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    傀暮(※初っ端から絞首ご注意)甘め。

    まじりけのない宝石たち 気づいた時には、細く白い首を両手で掴んでいた。昼と夜の境目の色を帯びた長い髪が巻き添いになる。反射的に首を絞める手を引き剥がそうと、彼の美しい手が自分の手に重なる。しかし力無く失敗に終わり、縋るように袖口を掴むことしかできなかった。
     彼の喉は今、乾いた摩擦音しか発さない。狭まった気道から少しでも酸素を取り入れようと必死にもがいている。普段は透き通るように白い頬が赤く色付き美しい。
     何者かが頭の中で美しい彼を殺せ、殺せと喚いている。この手で殺してこそ彼は悲劇を体現する。そして彼はその美しい姿のまま永遠にこの魂に刻まれるのだと。しかしルシアンが望むのはただ、目の前の彼の声が聞きたい、それだけだった。底を流れるような低く落ち着いた優しい彼の声が、己の背中を支えてくれることをルシアンは知っていた。両手にのみ意識を集中させ、ほんの少し力を抜くと、彼は細い糸をたぐるように精一杯の呼吸をして、そして目を細めた。
     これでやっと終わる。そう言いたそうなとても満足気な表情だった。目尻から一粒涙がこぼれ、ルシアンの手に伝った。その涙の輝きと引き換えに光が失われていく瞳のコントラストに見惚れた次の瞬間、ルシアンは我に返った。首から両手を離し、支えのなくなったシャレムの身体が倒れかかるのを受け止め、二人はその場に膝をついた。急激な酸素の侵入にシャレムは激しく咳ごみなお苦しんでいる。ルシアンは震える背中を罪悪感でいっぱいになりながら摩った。
    「………すまない……」
     先程まで命を奪わんと首にかけていた手が、今度は赤子をあやすように背中を撫でている。己の二面性を嫌悪し顔を顰める。だが今はそれよりも彼だ。ルシアンは喉をひゅうひゅうと鳴らし必死に呼吸を整えるシャレムをそっと引き寄せた。
    「…っ…そのまま、殺してくれても、良かったんですよ…」
    「……何故だ」
    「……私は……あなたに、殺される覚悟は、出来ています…」
     シャレムの目はまだ焦点を捉えておらずふわふわと宙を彷徨い、ルシアンの目と合うことはなかった。朦朧とする意識を振り払うべくゆっくりと瞬きを繰り返している。
    「私を、殺すために、追いかけてきた、のだと、思っていましたから」
    「……否定したいが、こんなことをした後では…何を言っても…」
     シャレムは力無く笑いながら頭をルシアンの胸に押しつけるようにしてもたれかかった。彼なりのささやかな反撃のようだった。酸素はまだ足りないようで、肩を上下させて呼吸を整えようとしている。二人の呼吸と布の擦れる音が、やけに大きく耳に入ってくる。
     ルシアンがシャレムを抱き支えたまま暫くの時間が経った。あるいは二人の間では時間などとうに止まっているのかもしれない。背中に置いていた手を離した瞬間、シャレムの肩が怯えるように小さく震えた。その手で頭を撫でてやると徐々に肩の力は抜けていったが、彼の手は何かを堪えるようにルシアンの外套をぎゅうと握りしめていた。
     やがてシャレムが顔を上げた。淡い色の毛束が乱れて顔にかかる様すら美しい。化粧も相まって目の下の隈は深くなったように見える。ルシアンは己の内の黒い感情がまたも騒めくのを感じたが、正気を保つべく目を瞑り軽く頭を振った。しばらくルシアンを見つめたあと、シャレムはゆっくりと口を開いた。
    「……私を殺すのでなければ、何をしにいらしたのです?」
    「……………君が、美しかった」
    「はい……………え?」
     シャレムの顔にかかる髪を掬いながら、白い頬に触れた。ひんやりとしている。答えになっていない答えに、信じられないというように目を見開いてシャレムはルシアンの瞳を覗いた。
    「……まだ覚めていないのですか?」
    「……もう覚めている」
    「ご自分の頭蓋骨の中身をきちんと整理してから発言されたほうがいいかと」
    「ずっと思っていた。君が、劇団を去ってから、ずっと」
    「何を…言って……」
