砂糖をたくさんたくさん煮詰めて、煮詰めて。それが茶色になるまでキャラメリゼ。
雪のように白い砂糖が、とろとろ蕩けて、艶やかな茶色になるまで火を入れて、そこにくらくらするほどのあまい香りがするまで火を入れて。
体の中が、そのとろけるような、喉が乾くような空気でいっぱいになって。
胸焼けするくらいの、甘い甘い夢だ。
ふ、と気がつくと、見える景色はその大陸のものではなかった。
水の音が聞こえる。細い水路をながれる、水の音がした。
どうやらわたしは橋の上にいたらしい。細い水路を通るための橋だ。
冬に向かいつつある、柔らかな秋の日差しが、その狭い中にしっかりと差し込んでいる。澄んだ青色は良い空の色。水路には色づいた葉もいくつか浮いていて、海の方へと流れていく。
遠くの方で漣が聞こえた。
懐かしい景色と、懐かしい音。変な顔をしていたことだろう。
視点の高さも、きっと彼女と同じくらいの高さで、わたしはいつものわたしの姿をしていないのだろうことが察せられる。
左の薬指にはおあつらえ向きに指輪なんかをしている。日差しを浴びて、キラキラとシルバーの輪が輝いていた。
─馬鹿みたい。
真っ先に警戒した。萩原林檎がまた何か仕込んだのだろうか。幻覚でも見せて心を揺さぶらせようとでもしているのだろうか。
これを見る前のわたしが何をしていたかを紐解く。そこから早く抜け出さなければならないといけないと、橋を降りようとした。
どこからか歌が聞こえる。レコードに乗せて音楽が、どこかの家から聞こえてきた。午後の良い時間だ。きっと音楽を聴く婦人でもいるのだろう。
快晴の空、しおの匂いのする風は肌をくすぐるようにゆるく吹いていて、小さな小舟は街の足として動く。船人は呑気にあくびなんかをして、船唄を歌う。
そのどちらもが恋歌のようで、ロマンスを歌うようで。空に音は上っていく。
橋を降り切った時、やあ、と笑った人がいた。
「…おそかったですね」
わたしのよく知っているその人より、少し大人びた顔をして、少し背丈の伸びた、金糸の髪と、青色の瞳を持つその人は。
わたしの方を向いて、柔らかに笑った後。
紛れもなく、わたしの名前を呼んだのだ。
低くも高くもない、その声で呼ばれた名前を聞けば、また何とも、都合のいい、と奥歯を噛み締めた後。
萩原林檎は関係なく。ただ自分が、見たくてみている、優しい甘さの、甘い夢なのだと認めた。
ただの人形が夢見るなんておかしいのだけれど。
誰かに恋をするなんて、そんなの、おかしな話なのだけど。
何にも知らないその人のところへと駆け出して、にっこりわらって見せる。
「…待った?」
「待ったよ、待ちました。もう、あくびをたくさんしましたよ。これ以上ないくらい」
「…嘘つけ。実はそんなに待ってないんじゃないのか?」
「……バレたか。…俺は来たばかりだよ」
「わー、全くな、きみは嘘つきだな。どうせ、わたしのほうがいつも待ちぼうけだ」
「……面目ない」
何年も一緒に付き合っていたかのように。指と指を絡めて、その人の顔を見て笑ってみせる。
それから二人でゆっくりと街の中を歩いて、美味しいものをたべて。その人が本が見たいと言うので、書店に立ち寄って、その人のはしゃぐのを見たり。
たくさん笑ったような気もするし、心の裏側がずっと痒いような気もしていた。
けども、ゴンドラに乗って、あるはずもないのに家に帰ろうとした時。その人の顔がうすらんできてしまったから、あ、きっともう覚めるのだろうな、と思った。
その懐かしい景色も、ぐにゃりと形を歪めていく。二度と見ることはできなさそうだな、なんて思ったりして。
聞いたこともないのに、よく聞いた声でその人は最後にひとつ尋ねてきた。
それはずっと尋ねたかったことを尋ねるように。最後に質問するなら、これを質問したかったかのように。どうしてもこれだけ、聞きたかったように。
「きみはいま、どうかな。しあわせ?」
─
「あ、起きた。…ふむ、でこぴん、と言うやつを試してやろうと思いましたが…」
さて、プッペ・ポップヒェンが瞼を上げれば、そこには萩原林檎の姿が見えた。訝しげな顔でこちらをみている。
「は、は。くたくたに疲れて、布団にたどり着く暇もなく、入り口で寝ているとは。実に滑稽。芸術点も高い。なかなかお笑い、と言うやつになりますね。きっと壇上に上がっていたならば、審査員に100点をもらえていましたよ、プッペ」
「……ゆかでねてたか。…ベットまではこんでくれてもいーのに…」
「無理矢理、部屋から人を追い出して、はろういんに行かせたというのに、戻ってきたらこの様子。あなたの頭をボールのように、蹴ってやろうかと思いました」
にこやかにつらつらと述べるその人の顔をみて、プッペは眉を顰めた。大体から一ヶ月ほど部屋に引きこもってる、林檎も悪いと思うぞと返しつつ、今度はベッドへと向かう。
中途半端に目覚めてしまったからか、まだどこか眠りに意識が包まれている。疲れも抜けていないし、外はまだ夜の帷が落ちたままだった。
「もう一度お休みに?」
「うん。プッペ、もうすこしねるな。…こんどはベットでねるからな」
「それは良い。俺は本を読んでおとなしくしておきます」
といえば、懐から本を取り出し見せた。また新しく、本を入手したらしい。変なタイトルをしていたような気がするが、眠い頭だから気のせいかも知れない。
「…まーいーや。おやすみ、ハギワラ」
突っ込む元気もないので、そのまま布団へ潜れば瞼を閉じ。プッペは、再び夢の奥へと落ちていくのであった。
─眠ったのを見れば、ハギワラは、彼女の表情を眺める。
安らかに眠っているようだった。はて、と首を傾げて、顎をさする。
訝しげに見られた瞳の奥。誰か別のものでも見ているようだった。
「……さても。先程は変な夢でもみていましたね、はは。うん」
実に面白い、と目を伏せて。さて、では新刊。と、彼女から興味を失えば。くるり、と机に向かうのだった。
その後、プッペ・ポップヒェンが砂糖を煮詰めるような甘い夢を見ることは、なかった。
「そうだな。今、しあわせだぞ」