『……本館があるだろう』
「こちらの方が調べやすいのですよ」
帝国図書館分館にて管理者の一人である『くま』は少女の姿でゲーテに言う。分館はもう一人の管理者が好き勝手にやっていた場所だった。
過去形なのは年月が経ったからだ。二人はボードレールの棚の前にいる。
分館は転生した文豪に関しては文豪ごとに著作や著作関連がまとめられているのだ。
『悪の華か』
「興味深く読ませてもらいました。錬金術の視点からも。変わった本です」
『結社が持ってきた本なんてみんな変わっている。こっちに調べるのを押し付けて』
ケッ、となっている。ゲーテは微苦笑をした。
「ファウストが迷惑をかけたところはありますね」
『……悪の華。そんなに興味深かったのか?』
「ええ。とても。旅への誘いが特に興味深かったです」
『ミニヨンの歌……君知るや南の国からを下敷きにした詩だな』
無言になりつつも『くま』はゲーテと話す。旅への誘いはボードレールの詩の一つだ。
ゲーテがかつて書いた『ヴィルヘルム・マイスター』という教養小説に出てくるミニヨンの歌の一つの下敷きに作られている。
君知るや南の国は日本語のタイトルだ。この詩は森鴎外にも訳されている。
「私の名が広まっていることもそうですが、この詩は韻文詩と散文詩、二つあります」
『散文詩はボードレールが発展、完成させたものだ。……とされている。散文詩の方はパリの憂鬱に載っているな』
死後に出た奴、と『くま』が言う。
韻文詩とは韻を踏んでいく詩だ。日本語だと分かりづらいが、原文で読めば韻を踏んでいるとなる。
散文詩とは意味を持たない文章で作られた詩ともいうべきだろうか。定義はあいまいだ。なぜならば解釈によっては手のひら小説も散文詩になっている。
「ええ。私の死後も言葉は残り、世界に散り、訳され、広まった。ボードレールさんは私の残した詩で新たな世界を作り上げた。それがとても嬉しかったのです」
その表情はとても柔らかく、子供のようで。
ゲーテの表情を『くま』は見上げた。
その時、何かが倒れる音がした。
「すみません。盗み聞きをするつもりはなかったのですが」
松岡譲と倒れたボードレールがいた。
「――そんなふうに笑わないでくれ」
「……いまでもあなたはわたしのひかり?」
「光だとしたら嬉しいことですが」
「ああ……君知るや南の国の原文はレモンが出てくるのでしたね」
松岡はたまに『くま』が棒読みで歌っているのを聞いたことがあるので歌のタイトルを知っていた。
「アンタの詩も何もかも広がって影響が大きいだろう」
「貴方もですよ。『悪の華』は錬金術としても興味が深いですが、貴方の詩はとても素敵だ」
「起き上がれなくなる……」
ボードレールは顔を赤くして倒れていた。ゲーテは微笑んでいる。
『くま』の姿が消えた。黒くて大きなテディベアがボードレールの腹にダイブしようとしていたが松岡が止めた。