     ルシアンはもう片方の手でシャレムの手を取り見つめた。血に染まっていない、美しい手。傷つけるための凶器ではなく、守るための盾を握る清らかな手。それに自分の汚れきった手が触れていることへの罪悪感と、仄暗い独占欲が芽生える。
    「劇団は何者にも染まらない君を持て余した。だから君は去ることができた。あの日に見た、君の走り去っていく後ろ姿を忘れはしない」
    「……私はただ、何者にもなれず、直す価値すらない醜くみっともない不良品だっただけです」
    「醜い?醜いのは私だ。この手も何もかも血や罪で汚れている。本当は君に触れることすら許されない。だが……」
    「ッいいえ!あなたは美しかった、子供の頃から、今でも、あなたはずっと…ずっと…ッ!」
     シャレムは珍しく声を荒らげてルシアンの肩を掴んだ。今までのどの抵抗よりも力強く、頑なだった。その瞳にはルシアン——クリムゾンソリティアに対する崇拝にも近い憧れと、少しの怯え、少しの期待の色が混じっていた。しかし次の瞬間には申し訳なさそうに物憂げな瞳に戻った。シャレムは一言謝罪をして、先ほどの自分を誤魔化すようにつらつらと話し始めた。
    「…私を揶揄っても面白くないでしょう。そうですね…ドクターなら、きっと面白い反応が見られるかもしれません。いつも寡黙なあなたが突然冗談を言ったら、流石のドクターもフェイスシールドを外して、まじまじと何時間もあなたの顔を見るでしょうね」
    「シャレム、私は」
     言いながら静かに立ち上がり離れていくシャレムに手を伸ばす。しかしルシアンの手はシャレムの拒むような声色に阻まれ失速した。コードネームで呼ばれ、作るつもりのなかった溝が引かれていくのを感じる。
    「ミスター・ファントム。言いたいことがお済みなら、もう、お帰りください」
     だが、シャレムにはわかっていた。この男が素直に目的の遂行を諦めるはずがないことを。何が目的かは知らないが、己が納得するまで追い求めることをやめないのだ。だからこそ彼は“緋き貴石”クリムゾンソリティアを掴んだのであり、そしてその輝きを手に入れんとする者たちの陰謀や罠にも数多く巻き込まれるのだ。何よりシャレムが頭を抱えるのは、彼にその自覚が足りないことだった。
     ルシアンは立ち上がり、目深に被ったフードを外して真っ直ぐにシャレムを見た。その目は案の定諦めなどとは程遠い頑なな意志を湛えている。
    「すまないが、帰ることはできない。まだ話したいことが山のようにある。君が聞きたくないというならば、そう言ってくれ」
    「…その口振では、聞きたくないと言ったところで帰るつもりはないようですね」
    「……そういうことだ」
     シャレムはゆっくりとため息をついた。そして紅茶でも飲みましょうかと返事も聞かぬうちに自室のキッチンへ音もなく歩いていった。



     紅茶の香りが部屋を満たしていく。それは先程までこの部屋に漂っていた死の香りを拭い、小さな花を咲かせていくようだった。
     ことり、と二人分の茶器と角砂糖、ミルクが机に用意される。慣れた手つきでティーポットから紅茶を注ぎ、シャレムは椅子に座った。
    「いつまでそこに立っているおつもりです?」
    「…感謝する」
     ルシアンはシャレムの反対側に座り、出された紅茶を一口飲む。花の香りと共に暖かさが口内を満たし、喉を通り過ぎ、冷えた体に溜まるのを感じる。しばらく何も口にしていないことを思い出した。最後に食料を胃に入れたのはいつだったか。常に闇と共にある“ファントム”にとって一日の境すら曖昧で、この心臓がまだ動いている間に体が必要とする最低限の行動をとっているにすぎない。医療オペレーターには規則正しい生活をと注意を受けたが、“ファントム”はこれで良いと思っている。
     ふと、デジャヴのように、今目にしているこの光景を遠い昔にも見たことがあるような気がして、遠い記憶を呼び起こす。
     劇団に拾われた初めの頃、二人は天災で親を亡くした行き場のないただの子供にすぎなかった。劇団の世話係が淹れる温かい紅茶は、子供ながらに感じていたこれから先の不安を溶かすようで、安心の象徴でもあった。しかし成長するにつれ、ルシアンとシャレムの生活には差が生まれていった。ルシアンは才能を見出され、日々過酷な稽古に追われるようになり、シャレムは見習いとして雑用や基礎的な訓練、指導係からの罰を受ける日々だった。紅茶を飲むわずかな時間すら共にできなくなった。そして今、その差は人を殺めた罪の有無として天と地ほどに明確になった。
