白黒兄上後日談弟は領地に戻ってから今の代官である親戚に仕事を教わりつつ勉強も進めていた。最近は辞書を引く回数もかなり減ってきたけれど、歴史に紋章学にダンスにと貴族でなければ必要のない分野に頭を抱えていた。さらにいえば領地の騎士団の采配も出来るようにならないとならない。
弟は頭が悪いわけではないけれど、そんな一度になんでもかんでも覚えられるわけはない。でも弟は27歳だ。いつまでも出来ませんとはいかないのだ。
「だめだ。覚えられない。」
とうとうベッドに寝転がって紋章学の本を投げ出した。こら行儀が悪いぞ。
「こんなことなら領地の代官とか吹っ掛けなきゃ良かった。」
私は弟がどこか知らないところに行く方が不安だったから、領地行きが決まって安心したけどね。
ただまだ採算のとれない製紙事業を進めないといけないのは可哀想。ヴェルナー考案らしくて一応物は出来ているけれど、まだまだ改良の余地はあるし販路も開拓中なのだ。
新事業なんて今の代官だって試行錯誤状態だから、弟には余計にちんぷんかんぷんだろう。元々やっていた事業なら教わるだけだが、やるべきことはいくらでもある。先日も商品開発の一環で材料の配合を変えた紙が複数持ち込まれた。見た目、書き味、耐久性など確認すべきことも多々あるし、量産するなら製造工程の都合上職人も必要になってくるから人材育成もしなければならない。
「あー…。兄さんもヴェルナーも優秀なのになぁ…。」
お前は教育の機会を奪われたからだろ。お前の出来が悪いんじゃないよ。
時折放り出してはぶちぶちと愚痴はいうけど、少しすると机にもどる。根は真面目なのだ。出来ない、覚えられないとひんひんしながら勉強しているのは可哀想なんだけど、これから先を思えば今苦労しておいた方いい。
早く覚えないとと焦っているからか、弟は息抜きが全然出来ていないのは少し気になる。
騎士団は古参が結構残っているから弟が戻ってきたことを喜んでいたし、武術がそんなに得意じゃないことも知っている。父上は母上を得る為に決闘を繰り返した変わった人であるし、ヴェルナーは実績を上げているけれど、弟は私寄りの一般的な文官タイプであるとわかってくれているのは良いことだ。
そして弟が攫われたのは騎士団の手落ちであったから、騎士団の古参は負い目がある。弟が攫われなければ弟は今苦労する必要はなかった。代官ではなく次期当主だったかもしれないのだ。王室だって明確な次期当主がいたらヴェルナーに副爵は与えなかっただろう。
ヴェルナーを評価しないということではなく、ヴェルナーを取り込みやすくするためには副爵はない方が良いのだ。
最近は王都の館経由で釣書がよく届く。ヴェルナーはリリーと結婚すると王室に認めさせたらしいから、うちにフリーの男はいなかった。そんな中降って湧いた弟。しかも10歳で攫われ27歳で戻ってきた。血筋は良いが中身は年齢不相応。傀儡にするにはぴったりだ。
ヴェルナーは現在副爵ではない子爵位を持っている。父上が陞爵して侯爵になり、ヴェルナーが侯爵を継げば子爵位は浮く。ヴェルナーの子の為にとっておくということも考えられるものの、恐らくヴェルナーは弟に子爵位を渡すと思う。そうなれば弟は分家だ。本家と繋がれないなら分家と繋がって少しずつ影響力を出すのは良くあるやり方だ。
ヴェルナーの持つ子爵位は置いておいても、他貴族の考えは弟もわかっているから弟は釣書を見てひたすら名前をメモしている。弟を鴨にしようとしている奴らリストである。
暫くして領地にヴェルナーとリリーがやってきた。製紙事業の視察という名の息抜きだ。名目だけとはいえ視察ではあるから、代官と弟はヴェルナーとリリーに現在の状況を説明したのだけど、弟とヴェルナーの関わりはそれだけ。弟は関わるつもりがないみたいだし、ヴェルナーは弟の無関心に尻込みしている。ヴェルナーはちょっと弟に興味が出たのかな?
弟が王都の館にいた時はヴェルナーも無関心であったから、何に興味を持ったのだろうか。
「ヴェルナー様と一緒にお茶はいかがでしょうか?」
「結構。遠慮させてもらうよ。」
「お忙しいのですか?」
「今更ながらに勉強に追われているから暇などないよ。」
冷たい。王都にいた時は母上が強引だったから完全に母上に押し負けてたけど、リリーだけだとちょっと厳しいかな?
