレイか」と口を開く。
意識が遠のく前にグレイを辱めるようなことを口にしてきたアッシュと、目の前のアッシュの雰囲気が少し違っていて、それに惑いながら「う、うん……」とこくりと頷いてみせた。
「……ちゃんと居るじゃねえか、アイツ」
「アイツ……?」
「ジェットだよ。軽く挑発してやったら、すぐに出てきやがった」
「え……、……え……?」
くるくるとアッシュの言葉が回る。ジェット? 挑発? そう首を傾げたくなる。飲み込めなくて再び目眩がしそうだった。そんなグレイの様子にアッシュがまた溜息を吐くように呆れた顔をしてみせた。
「お前に見つからねえように隠れてやがっただけだろうが。どうせ、俺に取られて拗ねてるだけだろ」
「え? ……うん……?」
「まだわかんねえのか、テメェは」
「ヒッ ……だ、だって、僕、あんなに呼んだのに……」
飲み込みの悪いグレイに痺れを切らしたかのように苛立ちを滲ませるアッシュにびくりと肩を跳ねさせる。けれど、アッシュの言葉をきちんと受け止めるように目を閉じて探ってみると、先程まで感じなかった気配は、僅かだけれど確かにそこにあった。アッシュの言うように、それは見つからぬようにとでもするみたいに巧妙に隠されているようにも思う。でも、その気配は間違いようもなく探し人で。
「……ジェット、……良かった……」
「アイツがそんなに簡単に消えるタマかよ」
ほっとグレイは胸を撫で下ろすと、アッシュは鼻で笑った。
「それよりもだ。俺と居るときに他の男のことで泣いてんじゃねえよ」
「ほ、他のって……ジェットも『僕』だよ……?」
「そんなことはわかってる。だが、気に食わねえもんは気に食わねえんだよ。……テメェは俺にだけ傷ついてればいい」
言いながら、アッシュが噛み付くように首に吸い付いてきてぎょっとした。思わず突っぱねようとすれば、それすら気に食わないようにきつく抱きしめられもしてどきりとする。
「もう、隅々まで俺のものだろうが」
「……ん……」
抵抗することは許さないとばかりに、アッシュが言う。それはまるで子供の独占欲じみた響きだ。けれど、今更それを否定する気はない。アッシュの独占欲のようなものがグレイに向けられているのが一層のこと心地良いとも思う。そう感じるのは重症だろうか。
アッシュの体温が心地良い。
翼の生えた背中に腕を回し、抱きしめ返して、目を閉じる。
瞼の裏に、べーっと舌を出した彼の姿を見た。