    「私は知りたいのだ。私と君との違いを」
    「違い、ですか?」
    「私たちは同じ故郷で生まれ、同じ小さな劇団に拾われた。一体、どこから違えてしまったのだろうか」
     シャレムは一口紅茶を飲み、また一つため息を吐いた。何故今になってこんな話をする必要があるのか聞き返したい気分だった。シャレムにとっては嫌でも理解している当然のことだったからだ。
    「簡単なことです。あなたは天才で、私は凡人だった。それだけです」
    「それは劇団から見た評価にすぎない。私は君の話を聞きたい」
     沈黙がまたも部屋を包んだ。シャレムはまだ紅茶が入って温かいティーカップに手を当て水面に映る自分を見ながら考えた。ルシアンは何を聞きたいのか。彼との違いなど探せば星の数ほどある。故郷が同じこと以外、種族も容姿も声も背丈も手足のサイズも食の好みも、何もかも違う。だがルシアンが聞きたいのはそんな些末なことではないだろう。
     ふと、シャレムは初めてルシアンとの差を感じた出来事を思い出した。お互いにまだ劇団の見習いだった頃の話だ。シャレムは指導係の言うこと一つ一つに疑問を持ち飲み込みが遅く、一方でルシアンは全てを受け入れ当然のようにどの演技も完璧にこなしてみせた。疑うことなど知らぬようだった。子供ながらにルシアンのことを白紙のように真っ新でなんて心が綺麗な人なのだろうと思った。逆に言えば、自分はそうではないのだとも思い知らされた。苦い記憶。今思うに、それはきっと——。
    「純粋か否か、だと思います」
     ミルクの入った容器を手に取り紅茶に注ぎ入れる。水面に映った自分の姿は歪み、どんどん不明瞭になり、そして見えなくなった。
     ルシアンは純粋すぎたのだ。まるでスポンジのように与えられるもの全てを吸収し、周りの期待に応え続ける。まっすぐで透き通った宝石のように輝いて見えた。それはシャレムだけではなかった。名だたる役者が揃って彼を支援した。そしてあのお方も。
    「…純粋」
    「人々は皆自分に無いものを求めるものです。純粋さは時間と共に曇ってしまいますから、それを感じさせない浮世離れした純粋なあなたを美しいと感じるのも当然です」
    「ならば、私が君に抱く美しさも、君の持つ純粋さがそうさせているのではないのか」
    「………先程から、その歯が浮くような言い回しは何なのですか…?」
     シャレムは目を伏せたままスプーンで紅茶とミルクを混ぜる。ルシアンはよくわからないというように首を僅かに傾げシャレムを見るが、シャレムは目を合わせたくないようだった。
    「私にはあなたに認められるような美しさも、価値もありません」
    「君は、君自身が思うよりずっと魅力的だ」
    「だから…その、そういうのは…」
     消え入りそうな声と、気配。ルシアンはコップに添えられたシャレムの手に自分の手を添えた。触れていないと瞬きをした瞬間消えてしまいそうだと思った。掴んだ蛇が手元をするりと抜け出すかのように。あるいは、舞台の底を這うドライアイスの昇華煙が、誰の気にも留められないままいつの間にか宙に溶けてなくなるように。呆気なく。
     シャレムはその手を振り解かない。否定的な声色とは裏腹にその瞳には熱い渇望のような色が浮かんでいる。
    「…あなたは——クリムゾンソリティアはあの劇団における明星でした。眩く輝き、人目を惹きつけて離さない。あなたはその号を良しとはしないかもしれませんが…私はあなたに憧れていました。ルシアン。今でも」
     添えられたルシアンの手に、控えめに、ゆっくりと指を絡ませる。紅茶の温もりが伝わり、冷たい指先に仄かな熱が集まっていく。
     シャレムはまたため息をついた。憧れ、焦がれていながら、いざ追いかけられると逃げ回るなど、格好がつかないにも程があると思っていた。もう二度と会わないはずだったのだ。会わなければ今のように惨めな自分に改めて自己嫌悪することもなかっただろうに。
    「…情けないでしょう。あなたに届くはずはないのに、宵の明星などと名乗って。悪足掻きもいいところです。こんな私のどこに魅力があると?」
