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    rack_159

    @rack_159

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    rack_159

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    村岡と坊ちゃんの話

     よお〜社長、やってる?
     そんな居酒屋に入るテンションで和也が事務所の扉を潜ってきたのは、裏カジノの営業時間がとうに過ぎた深夜二時だった。
     村岡といえば事務所の灯りをほとんど落としてデスクに一人向かっている最中で、しかもその業務がなんというか、平たく言えば帝愛関係者にあまり見られたくなかったものだから、慌てて書き込んでいた書面を裏返す。
    それから立ち上がって自らの頬を叩いた。笑顔を貼り付けるためである。
    「どうされました、坊ちゃん。こんな時間に」
    「おいおい、こんな時間に訪ねてきたオレが非常識みたいな言い方すんなよ」
    「いえいえそんな、滅相もありません……!」
     もうそろそろ施錠して帰ろうと思っていたのに、こんな時間に訪ねてきたお前が非常識に決まっているだろうが、なんて口が裂けても言えはしまい。代わりに村岡は貼り付けた笑みをよりいっそう深く形作った。めっそうもありませんめっそうもありませんめっそうもありません。怒りを抑えるために、頭の中で念仏のように何度も唱える。
    「ま、別にいいけどよ。オレだって悪いと思ってんだぜ。社長がお疲れの時にアポ無し訪問なんてさ……!」
     和也はいつもの、村岡からすれば相当粋がったサングラスの奥の目を細める。
     本当に悪いと思っているのならすぐ帰るべきだ。これも思っていても言えないことだった。和也の隅々まで整えられたスーツにすら今の村岡には腹立たしい。体型ぴったりにあつらえられた、オーダーメイドの皺一つないスーツ……とても普通の高校生が手に入れられる一品ではない。腕に光るゴールドの腕時計も、村岡のものと比べて数倍は値が張るものだろう。それらを見る度、村岡は新鮮な怒りを覚えることができる。
     自分で金を稼いだこともない、世間知らずのボンボンが。
    「で、まあ、悪いとは思ってんだけどさ……社長、今から時間ない?」
     その思いを知ってか知らずか、和也は村岡のシミと皺がついたスーツの肩に手を置いた。
    「はあ、坊ちゃんのためなら時間くらいいくらでも作りますが……」
    「あ、そ。嬉しいわ」
     和也は分厚い唇をわざとらしくにやりと歪める。
    「じゃあさ、今からオレとデートしてくんね?」


    「いやマジで人手が足りなくてさあ。悪いな、ほんと」
    「はあ、いえ、全然……」
     何がデートだ、趣味の悪い言い方をするな。村岡は隣の和也に心の中で何度目かの悪態をついた。運転席でハンドルを握る黒服はプログラムされているかのように沈黙を貫いている。
     深夜の道路に車はほとんどない。郊外に出るならなおさらだ。
     ちょっと野暮用ができたから手伝ってほしい、と和也は言った。だから一緒に車に乗ってついてきてくれ、と。
     断りたかった。少しくらいなら金を払ってでも断りたかった。けれども帝愛の会長の息子である和也の誘いを断れば“少しくらい”の損失で済まされないだろう。どれだけ低く見積もっても悪魔的な損害になって返ってくるはずだ。例えばカジノの営業を無期限停止されるとか。例えば社長の座を突然名前も顔も知らないやつに明け渡されるとか。例えばある日出勤したらカジノなんてどこにもなんにもなくなっていたりだとか。規格外に頭のおかしな親とその子どものことだから、頼みをちょっと断っただけでそれほどのことをやってのける。きっとそうに決まっている。たとえそれが被害妄想じみた考えであっても、一度頭に浮かんだ最悪な道筋は村岡から消えてくれなかった。
