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    64nodoka

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    64nodoka

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    今度は縦書き

    星の海に花を散らして溺れているみたいだ。
    ひとつボトルを掴んでは戻し、別のものを引っ張り上げてはラベルを眺めてまた戻す。そうしてずうっとボトルの海を漂っている。
    なにをしているんだろう、よりもなにをしたいんだろうが見えやしない。
    ひやりとした感触を持て余しながら、ファウストはついにはベッドに倒れ込んだ。
    「なんにも知らないんだな」
     自嘲は薄暗くどんよりした天井に吸い込まれていく。ちいさな部屋の中は雨が降りそうだった。



    『奢ってもらう必要はないよ。普通に一緒に飲もう』
     思えば奇妙なほど、レノックスと共に飲んだ記憶が少なかった。革命軍にいたときから彼ははあまり酒を飲まなかったからだ。苦手なのかと訊くと首を振り、ならば弱いのかと問えばそんなには、と。
    『ファウスト様が楽しんでくださったら、俺はそれで』
     十分です、と控えめに微笑んだ顔を覚えている。
     一方、ファウストは魔法舎に来てから、シャイロックが趣味で始めたバーにはよく顔を出していた。そこでも一度も彼に会ったことがない。フィガロやルチルとは顔を合わせることもあったというのに。ついこの前にはオズとも飲んだと言えばなんて答えるのか。またあの顔をするのだろうか。
     それはなんだか変な気分だと思った。胸に石を詰められたような。喉の奥がおもたくて、ほんのすこし、いきぐるしい。どうにも落ち着かない。
     水の中にいるような居心地の悪さをファウストだけが感じている。
     彼にとっての不幸な巡り合わせで再会してから、いまだ一年も経っていなかった。彼に関わるのをやめようと拒絶し続けた日々から。呪い屋である自分に早く失望してくれないかと何度も祈った寝しなから。
     ファウストは己の決意を曲げるつもりは毛頭なかったし、折れたつもりない。それでも態度は軟化せずにはいられなかった。なぜならレノックスという男はひどく強情で強引。そのくせ誰よりも、その身を顧みなかったので。たった数年仕えた主のために、いくら傷付いても厭わないのがこの男だった。これ以上血を流すことを放っておくことができなかった。それならば彼のことをもっと知っておくべきだと思ったのだ。

