「 ………すっかり遅くなっちまったな」
独りごちながら、白衣の袖を抜いて帰り支度を始める。
冬休み中のせいか、今日は普段より来院者数が多くて。予定の帰宅時間を大幅に超過してしまった。
「 ま、お元気なのはおありがてぇこった 」
病院で元気、というのもおかしな話だが、予防接種で大泣きしていた子たちも帰り際にはすっかり笑顔で。
『せんせ―ありがとー』などと手を振って帰って行ったのを思い出して、ふっと口元に笑みを刷く。
……さて。
それでは急いで、手のかかる大きな子供の所に帰るとするか。普段はしっかりしているのに、家ではとことん自堕落でだらしないパートナーのことを思いながら帰り支度を整えて、鞄を小脇に抱えると職場を後にした。
「 ……ゲン?」
かちゃりと玄関を開けて呼び掛ける。…反応はない。
聞こえていないのかもしれない。
靴を揃えて、居間へ向かう。
薄暗い部屋を覗き込むと、果たして男はゆったりしたソファにもたれかかるようにしてそこにいた。
「 ……帰ったぜ。ったく、電気ぐらい点けろよ。その分じゃメシも食ってねぇな?」
電気を点けて声をかけるが、反応がない。
……もしや帰宅がいつもより遅くなったことで拗ねているのだろうか。
だが、互いに仕事の関係で帰宅が遅くなることはままあることで。
いつもより帰宅が遅いからと怒る、というのは普段のこの男からすると考えにくい。
だが、明日は久しぶりに互いにオフで、早く帰ることを約束していた。
だから、帰宅が遅れたことで不機嫌になると言うことも……まあ、あるかもしれない。
「 おい、ゲン?」
ひょっとしてうたた寝しているのか。そう思って下から表情を覗き込むと、何だかぼんやりしていて。
それに。
呼吸音が、やや乱れているように思えた。
「 ……あ、せんくーちゃん……おっ疲〜…… 」
視線に気付いたのか、いつになく気だるげに声が返される。
「 ……なんだ?どっか調子悪ぃのか?」
「 ううん〜、うたた寝していただけ〜……でもああ、そうだね……お腹、減ったような気がする〜…… 」
どう見てもいつもより不調だが、ひとまず食事をさせた方がよさそうだ。
毛布を羽織らせ、注意深く様子を窺いながら、上着を脱いでエプロンを掛けた。
「 遅くなって悪かったな。……とりま飯作るから、ちぃっと待ってろ 」
座ったままのゲンの肩に、毛布の上から綿入れを掛けてやって。エアコンを調節すると、てきぱきと夕食の準備にかかる。
仕事が長引くのを見越していたわけではなかったが、念のため出掛ける前に下拵えをしておいて良かった。
鍋を火にかけて、ぐるりかき混ぜながら餡を煮込む。ぽつぽつと気泡が出てきた辺りで、挽肉を加えて。
挽肉が固まりすぎないように炒めてから、賽の目に刻んだ豆腐を入れる。
キッチンに漂う香辛料の刺激的な匂いが、鼻腔を刺激した。
別の鍋では、もちもちとした水餃子がじわじわと煮られている。
それを横目に、下拵えしてあった海老に微塵切りの玉葱を加えた熱々のスイートチリソースを絡ませていった。
空いた鍋で麺を茹で、冷凍してあった白湯スープを温めて具材を盛り付ける。白髪ネギとザーサイ、煮卵、淡白な鳥叉焼。
一通り準備を終えて、居間に料理を運び込むと、ゲンはまだ少しぼんやりしている様子だ。夜更かしでもしたのだろうか。
「 ゲン 」
声をかけて、目の前に湯呑みを置く。
ああ、うんと気のない返事を返して、ゲンは湯呑みを手に取った。
その動きは、どこか緩慢で。
やはり具合が悪いのでは、と思った瞬間。
ゲンの手から、湯呑みが滑り落ちる。
すとんときれいに長い指の間ををすり抜けた湯呑みは、そのまま落下し。
ゲンの膝と、絨毯に染みを作った。
「 何やってんだ!……オイ、火傷してねぇか!?」
慌ててタオルを手に駆け寄るが、熱いお茶がこぼれたというのにゲンは特に熱がる様子も無い。もしかして、と思い、ぺたりとしろい頬に触れてみた。
「 ……熱い 」
普段はどちらかと言えばひんやりしている頬が、茹だったように熱い。
表情にはあまり出ていなかったが、やはりいつもより呼吸も浅い。
