ごわごわとした、寝なれないシーツの感触でベリトは目を覚ました。部屋はまだ薄暗く、空気は少し冷たい。体を起こすと簡素なベッドがミシミシ鳴り、そうか今日はこっちの部屋だったと思い出す。
「すー、…すー」隣でソロモンの小さい寝息がする。
体を丸めて猫のよう。俺様に背を向けやがって。起こしてでも顔を見ようと肩を掴む前に、黒髪のかかったうなじが目に入った。細い首をぐるりと走る刺青は、今のベリトには目印に見えた。
――噛めばいいんだったか、これ。
今日の昼間のことだ。本を物色しにフルーレティの部屋を訪ねたところ、作家先生は机に突っ伏して気絶していた。その脇からは書きかけの原稿がはみ出ている。
「最新作、漏洩」にやり笑いながらサッと引き抜く。話はなにやら注意書きから始まっていて、メアリー・チェリーらしくない。
『この物語はオメガバースの世界を基にしている。現実のヴィータの社会性とは大きく異なり…』
なんだそりゃ。「階級社会」「動物の行動」はともかく、メギド意識の強いベリトには「性」や「発情期」など、興味の薄い項目がずらずらと並ぶ。こいつは何を長々と言い訳してるんだ? 苛つきながらばさばさ紙をめくっていくと、ある部分に目が止まった。
『行為の際、アルファがオメガのうなじを強く噛むことで番関係となる』
『この番関係は、通常の恋人同士等よりも強い結びつきである』
…ツガイ、と呟いたところで。
「ちょっ…!待って待って何見てるの、返して!」
目を覚ましたフルーレティが慌てて原稿をむしり取った。
「あのね、これはね、違うの。原稿の息抜きっていうか」
「息抜きしてはえらく気合入ってんじゃねえか。てか、メガネずれてんぞ」
「いやー!どこまで読んだの!」
「まだ最初だけだ。なんなんだその、オメガなんとかってのは」
「忘れて、お願いよ。何も見なかったことにして」
「だからメガネずれてんぞ」
「うっ…ううう…」
よほど都合の悪いものを見てしまったらしい。崩れ落ちて顔を覆うフルーレティに、さすがのベリトもいたたまれなくなって、おとなしく部屋を後にしたのだった。
「んー…うーん」
少年はまだ起きる様子はない。
そもそも、こういう関係を持ち出したのはベリトの方だった。きっかけは、何気なく触れると真っ赤になるソロモンが可笑しくて、一晩中そばに置いたこと。それは今もそうなように、一度きりで終わらなかった。
ガープが恋人と結ばれて、ツガイとなったことは喜ばしかった。自分もそれを望むかといえば違うが、相手がソロモンであれば話は変わってくる。ベリトは強い結びつきというのを、少年が自分にもっと懐くことだと考えた。
「テメェだって構やしないはずだ」
これが恋だか愛だかに当てはまるかは誰も知らない。相手の了承も必要ない、したいからそうする。ベリトは毛布の中に鼻先をうずめ、目印めがけてがぶりと歯を立てた。
「わっ、何!」ソロモンは跳ねるように飛び起きた。笑い声がして、体にくっついているベリトのイタズラだとわかると、一緒になってけたけた笑った。
「なんで噛むんだよ」
「まじないみたいなモンだ」
え。ベリト、そんなの信じるのか?意外に思うソロモンを、ベリトは機嫌良さそうに眺めている。てっきり、自分がなかなか目覚めないからだと思ったのに。
「なんのおまじない?」
「言ったら意味ねえだろうが」
「うーん」
ベリトが答えない時は、それ以上探っても何も引き出せない。そういう経験があるわけじゃないけど、そんな気がする。噛まれた首の感触が妙に残ってむず痒い。
「ククク、そうやって考えてろ」
「えー…、こわいんだけど」
「思い出した。最中でないと意味がないらしいぜ」
「わっ」
ベリトの考えていることがわからないのは、今に始まったことじゃない。頬を包む手の温もりで、何もかもうやむやにしてくる不思議な大人。よくないけど、ベリトならいいか。促されるままに目を閉じれば、すぐに意識は溶けていく。
「さあどうだ」
与えられる心地よさの中で、その日は何度も名前を呼んだ。
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フルーレティに執事が差し出したのは、翡翠色の美しい万年筆。
「こんな良いモノを?ベリトって見かけによらず気が利くのね」
「せいぜい役立てろ、とのことです」
「言い方。ま、後でお礼を言わなきゃ」
「それが小さなレディたちにせがまれて、先程お出かけに」
「そうなの」
「なんでも幻の作家が、別名義で本を出したとの噂があるようで」
フルーレティの顔色が青や緑に入れ替わる。
「へ、へぇ~」
「いかがいたしましょう?」
「なんとかしてきて!!!!」
「承知いたしました」