    「おや、お早いですね」
     魔法舎の一部をシャイロックはバーに改装している。もともとあった部屋の奥行や高さを明らかに大きく超えているので、どうしているのかと問えば彼は優雅に眼を細める。
    『秘められたヴェールを暴くことは簡単です。けれどたまに思い出して楽しむのも一興ではありませんか』
     ムルやラスティカが踊りながら花火を飛ばす日もあれば、オズとともにグラスの中で氷が溶ける音に耳を傾ける日もあった。
     ときに賑やかでときに静謐さをはらむこの空間をファウストも大層気に入っている。
    「開店前にすまない。あなたに相談があって」
     煙に巻かれてしまうこともあるが、年嵩の魔法使いは頼りになる(と伝えたところなぜだかしばらく素っ気なくされた)。特にシャイロックはファウストの倍以上生きているうえに博識で人の心の機微に聡い。初めこそファウストはただ美味い酒を飲みにきたという態度でむっつりと口を開かないつもりでいたのだ。それなのに今や幾度も相談を持ちかけている。
     シャイロックは好奇心で人をつつくようなことをしない。話したくないことを打ち明けろと促されることもない。ただどうしてか、「あなたはどう考える」と尋ねてみたくなる人だった。
     すでに十二分に選び抜かれた繊細な美酒を、さらに彼の手で磨かれる。そのうえ店主は聞き上手ときた。美食家の多い西の国で人気があったというのも頷ける。
     慣れた足取りでカウンターの端の席に腰を下ろす。特等席だった。シャイロックは点検していた戸棚を音もなく閉め、しなやかに向き直る。
    「問題ありませんよ。もう開けてもいいかと考えいた頃合いです。けれどそうですね常連のお客様との秘密の時間をつくるのも許されるでしょう」
     白い手が指を鳴らすと、ファウストの前に透き通った紅いカクテルが現われる。
    「すまない、今日は酒は」
    「大丈夫、ノンアルコールですよ。これから人と会うのでしょう」
     驚いて瞳を瞬かせても、店主はにこやかに微笑んでいる。
    「あなたが私に持ってくる相談は大抵相手が決まっておりますから」
    「……」
     だとしてもこのあと会うかどうかまでは話していないというのに。ファウストはグラスを持て余しながら唇をつけた。
    「甘いな」
    「ルージュベリーのカクテルです。酸味を抑えて飲み口がすっきりするようにしたのですが、いかがですか」
    「美味しいよ。次はアルコール入りで頼ませてもらう」
    「ええ、お待ちしてます」
    「……今晩飲むことになったんだ」
    「いい日取りですね。きっと星が綺麗な夜になりますよ」
     ようやく話し始めた客に店主は静かに相槌を打つ。
    「場所は彼がいいところを知っているというので、任せたんだ。それで酒とつまみは互いに持ち寄ろうということになって」
    「選べないまま今日になってしまった」
     おやおや、とシャイロックの声が弾んだ気がした。面白がっているように聞こえた。
    「それは珍しい。そしてファウスト、あなたらしくもない。シノにもよく仰ってるのに。宿題は後回しにするな、期限を守りなさいなんて」
     肩を竦めたファウストの帽子を優美な手つきで外すと、そのまま顎までつたい、持ち上げた。
    「それで? 幻の美酒と地上の美酒。あなたのご所望はどちらなのですか」
    「……分かってるよ。あれこれ悩んで結局用意できないようなことはしたくないんだ。シャイロック、レノックスが好む酒を教えてくれないだろうか。彼も一度はあなたの店で飲んだこともあるだろう」
    「何度かはございますよ。けれどあなたの方がお詳しいのでは?」
     ファウストは頭をふる。軍にいたころ飲んでいた酒など今からしてみれば粗悪なものばかりで、本来の味わいよりも酸っぱいものや薄いものばかりだ。参考にはできない。そのうえ。
    「彼は僕の前ではあまり飲まなかったんだ。きっと従者に徹していたから。それなのに僕ときたら彼の好む味すら分からない。さぞ尽くし甲斐のない主だったろうよ」
     項垂れた亜麻色の髪はこの高潔な魂そのものだった。シャイロックからすれば目を細めるほどの好ましさを含んでいる。いかにも尽くし甲斐のある男だろうなと微笑ましく思われていることを、ファウストだけは気付かないだろう。
     それから磨いたばかりのグラスを彼の目の前に出す。硝子の向こうに波打つ、彼らだけの美酒を思い描いて。
    「極上の酒は口に含めば誰かの魂を震わせることができますが、それは誰に対しても同じ箇所を打って響かせているようなものです。そうしてほんの少しだけ心をほぐして、開放的にしてくれます」
     彫刻のような白く長い指が、ツンとファウストの胸の中心にふれた。客と店主にしてはずっと親身で、わずかな悪戯心を含んだ紅い瞳が輝いている。
    「どの扉をあけて、そのためにどの鍵を使うのか。どのような己をそこに見出すのか、それはあなたがもう選んでいるはずですよ」