火傷がないか手早く確認したあと、頭を包み込むように、両手でしっかり固定して、耳の後ろや首に触れながら症状を調べていく。
「 ……おい、ゲン、口開けろ。あーんって」
どこかぼんやりしたまま、ゲンは指示に従って口を開けた。
「 おし。いい子だ。……んじゃ、べーってしてみろ 」
喉の周りが少し腫れている気がして、顔を両手で固定したまま喉の奥を覗き込む。
……扁桃炎だろうか。扁桃腺のあたりがやや赤くなっていた。
「 他、どっか痛ぇとことかないか?」
「 ……暑い……うーん、寒い……?」
「 それは熱のせいだな。……ったく。また遅くまでマジックの仕込みでもしてたのか」
たしなめるように言うと、気まずそうにあははと力なく笑う。……図星か。
「 咳は?」
「 ないよ 」
確かに、声に掠れや淀みはない。
「 あ"〜。……んじゃあ、バンザイしてそこに横になれ 」
「 バンザイ?」
言葉に、ゲンはきょとんとする。……ああ、そうか。
ひょっとしてこういった表現には馴染みがないのかと思い当たって、ゲンに向かって両手を上げる素振りをした。ちょうど、小さな子供にするように。
「 こう……バンザーイって 」
「 Hold up(手を上げろ)?」
「 いや、そうじゃねぇよ。……さてはワザとだな?」
両手を上げたまま、困ったように説明する姿が滑稽だったのか。
ゲンは千空ちゃんかわいい、とくすくす笑うと、両手を上げた姿勢で横たわった。
インナーをたくし上げて、ぴたり背中に耳を当てる。
「 じゃあ、ゆっくり息を吸って、吐いて 」
とくん、とくん。
いつもより、やや速い鼓動。
呼吸音には、ひどい雑音は入っていない。
扁桃炎だとしても、まだ初期のようだ。幸い合併症は起こしていないようで、ぽつり安堵の息をこぼす。
だが、熱が上がってくるとしたらおそらく今夜からだろう。
じわり滲む汗を冷たいタオルでぬぐって、着衣を整えてやる。
それから、ひとまず食べられるものだけと食事を摂らせて、後片付けを済ませると居間に戻った。
「 ……うーん、これまで風邪なんてひいたことなかったんだけどね〜♬」
千空ちゃんとの暮らしが幸せすぎて、気が緩んでたのかなあ。
おどけた口調で、けれど自嘲気味に漏れる言葉に、苦笑を返す。
ゲンの仕事は身体が資本だ。健康管理にはこれまで人一倍気を遣ってきたのだろう。
「 健康を過信しすぎるなっつーことだな。
……キチンと栄養摂って安静にしてりゃあ、すぐ治る。明日、薬も貰ってくるから」
いらえに、一瞬動きを止めて。熱に潤んだ夜色の双眸がこちらを見返してきた。
「 ……待って。千空ちゃん小児科の先生だったよね?」
「 テメーも似たようなもんだ 」
すぐ治るから、大丈夫だ。
そう言って、ポンポンと背を撫でた。
三歳も年少の相手に子供扱いされて、さすがに少しむっとしたのか。
ゲンはそれからむう、と頬をふくらませてクッションに顔を埋めた。
ぐったりと力の抜けた肢体を抱き上げて、寝室に運んでやって。
ベッドに横たえると、看病のための氷嚢やら、洗面器やら。
てきぱきと必要なものをそろえて、ベッドの脇に腰を下ろす。
……腕の中にじわり残った熱に、何だか落ち着かない気持ちになって、それを振り切るようにかぶりを振った。
「 ……それで、その眼の下のクマと言うワケですかな?」
調剤薬局のカウンター越しに、なぜだか少し楽しそうな声で幼馴染が応じる。
すっきりと清潔に保たれた白いカウンターには、名前も知らない花が小ぢんまりと活けられていた。
「 あ"ぁ。やっぱり急性扁桃炎だったみてぇだ。……最近冷えたからな。今朝になって、熱はだいぶ落ち着いた」
薬を飲んで安静にしていれば、二、三日で回復に向かう。
問題はそれまで患者が大人しくしていてくれるかどうかだが、まあいざとなればベッドに括り付けてでも休ませればすむ話だ。
心配かけて悪かったなと苦笑すると、気にしないでいいよ、と笑顔とともに心得た調子の返事が返された。
「 ……ふふ、ゲンくんでもそんなことあるんだねぇ。しっかり看病してあげてね」
ところで、と薬剤師はこちらを振り返って上から下までざっと視線を走らせる。