「兄上。夕食を一緒にどうですか?」
「普段通り代官ととるので。」
そりゃ普通代官とは一緒に食べないけど、お前はヴェルナーと兄弟なんだから一緒に食べていいだろ。
「一緒にお酒でもどうですか?」
「勉強があるので。」
ちょっと!ヴェルナー可哀想じゃん!少しくらい良いだろ⁉︎
弟は部屋に戻って宣言通り勉強をしているからヴェルナーの様子でも見に行こうかな。
「取り付く島もないな。」
「王都の館だと奥様と一緒にお茶をさせて頂いたのですけど…。」
弟がごめんね。やることが多くてちょっとピリピリしてるんだよ。
「母上に仲良くなれって言われたけど無理じゃないかこれ。」
「あまりしつこくすると嫌がられそうですしね。」
なるほど。母上の差し金か。
「というか兄上の顔で冷たくされるの効く。」
「一番上のお兄様はお優しい方だったんですよね?」
「うん。いつでもにこにこしてたからなぁ…。」
ううん…。私の延長線で見るのはやめてあげてほしいな。双子だったから割とセット扱いはされてきたけど、長男次男で明確に差別されてきた。お互いに双子であることは嫌ではなかったし、顔の作りは同じだけれど、元々性格だって違ったからお互い似てるとは思ったこともない。
父上や母上の隣で大人しくしている私と、親戚に愛想を振りまく弟は間違えられたこともない。本を読んでいるのが私で、木剣を持って外で遊んでいるのが弟。猫を餌で釣るのが私で、追いかけて木に登って怒られるのが弟だった。
…今思えば弟は本当にやんちゃだったな?ヴェルナーはどっちかといえば私寄りで大人しかったから、私もヴェルナーに怒ったことはなかった。
まあそんな弟だから生き延びてくれたんだろうとは思う。私だったら上手く生きていける自信がない。
弟の部屋に戻ると歴史の本を読みながらあっちへうろうろこっちへうろうろ。座って勉強しなさい。集中できないなら息抜きすれば良いのに。というか眠そう。もしかして寝ないようにうろうろしてるの?だとしたら効率悪いから寝た方が良い。
「眠い…いや…もう少し…。駄目だ眠気覚まし飲もう。」
使用人に持って来させたのはお湯だけ。
弟は盗賊やら傭兵隊にいたせいで割とゲテモノに手を出すようになっていた。わざわざ好んで食べはしないが虫は食べるし、魔物もその辺の草も食べる。その中でも虫と同じくらい理解できないのがこれ。
植物系の魔物から採れる果実の種を炒って砕いたものをお茶みたいに淹れた黒い液体。泥水というよりもうインク。果実自体も美味しくいただくみたいだけど、普通は種は捨てて終わり。この種は食べると元気になるらしくて、傭兵隊ではこの種を炒ったものを夜の見張りのお供にしていたらしい。
弟は行軍はしなかったから見張りもなにもないのだけど、傭兵隊から教わって知ってはいた。最近勉強をするのに試してみたら効果があったらしくて食べ始めた。ただそのまま食べると口に凄い残るらしくて、色々試した結果お茶みたいに淹れることになったようだ。そんなインクみたいな液体飲んで無理して勉強しないでほしい。普通に寝なさい。
私には匂いも味もわからないけど、使用人の反応を見る限り匂いはいいらしい。見た目がインクだから使用人も飲んではいないから味は知らない。
弟の部屋がノックされた。
「誰かな?」
「ヴェルナーです。」
嫌そうな顔。そんな顔しないの!嫌そうな顔のまま弟は扉を開けた。
「何か用?」
「その…あれ?これなんの匂いですか?」
「なんでも良いだろ?用は?」
「良くないです!これ!なんの匂いですか⁉︎」
「え?ちょ…どうしたの?」
ヴェルナーが凄い食いついてくる。そんな良い匂いなの?使用人はそこまでじゃなかったけどな…。香ばしくて良い匂いくらいの反応だったと思うんだけど。
ヴェルナーは机で湯気の立つカップに目を付けた。
「もしかしてあのカップですか⁉︎」
「いや、だから…用は?」
「ちょっと確認しても良いですか⁉︎」
「聞いてる?」
まさかのヴェルナーは弟の部屋に押し入り、弟は押しに弱いから後ろで戸惑っている。スタスタと机まで行きカップを確認して、インクみたいな液体をじろじろ見たり匂いを嗅いだりした後、カップの中身を勝手に飲んだ。ちょっとヴェルナー!!なにやってるの⁉︎
「えぇ…ちょっと…ヴェルナー?」
弟も私もドン引きだ。
「兄上!これどこで手に入れるんですか⁉︎俺もほしいです⁉︎」
そのインクを⁉︎それそんなに美味しいの⁉︎嘘でしょ⁉︎
「ヴェルナー。とりあえずそこに座りなさい。」
弟は応接用のソファーを指差し、ヴェルナーはいそいそとソファーに座った。
「まず人の飲みかけの飲み物を勝手に飲むんじゃない。」
「すみません。興奮して。」
「飲まなきゃ興奮しない筈なんだけど、お前匂いで興奮したの?」
なにそれ危ないじゃないか⁉︎もう飲むのやめなさい!というかそれ本当に飲んで大丈夫なの⁉︎
「いや、本当にすみません。」
「匂いで興奮するならやめておいた方がいいんじゃない?身体に合わないかもしれないし。」
「そんなことないです!絶対大丈夫です!」
「何処から来るんだその自信…。というか勝手に飲んでおいてそのセリフは説得力ないよ。」
本当にね!
あまりにヴェルナーが食いつくものだから、今まで見た目で嫌がっていた使用人に飲ませ、代官に飲ませ、リリーにも飲ませた。誰もヴェルナーみたいに匂いでは興奮しないし、苦いらしくて凡そ6割の人間は顔を顰める。
「兄上。俺も飲みたいんですけど。」
「駄目。せめて試すなら王都で試しなさい。こっちで何かあったら困るんだよ。今まで匂いで興奮した人は見たことなかったし、致命的に身体に合わない可能性もあるのに、医者のレベルが低いここで飲ませるとか無理。」
何がそこまでヴェルナーを虜にするのかわからないけれど、ヴェルナーのあの黒い液体への執着が凄い。
「リリー。王都に着いたらノルベルトに渡しなさい。」
弟は炒った種と原材料と作り方を書いた手紙を入れた箱をリリーに渡した。
「絶対ヴェルナーに渡すんじゃない。代官から領主への親書扱いにしてあるから父上しか開封出来ないからな。ヴェルナーでも開けたら駄目だから。」
重要書類の扱いでヴェルナーが道中勝手に開けないように徹底している。父上経由でしか手に入らないとわかったヴェルナーはそそくさと領地を後にした。
「結局俺になんの用だったんだ…。」
うーん。私もわからないな。
ーーーヴェルナーはコーヒーを手に入れたーーー