     車は静かに夜の道を滑る。等間隔に並ぶ道路照明に照らされる和也の顔はうつらうつらとしていて、なおさらデートのような雰囲気ではない。いけ好かない御曹司とともに後部座席に収まることは、村岡の内臓に馬鹿馬鹿しいほどの負荷を掛けた。0時を回った頃に食べたカップラーメンがまだ胃液の波を泳いでいて気持ち悪い。タバコを吸いたかったが、了承を得るために話しかけることすら躊躇われた。そうこうしているうちに、辺りはより闇を増していく。照明や標識が少なくなり、変わりに木々の緑やカーブが増えていく。
    「坊ちゃん、到着しました」
    「んが……ああ、オッケー」
     運転席の黒服が振り返る。和也は垂れ掛けた涎を手の甲でぬぐった。車に乗ってから実に一時間は経っていただろうか。
     ついた場所は山奥だった。遠くの方に高速道路の明かりが見える。裏カジノのビルなんてとうにどこか分からない。
    「降りろよ。到着って言ってんだろ」
     眠気でいくらか不機嫌そうな和也は、村岡をほぼ蹴り飛ばして車から追い出した。
     暗かった。辺りを照らす光といえば車のヘッドライトくらいしかない。あとは地獄の底のような濃紺である。まだ初秋だというのに驚くほど寒く、鼻腔を突くのは寒気に張り詰めた夜の匂いだ。身を固くした村岡を見て和也は察したのか、「心配すんな、どうせすぐ熱くなるから」とのたまう。そんなことがあるわけない。
    「あの、坊ちゃん? いったいこんなところで何を……」
     村岡の声は、はからずも震えていた。
     だって山だ。山奥だ。自分ら以外、人っ子一人いない山の奥。きな臭い噂が耐えない帝愛の御曹司と、その腹心の召使いだけがここにいる。おあつらえ向きのホラーすぎた。明らかに正常なシチュエーションではない。だって山だ。木々のざわめきだけが聞こえてくる。ここなら誰にも知られずなんでもできてしまう。
    「そうビビんなって。手伝ってほしいって言ったろ? ほら、あれ渡せ……!」
     和也が顎で指示すると、黒服は車のトランクから何かを取り出した。両手で抱えるほどの大きさだ。ヘッドライトの光で明るみになった時、ようやく村岡はそれが大きなシャベルであることに気がついた。
    「あの、これ……」
    「ちょっとさ、掘ってくんね?」
    「な、なにを」
    「穴」
     しかなくね? 和也は心底不思議そうに首を傾げる。ここまで来て、こんな道具まで出して、それならもう穴しかなくね? 他に何があるんだよ。何もないだろ。ケツか? クククッ。
     面白くない。まったく面白くない冗談だった。ケツもそうだが穴の方もだ。どうしてこんな時間に、こんなところで、こんなものを使って穴を掘らなければならない?
    「あの、なんで……」
    「おっと社長、今からそれ禁句な。なんで? は無し。どうして? も無し。何故とかwhyとか……とにかくそういうの、一切禁止! 分かるよな、オレ、しゃべりたくないんだよ。社長なら分かってくれるだろ?」
     それこそなんでと言いかけて、村岡は慌てて口を噤んだ。口は災いの元すぎる。黒服から無言のうちにシャベルを押し付けられた。鉄製の持ち手のひんやりした感触、それから否が応にも伝わる重み。
     和也は歌うように言う。
    「なあ社長。頼むからさあ、人手が足りないんだよ。オレと社長の仲じゃねえか」
     な、いいだろ。
     それから村岡の地獄の時間が始まった。


    「マジで今日に限って誰もいねえの。いやいるのはいるんだけどさ、明らかに人数足りてねえっつーか……こんなことあっていいわけ? 親父だったらさあ、いないやつ即全員クビでしょ。オレってば優しいからそんなことはしねえけどさあ……まあその分、社長に皺寄せが行っちまってるのは申し訳ねえな~と思ってんのよ。マジマジ、これ大マジだから」
     汗が滲む。
     車内とは打って変わり、和也の舌はよく回った。黒服が車のトランクから出した簡易パイプ椅子に座って、手伝う素振りは一切見せず、ぺらぺらぺらぺらと、まあ飽きもせずによく話す。