……そういえば、除菌して新しい白衣を羽織ったとは言え、昨日帰った時のままの格好だ。こちらは不衛生でさえなければ特に気にならないが、『調剤薬局のお姉さん』のかたわら、アパレルデザイナーとしての仕事をしている幼馴染としては、一言物申したいところなのだろう。
明け方になって、ゲンの容体が安定したのを確認して。
朝一番に調剤薬局に駆け込んだ小児科医は、自身の名前で処方箋を切って寄越した。
無論、医者の不養生と言う言葉もある通り、医師自身が罹患し、症状がはっきりしている場合は自ら処方箋を切ることもある。
けれど、薬剤師の目から見れば、どう考えてもそれは目の前の医師のものではない。
「 千空くんのことだから大丈夫だとは思うけど、後でちゃんとカルテも書いといてね 」
ホントはこんなの、ほめられたことじゃないんだから。
そうこぼしながらも、手際よく薬棚から処方箋にある抗生剤と沈痛解熱剤、胃薬を薬袋に包んでくれる。
こういうところは、相変わらず面倒見がいいと思う。
それを横目で眺めながら、ふと。
棚の一角に目を留めて、そちらを指さした。
「 あ、悪ぃ杠。あれももらえるか?」
「 えっこれ?」
我が目を疑うように、きょとんとして杠が問いかけてくる。
それは、CMでもよくお目にかかるオブラートだった。
従来のフィルム上のオブラートは、材質上喉に絡みやすい。そういった事例の緩和のために作られたゼリー状のオブラート。
商品名を『お○すりのめたね』。小児用に、フルーツ味のついた甘いゼリー状のものだ。
けれど、処方箋も服用予定の患者も、明らかに『小児』ではない。
「 あ"ぁ?」
素っ頓狂な声を返すと、何故か杠は苦笑した。
「 ……聞いていい?千空くんの認識だと、ゲンくんはいくつなのかな? 」
「 アイツはいくつになってもかわいいぞ?」
さらりと返された言葉に、流石に杠の手が止まる。大きな目をこぼれ落ちそうなくらい見開いて、杠はこちらを振り返った。
「 ……ワァオ、千空くんの惚気とか初めて聞いちゃった。今日はホワイトクリスマスかな」
改めて言われて少し照れくさいのか、耳の縁をほんのり赤くしながら殊更に淡々と指示を追加する。
「 あ"ぁ、りんごじゃなくてそっちのピーチ味のにしてくれ。……それが一番チビどもに好評なんだ 」
「 もしもし、千空くん?」
「 喉が腫れてるんだから、オブラートじゃゴックンする時痛いだろうが」
「 あのね………… 」
すっかり脱力して、杠は薬棚からオブラートを取り出すと薬袋の中に足してくれる。
「 悪ぃな、杠。……今度何かで埋め合わせすっから」
「 気にしなくていいよ。千空くんはしっかりゲンくんの面倒見てあげて 」
珍しい千空くん見られて面白かったし。と幼馴染は陽気な笑顔を浮かべる。
ありがとな、と爽やかに手を振りつつ去っていく背中に、ひとつ息をついて。
「 ……なんだかんだで、すっかり小児科の先生が馴染んじゃってるけど、あれ見てゲンくんどんな顔するのかな…… 」
きっと、戸惑ってうまく取り繕えないだろうし、本人は百パーセント天然で善意からしていることなのだが、どう考えてももはや嫌がらせの域だ。
「 でも、まあ」
結局本人たちが幸せなら問題ないよね。
あれだけ周りから秋波を送られながら、まったく気にも留めないで。
一念発起してプロポーズしたのが去年の話。
なにはともあれ。
「 ひとまず、一日遅れだけど。……メリークリスマス、って言っておくべきですかな 」
そう、ひとりごちて。
大きく伸びをすると、杠は奥の事務用デスクに戻った。
「 ただいま」
玄関を開けて、声をかける。……家の中からいらえはない。
大人しく寝ているならいいのだが。そう思いつつ手早く玉子雑炊を用意して、貰ってきた薬と一緒に寝室に運んだ。
「 ……いい子で寝てたか、ゲン?」
少し声を潜めて呼んでみるが、相変わらず返事はない。
明け方まで熱が続いていたから、消耗しているのかもしれない。
そう思いながら、ベッドの脇に寄ってサイドテーブルにお盆を置いた。
土鍋から漂う湯気が、ふわり空気を暖める。
「 ゲン?」
