『オヤスミ』 ――ピチャン。ピチャン。
よく研がれたナイフの切っ先。そこからは、液体が滴って床に赤い水溜りを作っている。
同様に、止めることも叶わずに己の身体から流れ出していくそれが足元に溜まっていく。
体当たりをされたかのような、どすんと重い衝撃。
それを受け止めるように肩を掴んで、けれど身体に深く何かが突き刺さるような違和感を覚えた。
次に訪れたのは内部にめり込んだそれが肉に引っかかりながらも無理矢理に引き抜かれる鮮烈な痛み。
そうして今は、痛みを飛び越えて燃えるような熱さと疼きが、手のひらの下でじくじくとしている。
いったい、なにが起こった。――そう考えるよりも前に、カランと音がする。
「……あ……」
ふらふらとよろめきながら、さながら幽霊のように青ざめた男の薄く開いた唇はかたかたと震えて。吐息のようにか細い声を漏らす。
水溜りの上には、男が痛いくらいに両手でぐっと握っていたナイフが落とされていて。床に跳ね返ったナイフは明後日の方向に飛んでいった。そして、崩れ落ちるように男は膝をついて。その衝撃でアッシュの制服のズボンの裾をまた濡らしていく。
しかし、それすらも、もう今更だ。
白い服を着ていたならば、さぞ鮮やかであったことだろう。
それほどに、しとどに濡れていた。自分も、そして目の前で崩折れた――グレイも。
穴が空いた腹からは、とめどなくだらだらと液体が流れ出して、止まらない。
そんな自分以上に、青白い顔をしている男が滑稽だった。
他の誰でもない、この男自身がそれを選択したというのに。まるで刺されたのはこの男自身みたいに絶望したようないろをその表情にのせて。頬を返り血で赤く染めたまま、何が起きたのかわからないといったように呆然としている。
「……クッ……はははっ!」
「……っ」
思わず、アッシュは歪んだ唇にゆっくりと弧を描いた。そのまま耐えきれないように声に出して嗤ってしまえば、手のひらで押さえた箇所からはごぽりと血が吹き出し、ずきずきと疼いて痛みを訴えた。
グレイは、己のしでかしたことであるというのにやはりこちら以上に青白い顔をしていた。嗤い出したアッシュをぎょっとしたように見上げてきて、それを見下げてやれば、目の前の光景から逃避するようにその琥珀がぐっと瞼の奥へと隠される。それに苛立ちを覚えて、アッシュは痛みなど二の次にして腕を伸ばした。己の血に染まる男の頬を手のひらにべっとりとついたそれで更に汚してやりながら掴んで、「おい」と声にした。
「……これがテメェのやりたかったことだろうが」
自分の望みを叶えたのならば、もっとそれらしい顔をしろ、とばかりにそう一喝すれば、グレイの見開かれた瞳は今にも泣き出しそうに潤んで。
「ちが……、ちがう……、ぼく、僕は……こんなこと……ちが……っ」
壊れたおもちゃみたいに、ガタガタと震えた身体。「違う」と零しながら、男はアッシュの目の前でゆっくりと首を振った。
自分を刺した男の、その情けない姿にやはり苛立ちを覚えた。アッシュは掴んだ頬をそのままぐっと横に払えば、男のひょろ長い身体はべしゃりと血の海に転がって。そのまま、グレイは起き上がることはなく長い手足を胎児のように折り曲げてぐすぐすと泣き出した。
「うっ……うぅ、……っ。ちがう、僕は本当に……こんなことするつもりなんか、なかった、のに……っ」
どうして。どうしよう。どうしたらいい。――そんな混乱と戸惑いばかりを声に乗せながら、男が泣く。
(こんなやつに油断したのか、俺は)
我ながら馬鹿らしいと思うくらいに滑稽だった。
この男を誘い、身体を重ねるようになって。組み敷いて暴いた男のそれはきちんと悦んでいたはずだった。最初は拒んでいたが、それも徐々になくなって、従順に快楽を貪るようになり、『嫌』とも言わず喘いでいるばかりだったというのに。漸く観念したかと思えば、それはどうやら勘違いで結果このザマだ。
こうやって隠し持った研がれたナイフでアッシュを刺すほどにふつふつとした怒りをその身の裡に湛えていたのだ、グレイは。
しかし、それならばそれで良かった。喘ぐ声だけしか返さない男が、漸くアッシュの行動に対して感情をぶつけるように反応を示した。その結果がこれであったのならば、それならそれでいいと。
殺したいほどに憎まれているほうが、ただ玩具のように横たわって声を漏らすだけの人形でいられるよりも、ずっと面白い。負の感情であれ、この男に感情をぶつけられることは悪くない。――そう思ったのに。
刺された場所は心臓ではない。確実に絶命するほどの致命傷でもない。そうして、自分のしでかしたことに目と耳を塞ぐように「違う」と声にして震える男は、なにもかもすべてが中途半端だった。
チッ、と舌打ちして、改めて己の腹を抑えた。致命傷とは言わずとも、放っておけば無論命に関わる。
霞んできた視界。不快に目を細めれば、倒れ伏してめそめそと泣いていた男の身体がぴくりと動いた。
ハッとしたときには、その腕が落ちて跳ねたナイフを改めて掴んでいて。
それはゆらりと煙のように揺らめいて起き上がり、かと思えばこちらへと迫るように、まるで飛ぶような疾さで迷わずにぐわりと向かってきた。
視界いっぱいに広がったその表情は、先程までとは違って別人のように嗤っていて。
「――ジェッ……」
ああそうか、こいつだったか。――そう認識した刹那。
「――永遠に眠らせてやるよ、ブタ野郎」
子守唄のようにやけにゆったりとした声が、けれど隠しきれない殺意を纏って『オヤスミ』と告げる。
地に倒れ伏す己の身体。
燃えるように身体中があちこち痛い。
「……グレ、……イ……」
呻きながら、その声を己が発せたかどうか。
グシャ、と音がしたと同時に視界は赤から黒に染まった。