    「羊飼いくんにさ、俺もどうかって誘われたよ」
    「は?」
     シャイロックのバーを辞したファウストは持ち寄る酒の輪郭を思い描いてぼんやりと歩いた。階段を上る自分と降りてくるネロ。あわやのところで衝突は避けたけれど、ネロが部屋に招いてくれたのだ。本人の口からは「試作品、作りすぎたからちょっと持ってけよ」としか言わないあたり、気遣い屋の彼らしいなと思う。
     ネロの隣室は不在のようだった。まだ早いけれど晩酌の準備をしているのだろう。場所を彼に任せきりにしてしまったのだから当然だった。
     思わず声を尖らせれば、ネロは頬を掻いている。
    「先生の好きなツマミの作り方訊かれてさ、今晩用だって言うから作り置きあげたんだよ。そんとき俺が居た方がアンタが喜ぶとかなんとか」
    「……」
     ネロが同席することが嫌なわけではない。たまの彼と晩酌することが随分楽しみになっている自覚はある。友人、という存在として思い浮かべるならきっと彼になる。けれどそれでは。
    (僕だけが楽しめるように組もうとしているばかりじゃないか)
     この期に及んでファウストのことばかりだ。奢るから飲みませんかと誘った彼を断って「普通に」「一緒に」飲もうと伝えたのに。どうやら全く伝わってない。
    (彼が彼自身のために、ネロがいた方がいいと思っているなら僕は拒むべきではないけれど)
    「いや、断ったけど」
     顔をあげるといや、だってさとネロが視線を逸らした。
    「明日北の奴らが朝から討伐らしくてさ、仕込みが早いんだよ」
     そういえば食堂でそのような話をしているのを聞いた気がする。それは確かに仕方がない。得心と、ひとつまみの安堵。そうしてわずかな苛立ちを胸のかたすみで感じ始めていた。
    「ほら、二人分しか渡してないから、今日はもうゲストが増えることないと思うぜ」
     気遣う声に背中を押されて、ファウストが部屋をでたころには待ち合わせの時間も迫っていた。


