ちひはくんくん モーニングルーティン、というものを最近伯理は知った。例えば柴さんは寝起きにベランダでタバコを一本吸って、ヒナオさんはデトックスウォーターを飲んでヨガをするらしい。一日の始まりを彩る幸せな習慣。何て素敵な言葉だと感動した。
そして伯理の侍こと千紘の最近のモーニングルーティンは、
「ハクリ、昨日暑かった?」
伯理の匂いを嗅ぐことで始まる。しかもパジャマに顔を突っ込んで直接吸うミストサウナ式の本格派だ。
「布団薄いやつに替えるか?」
「ううん、ちょうどいいよ」
「ならいい。いつもよりハクリの匂いが濃かったから」
そう言って千紘は再び伯理の身体の匂いを嗅ぎだした。伯理の脇、胸、へそ、下腹、背中。どこも微妙に匂いが違うらしく一つ一つ妥協せずにじっくりと嗅がれるのはくすぐったいような恥ずかしいような気持ちいいような不思議な気持ちになる。
この不思議な習慣は、伯理が千紘のパジャマを借りた時から始まった。
『ハクリって何か香水とかつけてる?』
洗濯のためにパジャマを回収した千紘は真剣な顔で尋ねた。
『いや何も…ゴメン!臭かった!?』
漣家にいた時は血と膿と消毒液の匂い、追放後は野良犬のような据えた匂い。すれ違った女中や通行人に顔を顰められたり鼻をつままれたのは珍しいことではない。侍のパジャマに悪臭をつけてしまった!?とおろおろする伯理を他所に千紘はパジャマに顔を埋めるとスゥーッと深呼吸をした。そして晴れやかな顔で言った。
『凄く好きな匂いだ』
その日から千紘は伯理の匂いを嗅ぐのが日課になった。特に寝起きの伯理は寝汗などによって最高の状態に仕上がっているとのことで、胸いっぱいに吸うとどんなに低血圧な朝もやる気と気力に満ち溢れるのだという。
「あッ…」
嗅ぎやすいように上げた脇に千紘の冷たくて尖った鼻が当たって思わず変な声をあげてしまった。
「ごめん…」
襟ぐりから覗く千紘の赤い目と目が合って伯理は狼狽した。
最初はくすぐったくて甘える千紘がかわいいだけの時間だった。だが最近は千紘の尖った鼻先だとか熱い唇や吐息が触れたところがじんじんと熱くなって下腹部が疼く。そうなると身体はより汗ばんで千紘の吸いがより激しくなる。それが何だか恥ずかしくて伯理は千紘から目と話を逸らした。
「おっ俺の匂いって、どんな感じィ?」
顔を真っ赤にした伯理に問いかけられた千紘は、一瞬の逡巡の後にさらに勢いよく伯理の匂いを嗅ぎ始めた。
「っ…ひっ…ひゃ…ふッう…んぅ…っ」
脇に、臍に、腹に、胸に、背中に、首筋に鼻を埋められて嗅がれて唇で触れられた伯理は悲鳴をあげてベッドに倒れ込んだ。向きを変えた千紘の重みを背中に感じつつもだがまだ隣の部屋で寝てるであろうシャルを起こさないよう枕に口を押し当てて声を噛み殺す。それでも漏れ出る声を抑えようと右手を噛もうとすれば、背後から千紘に指を外されて代わりに自分よりも太く硬い指を食まされた。漏れ出る伯理の声と指を食む水音、千紘の息の音が朝の部屋に響く。
「基本的にはしょっぱい…けど少し甘いような、花みたいな匂いがする」
ひとしきり嗅いで満足したらしい千紘が伯理の匂いを分析する。
「…はな?」
香水もつけてなければ花の世話もしていないのにと首を傾げる伯理に千紘は推理を続けた。
「どこかで嗅いだことがあるような、懐かしいような…あっ」
伯理を抱き起こして胸と向き合った千紘がその正体に気づく。
「桜餅の匂いだ」
伯理の桜色の尖りを見て確信を持って思い出したのである。
「千紘って甘いの苦手だけど桜餅好きなの?」
「いや、苦手だけど葉っぱが巻いてある部分だけは好きで…子供の頃その部分だけ食べ尽くして叱られた」
柴が気分だけでもお花見をさせたいと買ってきた桜餅。目を離した隙に全ての桜餅の葉っぱが巻かれた部分だけを齧った千紘を国重は叱りつつも笑った。年齢以上に賢く大人びた息子の珍しい子供らしさが嬉しかったのだ。
「チヒロかわいい!」
「やめろ。けっこう恥ずかしい思い出なんだ」
吹き出した伯理を諌めるようにパジャマを剥ぎ取った。そんな千紘に伯理は笑って言った。
「春になったらさ、お花見しようぜ!柴さんとシャルちゃんとヒナオさんも誘ってさ、俺葉っぱいっぱいつけた特製チヒロ桜餅作る!」
「なら今度和菓子作りの練習するか」
「うん!教えて!」
千紘のモーニングルーティンが終わったら今度は伯理の番だ。この習慣を始めたとき、千紘は伯理に何かして欲しいことがあるか聞いた。
『じゃあ…ぎゅってして欲しい…』
千紘もパジャマを脱いでお互いに下着だけになり、ベッドの上で体全体を密着させて抱き合う。少し汗ばんだ千紘の熱い体温が心地よくて、こうされると伯理はいつも涙が滲むほど幸せを感じる。肩に鼻を寄せると爽やかで上品なのにドキドキするほど男らしい千紘の香りがしてくらくらした。
『千紘は俺をいい匂いだって言うけど千紘の方が絶対にいい匂いだ。俺もこんな匂いになりたい』
そう言った伯理がたまらなく愛おしくて可愛くて、自分の匂いをつけるように千紘は毎朝肌を擦り合わせて抱きしめて全身を優しく撫でる。
暫くそうして伯理が完全に自分の香りになったのを確認すると朝食を作りに部屋を出る。伯理は手伝うこともあるが、大抵は千紘に抱きしめて撫でられるのが気持ち良すぎて再び眠ってしまう。その安らかな寝顔が可愛くてつい寝かせてしまうのだ。後で起きた伯理にどうして起こしてくれなかったのと怒られても。
自分のパジャマを着せて二度寝させた伯理はもう完全に同じ匂いを纏っている。それに千紘は形容しがたい幸福を感じるのだった。伯理の匂いを知ってるのも嗅げるのも自分だけがいいし、伯理には常に自分の匂いを纏っていて欲しい。
無自覚の独占欲と征服欲。
千紘がその想いの根幹に気づいたのは、桜餅の匂いよりも伯理の香りの方が桁違いに芳しいと知ったお花見の時だった。