     村岡は「はあ」だの「へえ」だの「あはは」だの、およそ自分の持ちうる相槌のすべてをローテーションして対応した。その間にも作業は進む。つまりは穴を掘っている。シャベルを使って、ざくざくと地面を掬い、穴を掘る。
     ざくっ。
     手の入れられていない土というのは、思った以上に硬い。シャベルの切っ先が埒外の力に阻まれたような気がしてくる。
     ざくっ。
     掬い上げた土を放り投げる動作もつらい。間違った力み方をすると腰を駄目にしてしまいそうだ。
     村岡の首筋に、汗が滲んでいる。
     和也の「どうせすぐ熱くなるから」はなるほど確かに正しかった。ものの少しで村岡の首筋には、額には、スーツの下には汗が噴き出て、あっという間に真夏もかくやという有り様である。
     最初は運転席にいた黒服も共にシャベルを振るっていた。けれども直径二メートル、深さ五十センチほどの穴ができた頃に、突然黒服の電話が鳴った。何事かを電話口に二言・三言話して、「すみません、坊ちゃん。外します」とだけ言って、シャベルを地面に突き刺してどこかに行ってしまった。和也は片手を挙げるだけで応えた。
     汗が滲む。村岡は穴を掘り続ける。腕時計を和也に回収されてしまったから、作業を始めてどれくらい経ったのか分からない。長い黒髪がうなじに張り付いて鬱陶しかった。散髪に行くのが億劫でしばらく放っておいた自分が恨めしい。
    「別にオレだってこんなこと頼みたくなかったんだぜ。人はいねえし、そんな時に限ってさあ……なーんも用意してなかったから。準備が足りてなかった。いつもは違うんだぜ。オレ、そーいうところちゃんとしてる。けどさあ、今日はさあ……あいつが急に……カカカッ」
    「坊ちゃん、もうそろそろ……」終わっていいか、と村岡は言外に問いかける。
    「まだだよ。まだまだ掘って」
     和也は首を伸ばしてちょっと穴を覗き込む。どうやら正確な目標はなく、おおよそ勘で掘らされているらしい。最悪である。
     穴の深さが一メートルになる頃には、村岡の相槌の頻度は減っていた。それでも和也は変わらず話し続ける。要領の得ない語り口で。
    「馬鹿な男がいてさあ。クラブの入れ込んだ女をナンバーワンにしたくて、うちで借金背負ってまで貢いだ男。人には身の丈にあった人生ってもんがあるだろ、無茶なんてするもんじゃねえよ。なあ? その点、社長はいいよなあ。人生捧げる女、いねえだろ? まあ結局その方がいいって。あんなのいても邪魔なだけさ。ああ、邪魔邪魔……」
    「あの、坊ちゃん」
     シャベルの先に固いものが当たって、村岡はつい手を止めた。「あんだよ」とぶっきらぼうに返ってくる声を無視して、村岡はシャベルの先端に注視する。穴の奥は見えにくいなんてものじゃない。
    「坊ちゃん、何か……石みたいなものがあります」
    「あ~~~? 石くらいあるだろ」
     あほかお前は。あほなのか。和也の声はそう続くけれども、村岡は気が気じゃない。
    「これ……墓石に見えまして」
    「は? なんじゃそりゃ。大当たりじゃねえか」
     和也は見もせず笑う。カカカッと笑う。
     村岡はそれに掛かった土を慎重に払った。やはり墓石だ。艷やかな表面は土の水分を含んでか細く濡れている。おもてに掘られている名前は薄汚れているせいで読めない。埋もれて長い日が経ったからか、もしくはそうなったから埋められたのか、墓石はずいぶんと朽ち果てている。不思議と恐ろしくはなかった。単純作業に打ち込んでいる弊害だろうか。
    「地下でさァ~、化石がたまに出るらしいぜ。アンモナイト。珍しいから、出たら債務者のやつら喜ぶんだと。娯楽がないってかわいそうだよなあ……。ま、地下にそんなもんが出るなら、山の中に墓石があってもいいだろ」
     なあ、いいだろ、と和也は念押しした。ならいいのか、と村岡も納得する。納得しかける。いいのか? 地下の化石と山中の墓石を同列にして。化石は地に埋まっているものだが、墓石はそうではないじゃないか。
    「いいから手、動かせよ」
     和也がジッポで火を熾す音がする。これ以上の問答は不要ということらしかった。
     自分は口しか動かしていないくせに……!