    「ファウスト様、こちらです」
     ≪大いなる厄災≫があたりを照らし、夜風が髪を撫でつける。冷えよりも心地よさを伴って、雲はひとつもない。まるで星の海にいるようだった。
     レノックスが準備をしていたのは中庭のすこし外れたところだった。特別見晴らしがいいところではないようだが、建物が近いにしては圧迫感はなかった。
    (まあ、通りすがりにじろじろ見られるのはごめんだからよかったけれど)
     ファウストが席に着いたというのにレノックスはと言えばキョロキョロと周りを見渡している。
    「なんだ」
    「ええと、普段ならそろそろ」
     そのとき足元から一匹の黒猫が顔を出した。最近居ついたばかりでファウストも何度か餌を分けてやったことがある。レノックスは眉をひそめて猫を持ち上げる。
    「今日はお前だけか?」
     猫は機嫌よく返事をした。そうだよ、とも知らないよ、とも聞こえる。会話は成立したのか大きな肩をぐったりと落としてファウストの膝に猫を乗せた。猫はぐるぐると喉を鳴らすとそのまま丸くなる。
    「あてが外れてしまいました。最近ここによく猫たちが集まるので、以前ご興味を示されていた『猫カフェ』というものに似せられると思ったのですが」
     賢者が教えてくれた単語だ。たくさんの猫が集まるなかで飲食ができると言っていたので気になって子細を確認したことはある。ファウストが彼に話したことはないので、どこかで小耳に挟んだのかもしれない。
    「……レノックス」
     気持ちは嬉しい。嬉しいけれど。こんな接待のようなことをさせるつもりで呼んだわけではなかった。
    『そのときはおまえの旅の話を聞かせてほしい』
     ファウストはそう言ったはずだ。
     彼の話をききたかったから。
     彼のこれまでを知るべきだと思ったから。
    『どの扉をあけて、そのためにどの鍵を使うのか。どのような己をそこに見出すのか、それはあなたがもう選んでいるはずですよ』
     パチン、と乾いた音がして卓上にボトルとグラスが現われる。
    「レノックス。僕ばかりを楽しませようとしなくていい。君にもどうか楽しんでほしい。そういう日だったろう今晩は」
     ファウストがボトルを傾けると大人しくグラスを抑えた。それでもレノックスときたら。
    「ありがとうございます。ですが俺も十分楽しんでいます」
     この調子だ。
    「葡萄酒ですか」
    「いや葡萄ではないよ、エルダーベリーだ。春に白い小さな花が咲くんだ。葡萄酒に比べて少し酸味があるかもしれないけど……」
     飲んでほしい、と視線を送るとレノックスが一瞬戸惑った顔をした。先に飲むわけにいかないのだろう。仕方なくファウストは少しだけ口をつけた。ホッと息を吐いて、がっしりとした太い喉の奥にくれないの酒が吸い込まれていく。
    「美味しいです。コクがあるのに後味がすっきりしてますね」
     顔をほころぼせたレノックスに、ファウストもようやく肩の力を抜いた。
    「ここ何年かに一度くらい、実りがよかったんだ。人に飲んでもらうのは初めてだったからほっとした」
     ふたたび口につけようとしたグラスを止めて、酒とお揃いの紅い瞳がしばたたいた。
    「もしかしてファウスト様が作られたお酒なんですか」
    「……そうだよ。素人が見様見真似で作ったものだから、もしきみの口に合わないようだったら別に用意が」
    「いいえ」
     大柄な男が立ち上がったので、黒猫がなにごとかと顔を上げる。
    「本当に美味しいです、それに俺はこれがいい。あなたが振る舞ってくれたものですから」
    「いや、やっぱり少し渋すぎたかもしれない」
     熱っぽく返ってきた言葉に瞳に、ファウストはじわじわと後悔し始めていた。彼が嘘を吐くとは思わない。案外顔に出るからだ。けれど、結局気を遣わせてばかりいるような気がする。
     旅や南の国の話をきくならば、ファウストが返せるのは谷での生活だけだった。渋みも酸味もあるけれど、酒としては悪くもない。呪い屋の生活など彼はききたくもないだろうけれど、これがファウストの暮らしだった。
    「あ」
    「あ?」
     レノックスが皿をファウストの方へと寄せる。何種類かのチーズが切られている。
    「ファウスト様、よかったらこの端のものを合わせて召し上がってみませんか」
    「え、あ? 急になに」
     尋ねても無口な男はただ微笑んでいた。
    「きみこういうところが、本当に強引だぞ」
    「すみません」
     口では殊勝に謝るくせに皿を引こうとしない。レノックスってこういう奴だ。
     彼が示したチーズはしっかりした厚みで、塩けと旨味が噛むたびに広がっていく。
    「美味しいけど」
    「さきほどのファウスト様のお酒とどうぞ」
     あ、と思わず口に出していた。目の前の男が珍しく子供のような顔で口元を緩めたのが分かった。
    「羊のチーズです。濃厚でしっかりとした味なので、少し渋みや苦みがある酒の方が互いの味も負けずに合うんですよ」
    「これ、もしかしてきみが」
     ファウストの様子を窺いながら、レノックスはまた頷いた。
    「味見はしていますが、なにぶん何年も同じものを食べているので……。お口に合うといいのですが」
    「さっきも言ったろ。美味しいよ、とても。ふふ、きみの羊たちから?」
    「そうですね。春先に仔羊が生まれるので、そのときに少しわけてもらって」
     春には緑豊かなレイタ山脈で冬には雲の街に戻る。その間に羊の毛や乳を加工するそうだ。嵐の谷は水場も豊富なので魚や肉は摂ることができたけれど、乳製品だけはそうもいかなかった。街にでたときに買うことがあってもチーズを作れるほど買いこむこともなかったので心から感心していた。
    「すごいな」
    「俺も、ワインを手作りしていただいたのは初めてです。今度作り方を教えていただけませんか。南にある果物でも作れないか試してみたいです」
    「それは構わないけど、僕だってこれがまだ正しい味なのか分からないんだ。今度シャイロックかネロに訊いてみないと」
    「こういう味なんだと思います。ファウスト様は少し酸味と渋味に敏感なので、塩けのあるものと一緒に楽しまれるのがいいと思いますよ」
    「つまり僕の舌が子供だと言いたいのか?」
    「そういうつもりでは」
    「……っふ」
     ファウストが言葉を尖らせるとレノックスがややたじろいだ。
     数秒にらみ合ってから、耐え切れず顔を俯けたのは自分の方だった。一拍遅れて、揺れる肩に気付いて向かいから声が重なる。
     なんだかくすぐったい晩だった。
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