恋を知る「ダハトくん、私ね——恋をしたの」
ふわりと花開くように、とびっきり幸せそうに、ナディアが笑う。
「へえ、それはそれは。良かったじゃないですか、ナディア」
じく、と突き刺さる胸の痛みには、努めて気付かぬように。ダハトはいつもの得意の笑みを浮かべながら、彼女へと祝福の言葉を贈った。
この痛みを感じるのは、なにも今日が初めてではなかった。誰しもが寿命に怯えることなく、普通の人間として暮らせるようになった今。胸の痛みでメモリークラッシュを引き起こすこともないわけだが。それはそれとしても、ダハトはこの痛みにだけは堪えられそうにもなかった。
罪を犯した自分が、彼女のそばにいるべきではない。長い刑期を終え、ナディアには「さようなら」と別れを告げるつもりだった。しかし、ナディアに「どこにも行かないで」と泣きながら請われてしまったら、ダハトには突き放すことも出来ず。こうして、よくナディアの話し相手になっていた。
牢獄の中でも思い出すのは、ナディアの姿ばかりで。初めて胸の痛みを覚えたのも、そのときだ。なんとなく、自分の気持ちには薄々気がついていた。ああ、やっぱりか、とダハトもすんなりと納得出来たわけでもある。僕は、ナディアのことが好きなんだ——と。
だから、本来なら彼女の恋を応援してあげるべきなのだ。それが、ナディアの夢でもあるから。恋をして、好きな人と結婚して、いつまでもどこまでも幸せな未来が続くこと——前にダハトに語ってくれたことを、彼はよく覚えていた。
「ダハトくんは、平気なの? 私が誰かに恋をしても」
「っ、やだなぁ、何言ってるんですか。やっと、ナディアも幸せな恋が出来るんですよ? 嬉しいに決まってるじゃないですか。僕は応援しますよ」
「…………そっか、そうよね……そう、だよね」
なぜ、彼女は今にも泣き出してしまいそうな顔をしているのか。好きな人が出来た、なんてナディアにとっても喜ばしいことのはずなのに、なぜ。
ダハトは、思わずナディアの頬へと伸ばしそうになってしまった手を引っ込めて、ぎゅうと自身の膝の上で拳を握りしめた。ダハトはいつも彼女に触れることを躊躇う。こんな汚れた手で、真っ白で純粋な彼女に触れられるわけがない。
なんと声を掛けたらいいのかも分からず、ダハトは口を噤んだ。しかし、そんなダハトへとナディアは何の躊躇いもなく、触れてきた。ダハトの袖を弱々しく掴み、握りしめる。この手を振り解くことなど、ダハトには出来るはずがなかった。俯いたナディアの瞳から、ぽたりと雫が溢れ、シーツを濡らしていく。
「ダハトくんなの……っ」
「え、」
「私が好きなのは、ダハトくんなの」
「え——」
まさか、と思った。ナディアが自分のことを好きになってくれるわけがない、ずっとそう思っていたから。突然の彼女からの告白に、ダハトの思考も停止してしまう。
「ダハトくんと……ずっと、一緒にいたいよ」
「………あんなにもひどい罪を犯した僕でも?」
「っ、それでも、あなたじゃなきゃ嫌。ダハトくんが、いい。ダハトくんが、すき」
なんて破壊力のある殺し文句なのか。ダハトは熱くなっていく顔を隠すように、手のひらで覆った。ああ、もう降参だ。認めるしかない。ナディアも同じ気持ちだったと知って、嬉しいのだと。女の子にここまで言わせておいて、自分だけが何も言わないのは、あまりにも情けなくて、格好悪すぎる。
こんな自分から望んでもいいのか。彼女と——ナディアと、これから続く未来を共にしていくことを、望んでもいいのか。
「ありがとう、ナディア」
そうやって感謝の言葉を口に出した瞬間、ダハトの胸の内に溢れていた想いが次から次へと溢れ出してきて、抑えられなくなってしまった。ダハトの瞳にも涙が滲み、つ、と頬を伝って流れ落ちていく。その姿をナディアは驚いたように見つめていた。
「ダハトくん、泣いてるの?」
「……っ、何言ってるんですか、僕は泣いてませんよ」
「もう、嘘ばっかり」
そんなナディアもまた、堰を切ったようにほろほろと涙を零していた。こんなにも綺麗な涙を見たのは、ダハトは初めてだった。宝石のようにキラキラと輝いていて、目が離せそうにない。気がつけば、ダハトの指先は彼女の目尻に触れていた。溢れる雫を一滴ずつ優しく掬い上げていく。泣かないで、ナディア——と、そんな願いを込めながら。
「ねえ、ナディア。僕の気持ち聞いてくれますか?」
ダハトの言葉に、こくりとナディアが頷く。
「僕も好きですよ、ナディア。君のことが——」
誰よりも、大好きです。
涙を流しながら告げるダハトに、ナディアはくしゃりと顔を歪ませた。わんわんと声を上げて泣く彼女を、ダハトは困り果てたように笑って、その身を抱きしめた。泣きじゃくる子どもをあやすように、その背を撫でて、彼女の名を優しく呼ぶ。ナディア、と。
「僕と一緒に、素敵な未来を作ってくれますか?」
情けないことに、ダハトの手も、声も、震えてしまっていた。こんな風に誰かに想いを告げるのは、初めてなのだ。こんな気持ちを抱くのも、何もかも初めてで。それはまた、ナディアも同じだった。
「っ、はい、よろしく、おねが……します、っ」
互いに涙を流しながら、抱き合って——そんな二人を祝福するかのように、窓の外では花びらが舞っていた。