     汗が滲む。村岡は穴を掘り続ける。墓石を避けるようにして。
    「今日さァ、うちで経営してるクラブの女が初めてナンバーワンになったとかで……あ、さっきの借金した男が入れ込んでたやつ。良かったよな、夢を叶えられて。その分、残りの人生ぱあだけど……。で、その女の記念パーティするっつう話になったんだけどよお」
     シャベルを握る手が痛くなる。とっくの前から腰は痛い。明日も仕事があるのに何をやっているのだろう。これだけ腕を酷使しては、筋肉痛でろくに動かないに決まっている。細かい作業なんてもっての外だ。
    「せっかくだから和也さんも来てってその女が言うんだよ。いやいやいや、せっかくだからってなに? って話じゃん。普通さあ、そういう時はぜひ来てくださいって言うだろ。言えよ。そう教えてやったら、その女、きょとんとした顔してさあ……今思い出しても腹立つぜ。社長さあ、確か結婚したくないって言ってたよな。ぶっちゃけ分かるわ。馬鹿な女掴まされたらたまったもんじゃねえって。なあ……」
     穴の深さは一メートル半ほどに差し掛かった。村岡の目線の頭一つ分上に、和也の革靴が見える。いなくなった黒服はまだ戻らない。
     高校生の分際で、何が分かるだ。世間を知ったふうな口を聞くな。村岡は悪態づく。もちろん心の中で。
     和也がジッポを開け締めする音が聞こえる。
    「あの、坊ちゃん……」
    「まだだよ。まだまだ掘って」
     村岡は穴の底から夜空を見上げた。月がある。ねえ坊ちゃん、と言いかけやめた。これはなんの穴ですか。聞こうとしてやめた。禁句だ。タブーだ。和也の、帝愛の定めたルールには何がなんでも従わなければならない。それしか生き残る術はない。
     だから村岡は無言で穴を掘る。
     手の感覚がなくなりかけてきた頃だった。穴の奥からどろりとした何かが噴出した。出入り口を間違えた溶岩がとろけ落ちてきたようだった。一見するとスライムのようにも見える。うまそうではない。
    「坊ちゃん」
     シャベルを止めて村岡は聞く。穴の深さはすでに二メートル近くになっていた。視線を上げても、村岡から和也はもう見えない。まるで壁に向かって話し掛ける気狂いのようではないか。
    「あんだよ」またぶっきらぼうに声が降る。声が降ってくれる。自分はまだ正常だと村岡は安堵に包まれる。
    「何かどろどろしたものが……出てきて……」
    「あ〜〜? それくらい出てくるだろ、しょうもねえ」
     そんなわけがあるか。
    「社長さあ、この世で一番どろどろしたものって何か分かる? 分かんねえよなあ。うるせえ債務者どもから滴り落ちる汗だよ。あれさあ、絶対偉い学者先生に調べてもらった方がいいぜ。なんか汚えもんが混じってっから、絶対に。あいつら、汗と涙と血でぐちゃぐちゃにした汁をオレの靴に落とすんだよ。たまったもんじゃねえぜ、マジで」
    「はあ……」
     それとこれと、今なんの関係がある? そんな言葉を村岡は堪えた。ぐっと堪えた。せめて穴の中を見てから言ってくれればいいものを。どうせ他人の努力など生まれてきてから一度も垣間見たことがないのだろう。かと言って「掘り方がなってない」などあーだこーだと細かい指示を出されては、それはそれで億劫だ。
     だから村岡は穴を掘る。無言無欲に穴を掘る。
     いつの間にか目は暗闇に慣れていた。村岡の節くれ立った枯れ葉のような細指には既にまめが幾つも出来ている。一つ一つに注視すると途端にそれらが目と口を持つ寄生体に見えて仕方ない。指の先に、関節に、掌に生まれた顔は宿主の苦労を吸ってことさら深い笑みを浮かべるようだった。気付かない振りをして村岡はシャベルの柄を握り直す。
     粘液を無視して、更に深く刃を突き立てる。切っ先は一瞬怯むように速度を落としたが、もう一段強く掘り進めるとあとは乾いた土が続いた。