覗き込んで、もう一度呼びかけた。
じわり額に滲んだ汗で、前髪が額に貼り付いていて。額を冷たいタオルで拭って、髪を掻き上げてやる。
それでも、だいぶ熱は引いたようだ。
濡れたタオルの感触に、ぴくり身じろぎをしたあと。まだ気怠げに、睫毛の下から夜色の瞳が覗いた。
「 ……おかえり、千空ちゃん。帰ってたの」
「 あ"ぁ。今帰ったとこだ。
……どうだ、なんか食えそうか?」
「 ……んー、お腹は空いてるんだけど、あんまり食欲はないかな」
「 じゃあ食えるだけ食え」
ベッドの背もたれにクッションをいくつか置いて、もたれやすくしてやる。
それから土鍋の蓋を開けて、小鉢に移した雑炊をレンゲで掬って口元に持っていった。
「 ほら、口開けろ。……あーん」
やや回復してきたせいか、真っ赤になって顔を覆うゲンに、ひとつ息をついて。
「 なんだ、これじゃまだ熱いのか?んじゃ、ふーふーしてやるから」
ふーふー、と息で軽く冷ましてから、もう一度口元に運ぶ。
「 あーん」
重ねて言うと、ゲンはおずおずと顔を上げて、口を開いた。
もぐもぐと行儀良く咀嚼する様子が、何だかちいさな子供みたいで。
思わずよしよし、とあたまを撫でてしまう。
「 ……ん?なに?どしたの?」
「 いや、お可愛いなあと思って 」
「 ……ねぇ、千空ちゃんの方こそ熱があるんじゃないの?」
「 ねぇわ。平熱だしピンピンしてるわ」
体調が悪くても、出された食事は残さないらしい。こういう所は妙に律義だと思う。
「 あ"ぁ。綺麗に食えたな。んじゃ、薬飲んでもうちぃっと休め」
そう言ってゆったり笑いかけると、用意したガラスの小鉢に一回分のゼリーを出して、その中に薬を混ぜ込んだ。
こちらの手元のチューブを見て、ゲンの表情が固まる。
「 待って?……ねぇ、それって」
「 薬剤嚥下補助用オブラート(小児用)だが?」
「!!???」
理解不能、と極太マーカーで顔面に書いたような表情で、ゲンはしげしげと小鉢を見た。
「 声 」
「 ……えっ?」
「 声、まだ掠れてる。喉痛いんだろ。
これなら、ごっくんするときも痛くねぇから安心して飲みやがれ 」
「 ……ねぇ、千空ちゃん。俺、いくつだと思われてるの?」
「 年がいくつでも関係ねぇ。……俺が、テメーが痛ぇのが嫌なんだよ」
困惑したような声に、さらりと返してやる。
呆れたのか、諦めたのか……その両方か。
ゲンはひとつ息をついて、困ったようにわらうと、大人しく口を開けた。
スプーンに掬ったゼリーを口元に持って行ってやると、それを口に含んで。
ゆっくりと嚥下する。
……やわらかいゼリーは、するりと飲み込まれたようで。
こくり、小さくゲンの喉が動いた。
その喉の動きに、思いがけずどきりとしてしまったけれど。
……とりあえず、それには気づかなかったことにしておく。
「 ……甘いね」
「 まあ子供用だからな」
ククク、と笑うと、少しむっとしたように。
「 千空ちゃん 」
ふいに名を呼ばれた。
「 あ"ぁ?」
どうかしたか、と尋ねる前にぐいっとネクタイを引かれて。
ほんのり熱をおびた、あまくてやわらかいものが、くちびるにふれた。
その感触の正体を悟って、思考がぐちゃぐちゃになる。顔に一気に血が上って、どうにも落ち着きそうになかった。
「 うん。……やっぱりゴイスー甘いね」
どういう意味で言っているのか。ぽつりとそうつぶやいて、ゲンははんなりとわらう。
どうやらまだまだ、コイツの方が一枚上手と言うことか。
まあ、それもぼやいたところで年の差が縮まるわけではないので仕方ない。
その年の差も、近く来る次の誕生日でまたひとつ追いつく。
「 ……あ"ぁ、そうだ。ゲン」
呼びかけると、やや気を良くしたらしいゲンが無防備に顔を上げる。
その頬に、くちびるを寄せて。
「 少し遅くなったけど、メリークリスマス」
元気になったら、改めて埋め合わせしよう。
そう耳元でちいさく囁いて、耳朶にそっとキスをした。
「 ……………… 」
いらえはなかったけれど。耳朶から伝わる熱が、ほんの少し。
先程よりあまく感じて、知らず口元がほころんだ。