【過ぎ行く卯月】【過ぎ行く卯月】
談話室は文豪達が集まりやすい部屋だ。
昼過ぎ、徳田秋声は二人掛けのソファーに一人で座って、裁縫をしていた。側には一人崖のソファーに座り黙々と読書をしている川端康成がいる。
部屋には三人いた。秋声と、川端の他に、もう一人。
「コーヒーが入ったぞ」
正宗白鳥は談話室にある簡易キッチンでコーヒーを入れていた。コーヒーを淹れるために使った器具は今回はハンドドリップだ。今回はとつくのはコーヒーは
豆の他にも器具によって味が変わる。
「ありがとう」
「……本日の豆は」
「さくらブルボンだ」
秋声としては美味しいコーヒーが飲めればどんなブレンドでもストレートでもいいのだが、正宗はコーヒーにこだわっているところがある。
川端が聞いたら正宗は教えてくれた。
「春だから?」
「そうだ。春にあやかってよく売られる。ブラジルの豆だ」
コーヒーカップにコーヒーが入れられていた。ネコの形をしたマグカップだ。帝国図書館は文豪だけでも八十五人いて、生活のために最低限のルールが決められていた。
その中の一つにコーヒーを淹れることはマグカップに入れることというのがある。これはコーヒーの匂いが強すぎるからティーカップに入れるのを嫌がる者もいるが、
気にしないものは気にしないため、そのルールが出来た。
ソファーの前にあるテーブルには砂糖の入った猫の入れ物が置かれていた。
「鞄を作っているのですね」
「野イチゴ柄の布を手に入れたから。作ってみているんだ」
秋声の趣味は裁縫だ。転生してからずっとやっていることもあってか、なかなかの腕前である。
白い布に赤いいちごが描かれていて、秋声はこの布を使ってトートバッグを作っていた。トートバッグを作ったら巾着を作ってみてもいいかもしれないと考える。
「……野いちごと言えば、徳田さんの『あらくれ』の表紙にも野いちごが描かれていますね」
「そうだね。中身は野いちごを連想させないものだけれども」
「『あらくれ』は素晴らしい小説です」
苦笑いを浮かべようとした修正だったが、細いながらも力強い、褒める言葉に秋声は言葉をとめる。川端は秋声のファンなのだ。
今ではファンのことは推しというようだが、推されている。
秋声の『あらくれ』は茶色い表紙に赤と緑の野いちごが描かれているものだ。評判がいい表紙である。
「表紙は大事とはいえ、お前の場合はそこまでこだわってないからな」
「鏡花は華美だよね。鏡花本と言われているぐらいにさ」
本を手に取ってもらうには表紙も重要なところがある。兄弟子の泉鏡花の本は鏡花本と言われているぐらいには華美だ。
話していると秋声は気配を感じた。作りかけのトートバッグを傍らに置いてから、コーヒーを飲もうとする。
「新美。秋声を驚かせるな」
「気づかれちゃった」
部屋に来たのは新美南吉だ。ごんと一緒である。秋声と南吉はこのメンバーの中で一番付き合いが長い二人だ。
秋声は最古参文豪だし、南吉も当初転生が確認された三十五人の文豪のうちの一人だ。
「驚かせてはいけませんよ。徳田さんは裁縫中です」
「はーい。僕もコーヒーが飲みたい。ホイップクリームが乗ったコーヒー」
「ウインナーコーヒーか。淹れよう。余分にコーヒーは淹れた」
「いつもそうだよね」
「多めに入れたほうがいいからな」
南吉は反省をしているのかしていないのか分からないが、元気よく返事をしていて秋声の左隣に座る。
右にはトートバッグが置かれているからだ。テーブルの上には裁縫箱もある。
コーヒーは多めに入れているが、帝国図書館は人間が多いため多めに作ったり淹れたりしても飲み食いされるのだ。
「野いちごだぁ。ジャムがいっぱい作られていたよね」
「ランボーさんと中原さんが取ってきた野いちごで作られたと聞いています」
「翻訳された方とした方だな」
簡易キッチンにてマグカップの中にザラメ砂糖を入れてからコーヒーサーバーに入っているコーヒーを正宗はマグカップに注ぎ込む。
その上に小さな冷蔵庫に入っていたホイップクリームを絞って入れた。使ったのはあらかじめ絞り袋に入れられて売られているホイップクリームだ。