     今はいったい何時だろう。明日と言ってももう今日だが午後からカジノを開けなければならない。とすると社長たる村岡はそれより数十分は前に事務所を開ける必要がある。従業員を一人早く寄越せばいいかもしれないが、貯めに貯めたあの数億の札束が眠る金庫と自分以外の誰かがともに過ごすと考えただけで身の毛がよだった。仕事終わりに金庫の中身を確かめてから店を施錠し、翌日自ら店を開け札束の枚数が変化ないことを目視しなければおちおち事務作業すらできやしない。
     この作業が終わって帰る頃に空は白みき切っているだろう。出勤時間までいったいどれほど眠れるだろうか。穴の底から空を見上げる。切り取られた天井はまだ暗闇に覆われていた。山に来た時よりも暗く感じるのは気のせいだろうか。
     だから村岡は穴を掘る。この作業を一分一秒でも早く終わらせるために。
     本当は分かっている。穴の用途くらい想像がつく。死体だ。死体を埋めるに違いない。帝愛の、とりわけ兵藤の血が織りなす趣味の悪い惨劇くらい村岡のような末端の耳にも入る。たちの悪いギャンブル、選択肢のない二者択一、紙屑のように飛ぶ札束……この和也にだって父親と同じ血が流れている。どうしようもなく冷たく不気味な血が。
     死体だ。死体に決まっている。今自分は死体を埋める穴を掘らされているのだ。恐らく賭けの敗者か、先ほど話に上がった無礼な女か、はたまた。普段はもっと賢い方法で処理するのだろうがどうしても山に埋めるしか道はなかったと見える。困窮していたのだ。こんな痩せた男の手を借りるしかない程度には。ざまあない。ざまあないなと思う。あれほど達観して余裕ぶっているくせにその実誰かの手を借りなければ何もできないお坊ちゃんだ。
    「坊ちゃん、まだ掘りますか」
     既に穴は途方もなく深みを増している。よくもまあここまで掘ったものだと村岡は自分を自分で褒めてやりたくなった。墓石もどろどろした粘液もいつの間にか消え去っていた。積み上げた土の下に消えたのかもしれない。
    「坊ちゃん、まだ掘りますか?」
     あれほど熱かったのに、今ではどこか涼しく感じる。土が過分に含む水分がそう思わせるのだろうか。いや涼しいというより寒い。薄ら寒い。
     どこからか腐った水のような、甘ったるい臭いがする。
    「坊ちゃん」
     あれほどやかましかった男の声が、いつの間にかぴたりと止んでいた。
    「坊ちゃん……?」
     三度呼びかけ空白を作っても、返事はない。
     もしや寝ている? 有り得る話だ。如何せん子どもはもう床に就く時間である。村岡は自らが掘った穴の斜面に足を掛けた。太腿に力を込めて穴の上に顔を出す。
     出そうとした。
     ぬかるむ土は思いのほか滑落しやすかった。力を入れたと同時に村岡の体は沈み込み、何度やっても穴から這い上がることはおろか僅かに進むことさえ能わない。
    「坊ちゃん!」
     事のほか自分でも驚くほど大きな声が出た。穴に響く上擦った声に意識を正常に戻される。何をそんなに慌てる必要がある。寝ているのなら起こせばいいだけのこと。そうとも、あの坊やは今、転た寝しているだけなのだ。
     ……寝ているだけだよな?
     村岡は耳を澄ませる。目を閉じる。自身の呼気さえ厭わしい中、ただひたすら鼓膜に神経を集中させる。十七歩の時だってそうだ。折り悪く運否天賦の勝負に出なければならなくなった時、相手の牌を繰る音、呼吸の速度で何が危険で何が安全か理解できた。そうだ、要は観察。あの男がそこにいることは分かっているのだから、何かしらの音はするはず。
     何も聞こえない。
     車内ではあれだけ響いていた寝息の音も、身動ぎする音だって、何一つ。
     あの、
     まさか。
     いない?
