farewell入相の刻、夕空が淡い菫へと染まる中。
肩を落として歩いていると、小さな立て看板が目に入った。
普段は気にも留めないその文字列に誘われるように、私は大通りから一歩入った小道へと足を踏み入れていた。
辿り着いた2階建ての建物の1階部分、奥まった場所にある入口の周囲にはランプやドライハーブといった装飾が添えられている。
『占星術 Vesta』
店名だろうか、そう刻まれた銀製のプレートが掛けられた白い扉をおそるおそる開けた。
ちりん、と銀製のチャイムが鳴り、植物性の香が自分を包み込む。
落ち着いた暖色の照明が灯された室内には星をモチーフにした調度品や蝋燭が置かれ、柔らかなヴェールが壁に掛かっていて、隅には小さな暖炉もある。
「ようこそお越しくださいました。こちらへどうぞ」
室内を見回していたところに、柔らかな男性の声がかかる。
聞こえた先、部屋の奥には白い木製テーブルと2つの椅子があり、声の主は奥側の椅子に腰かけて微笑んでいた。
「初めてのお客様ですね。まずは自己紹介を」
私が歩み寄ると、男性は白いカードを差し出してくる。カードには『ウェスタ海里』という名が書かれていた。
「少し前からこちらにお店を開かせて頂いているんですよ。主に占星術で鑑定をさせて頂きますが、ちょっと珍しいものですと火を用いた占いなども可能です」
彼が小首をかしげそう言うと、ラベンダー色の髪が合わせてしなやかにうねるのが見えた。
占える内容や簡単な料金説明を終えると、彼は少し待ってくださいね、と席を立つ。
やがて、戻ってきた手には茶器を乗せた盆がある。
「差し支えなければ、ですが。フレーバーティーですが飲みやすい茶葉でして」
「こちらはサービスですので、実際にご依頼頂くかは飲みながらご検討ください」
香り立つ茶をカップに注ぎつつ説明する彼の伏せた目に見入っている自分に気付く。
私の視線を感じたのか、ミント色の目がわずかにはにかんだ。鮮やかでありながら、薄らと霧がかかっているように思えて引き込まれそうになる色だ。
彼の淹れてくれた茶を一口ふくむと、花のようで慎ましい香りが満たす。
自分も茶を口にしつつ、しばし彼はどこかを見ていたがふと、私を見つめる。
「お疲れのようですね」
「これはまだ鑑定ではなく雑談なのですが、今日はお仕事帰り、といったところでしょうか」
「事務……それも、経理ですね。この時期は大変でしょう」
まだこちらから何も自分のことを話していないのに、事実をそっと言い当ててくる彼をまじまじと見る。
すみません職業柄……と苦笑する彼は、そうですねとひとりごち、提案をしてくる。
「もちろん、占いは今度にして今日の所はお帰り頂いても大丈夫です。貴女とご縁があったという点で私も得るものはありますから」
「ただ……普段ですと先ほどご説明した料金を頂いているのですが、初めてお越し頂いたこともありますし、今日占わせて頂けるのなら少しお値引きさせて頂きたいなって」
「どういたしましょうか」
入店してからも正直少し警戒していたものの、値引きもしてもらえるし、一度見てもらうのもいいかもしれないと思った。
頷き、占星術での依頼を伝えた後にふと、暖炉に目が留まる。
私の生年月日を手元のノートパソコンに打ち込みながら、よろしければ火を用いた方法でも視ましょうか、と尋ねる彼に、しばし迷った後ふたたび頷く。
「かしこまりました。ではまず星から紐解いていきましょう」
出力されたホロスコープに解説を挟みつつ、彼に自分のことを次々と言い当てられていく時間は不思議な心地がした。雑誌や天気予報のついでにあるような大雑把な指摘ではない、自分の細部をなぞるような見解。
最後にこの先3か月ほどのアドバイスをもらい、占星術での鑑定は終了となる。
「では次に、この中から直感でおひとつ選んでください」
そういって彼が差し出してきた籠の中には、何種類かの香草を編んだものがいくつか入っていた。
なんとなく目が留まり、ひとつを選ぶ。カモミールとレモングラスが目を引くそれを手に取り、彼はしばし目を閉じたあとにそっと、暖炉にくべた。
あたたかな焔が草の繊維を撫で、僅かな火の粉を散らしつつ焚き上げられていく。
その様をじっと見ていた彼は、香草が燃え尽きて柔らかな灰になるのを見届けて、小さく息をつく。
「先ほどの星を用いた占いが貴女自身の性質を振り返り活用するものだとすると、こちらは貴女の運そのもので未来の吉凶を見るものになります。歴史の授業などで亀の甲羅を使った占いなどは見たことありますか」
「体調面で少し不安があるので、喉を守ってください。それから……」
「貴女の願いについて、強力な助けが訪れます。それを活かせるよう日々を大切に過ごしてくださいね」
今日はここまでとしましょうと彼が告げたとき、その場を満たしていたものが緩み、溶けていくのを感じた。
そういえば、最後にしてもらった占いは初めて見るものだった。気になり尋ねてみると、彼は穏やかな笑みを湛えたままうちに代々伝わるものです、と答える。
「名前も、起源も明らかになっていません」
「……とはいえ、分かったところで特に意味はないのですがね」
その言葉に、首を傾げた。こういった職業の人は由来などを大切にするものではないのだろうか。
しかし、その日はもう帰ることになったためこれ以上の話を聞くことは、なかった。
それから数か月後、私のささやかな夢が叶うことになった。
お礼を兼ねて彼の店に行こうと思う時はあるのだが、夢の成就と共に生活も変わり、今はまだ行けていない。
いや、彼の言う通りなのかもしれない。
別れ際、彼はこう言ったのだ。
「私は貴女が必要とする時にのみ現れるでしょう。どうかお元気で」
つまり、今私は幸せだったのだ。