たっぷり入れて、コーヒースプーンと共に南吉の前に置く。
アルチュール・ランボーと中原中也は詩を翻訳された方と詩を翻訳した方という関係だし、中也はランボーのファンだ。
ランボーは見た目は幼いが、産まれた年代は上から数えたほうが早い。
「僕とドイルさんもそうなるんだよね。ドイルさんの小説を訳したことがあるから」
「……ボードレールさんと永井さん、三好さん……ポーさんと森さん。ゲーテさんと森さんもそうなりますね」
「芥川さんと菊池さんもキャロルのアリスを訳してるよ!」
美味しい! と南吉はさっそくウインナーコーヒーを飲み始めた。ホイップクリームの甘さがコーヒーの苦みを中和する。
秋声はコーヒーには何も入れていないがそろそろ砂糖を入れることにした。
訳の話になったが秋声は英語が堪能であったこと、当時のこともあってか海外の文豪の小説を訳していたことがあった。
コナン・ドイルの小説も訳している。
もう一人の仏蘭西詩人であるシャルル・ボードレールも永井荷風や三好達治に詩を訳されているし、森鴎外はエドガー・アラン・ポーや
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの作品を訳している。
芥川龍之介と菊池寛はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を訳していた。
「今に通じる訳になっていないのもあるけれど、ドイルさんは上手く訳してくれたって言ってくれた」
「言葉は、変わるものですから」
翻訳は難しい。国語が出来るからと言って、英語ができるからと言って物語を訳せるとは限らないのだ。物語は物語として
膨らませなければならない。言葉がない。存在しないものもあるのだ。例えば海外のお菓子なんて昔は日本に伝わっていなくて、
日本で通じそうな菓子になおしたら
「秋声さんはまた翻訳しないの?」
「まずはこのトートバッグを作らないとね。志賀さんのお店においてもらうから」
コーヒーを半分飲んでから秋声はトートバッグ作りを再開する。本日中には出来そうであった。
志賀直哉は帝国図書館近くの商店街で店をやっている。『Gray Moon』という店だ。
秋声は巾着やトートバッグなどたまに裁縫で作ったものを売りに出している。売り上げは全部秋声が受け取ってもいいとは志賀は
言ってくれていたのだがそれでは申訳がないと手数料は渡していた。
「おかいものー」
「おやつは三百円までだよ」
「……それでは安いと思います」
「奢られるつもりか。川端」
四人で談話室にいて、秋声がトートバッグを作ったので納品をしようとしたら三人もついてきたのだ。商店街は文豪たち御用達である。
「暑いね」
春先。寒いと感じていたのに今日は暖かい。暑すぎる。
商店街に入り、彼等は志賀の店を目指した。経営を始めて何年かが経過している。汗こそはかかないが太陽がまぶしい。
「明日は冷えるぞ。十年に一度の冷え込みだ」
「寒暖差が酷いと、体に堪えます」
「あ、鎧! ぴかぴかしてる」
店先に飾られている鎧を南吉が発見した。五月人形だ。鎧武者が硝子のショーケースに鎮座している。
「もう五月ですね……こいのぼりはあげるのでしょうか」
「商店街で上げるらしいし、図書館も岩野が暴走しなければ普通の鯉のぼりが上がるだろう」
「そうなったら夢野さんが止めるから大丈夫」
数年前に岩野泡鳴は派手なこいのぼりをあげようとして止められていたことを秋声は思い出した。五月人形は太陽の光にあてられて光っている。
「柳田さんが凄い五月人形を持ってきたとかで曰く付きのものをもってきたらどうしよう」
「そうなったら止めるぞ」
「……絶対にやらないとは言えませんね」
「五月人形。図書館にあるしそろそろ出すかなぁ。柏餅もちまきも楽しみ!」
志賀の店に行きつつも、秋声は四月が過ぎ、五月が訪れていくことを感じる。染井吉野はもう葉桜となっていた。
――何事もなければいいけど。
何事もないの範囲が広すぎるようになってきたとなりながら、秋声は皆で歩いていく。
【Fin】