     ぐらりと世界が傾く気がした。悪い夢を振り払うように斜面を強く踏みしめる。置いていかれた? そんなはず、そんなはずは。焦るあまり靴底が土の表面ばかりをなぞる。
     思わず尻もちをつきそうになり慌てて穴の底に手をついた。硬い何かが指先に当たった。反射的に振り返る。
     沈みかけた船のように土の中から見え隠れする煤けた白。なだらかな線を描く割に柔らかさはまったくなく、ところどころひび割れている。
     人の骨だった。
    「………!」
     声にならない声を上げそうになる。間違いない。人骨だ。しゃれこうべがぽっかり空いた眼窩で村岡を見つめている。その隣に先ほど見た墓石がいつの間にか植わっていた。まるで読めなかったおもての文字が、突然形を為していく。
     そこには、村岡と書いているように見えた。
    「坊ちゃん!」
     そうか、埋められるのは他の誰でもない。
    「坊ちゃん、坊ちゃん!」
     無我夢中だった。無駄だと分かっているのに斜面を登る。登ろうとする。摩擦はすっかり失われたくせに重力ばかりが幅を効かせる。爪の中に粘ついた土が食い込んだ。革靴が泥まみれになろうと知ったことではない。村岡の背に汗が伝う。熱さからの汗ではなかった。
    「坊ちゃん、違うんです、違うんです! あれは、あの書類は、さっきの書類は!」
     いつバレた? どうしてバレた? とにかく釈明を。とにもかくにも言い訳を。何度も登り何度もずり落ちながら叫ぶ。
    「利益を改竄していたわけじゃなくて、むしろ……訂正! そう、訂正! どっかの馬鹿が収支を書き換えていたので、善良なわしが訂正していただけのこと……!」
     村岡の頭を占めているのは、和也が事務所を訪れる以前に手を加えていたあの書類だ。ほんの出来心で、僅かな書き換え程度であればバレはしないだろうと高を括った。初犯だ。もちろん『どっかの馬鹿』なんて存在しない。村岡の言い訳のために生み出された都合の良い従業員である。
    「わしは言うなれば……被害者! 被害者ざんす! だから生き埋めなんて、そんな殺生なこと、ねえ坊ちゃん!」
    「え、なに?」
     心底不思議そうな声とともに、大きな梯子が上から降ってきた。村岡の体すれすれを通って、金属製の脚が穴に突き刺さる。
    「え……あ……?」
    「さっきからなにをぎゃあぎゃあ言ってた? こっちは梯子用意してやってたんだけど」
     丸く空いた空から、和也の面倒そうな顔と黒服の仏頂面が覗く。「穴、そんなもんでいいからさっさと上がって」労いも何もなく、和也は手のひらを軽く振った。
    「これ埋めたくてさあ」
     疲労で震える足を叱咤し這い上がった村岡の横で、和也は次々と手にするものを穴の下へと降り注いでいく。値の張りそうな何本ものワインや、桐箱に入れられたハムだった。
    「なんでこんなもの……」
     言ってから村岡は口を噤む。この言葉は禁句だった。タブーだった。けれど和也は気にすら留めていないようで、上機嫌に鼻歌まで歌っている。
    「さっき言ったろ? クラブでナンバーワンになった生意気な女の話。あいつ、オレの機嫌を取ろうとしてこれぜんぶ贈って来たんだけどさあ、こんなもんで丸く収まると思ったら大間違いじゃん?」
     笑いながら、携帯を取り出す。
    「だからさあ、こうやって穴にぜんぶ捨てて、埋めちまって……で、あの女に送ってやろうと思って。またムカつくことやったら──」
     和也は慣れた手つきで携帯を操作する。カメラを起動し、冷たい穴の中で横たわる贈呈品たちを撮影した。
    「──次はお前がこうなる番だぞ、ってさ」
     白みかけた東の空に、和也の笑い声が重なる。
     写真のワインや桐箱は確かに死体のようだった。愛想笑いもできずに村岡はただ穴の下に目を落とす。
     そこには骨も墓石もどこにもなかった。
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