    「…君は恐ろしい過去と向き合った。私を助けるため忌まわしき古城にまで来た。剣でも弓でもなく、盾を持って。私より勇敢で、純粋だ。誰も君を責める者はいない。君自身ですらも君を責める権利はないのだ」
    「…いいえ、違う。それは違います、ルシアン、私は……」
     ルシアンを握る手に力が籠る。ルシアンは真っ直ぐ彼を見ていた。彼の心の底から何か、見えない黒い何かが溢れそうな気がした。一体何が彼を蝕んでいるのか、ソレを知りたい。だがソレを知ることは、己の心の底にソレを飼うことと同義なのではないか。ルシアンは直感して少し身構えた。
    「…あなたに肩を貸した時、少しでもあなたに近づけることを喜んでいた自分がいるのです。古城へ行く前まであんなにあなたを避けていたのに。おかしいでしょう?」
     シャレムは自虐気味に笑いながら続ける。その声は震えている。
    「あなたに近づく度に、今の自分が正気かどうかわからなくなるんです。先程、あなたにもたれかかっていた時もそうでした。遠い過去に置いてきたはずの声が、頭の中で響いて——『美しき“緋き貴石”クリムゾンソリティアは目の前にある。さあ、手に取って。私だけのものにして、そして…』——」
     シャレムの纏う気配が一瞬で変わった。演技だと言ってしまえば、確かにそれは演技の枠に収まるのだろう。しかし今の彼が演技だとどうして断言できる?それは他者が判断できることではない。普段の柔和で穏やかな彼とは違う、捕まってしまえば二度と逃れられないほどの執念と激情を纏った彼——いや、女性の気配がそこにはあった。ゆらりとその手がルシアンの頭へと伸ばされる。その指先が愛おしそうに髪を梳き、耳を撫で、丸い後頭部をなぞる。ルシアンは彼から齎されるものを否定も、拒否もするつもりはない。しかし今話をしたいのは彼女ではなく、彼だ。近づいてくる彼の耳元で名前を呼んだ。“シャレム”ではない、彼の本当の名前を。
     シャレムはハッとして我に返り、咄嗟に身を引いた。ルシアンの頭を抱いていた両手を見つめ、顔を覆う。
    「…今のは……」
    「…誰だったんでしょうね。私は、誰なんでしょう…は、はは…」
     もう一度名前で呼ぶと、シャレムは俯いて答える。いまだ困惑しているようだが、先程の女性のような気配はなくなった。
     すっかり冷めてしまったミルクティーを一口飲み、シャレムは心を落ち着かせる。正気を失っても、不思議なことにその言動は覚えているもので、それが余計に混乱を生む。彼を救うためなど建前で、本当は美しい彼を自分のものにできると思ったから古城へ向かったのではないか?『“緋き貴石”クリムゾンソリティアを独占したい』この感情こそが本心なのではないか?——いや、きっと本心だ。役と自分自身の間に明確な隔たりなどない。
     今の冷静な自分を現在に繋ぎ止めておきたくて、ティーカップを両手で包み、その温度に意識を集中させていると、ルシアンは察したかのように再び上から手を添えた。
     ああ、これだからこの人は“深淵”にも“あのお方”にも目をつけられる。
     純粋でその本心はどこまでも優しく己の正義に忠実だ。その正義の切先はどこまでも鋭く悪を断罪し続ける。しかし彼は彼自身の肩にのし掛かる罪の重さにどこまで耐えられるだろうか。自らの内に植え付けられた芸術への憧憬と、断罪行為が彼の中で結びついた時、葛藤する本来の彼は跡形もなく消え去り、完全なる“緋き貴石”クリムゾンソリティアとなる。その瞬間を“深淵”も待っている。その美しい輝きをこの目で見、あのお方のものではなく、自分のものとして大事に大事に大事に大事に愛したいのだ。無論その輝きを見てしまったが最後、路傍の石としてのシャレムもまた消えてなくなるのだろう。
     本当は彼に近づいてはいけないのだとわかっている。だがシャレムには彼の執拗な追及も、突然の訪問も、冷えた指先も、振り解くことはできなかった。劇団から齎された役も何もかも全て一切関係なく、今はただ彼の友としてそばにいたかった。この才能に溢れた孤独な芸術の子に、一人ではないのだと寄り添いたかった。
    「……何故泣いている?」
    「え?…あ……」
     顔を上げたシャレムは泣いていた。悲しいからなのか、苦しいからなのか、嬉しいからなのか、わからない。これも全ては演技なのかもしれない。だがその目の奥にルシアンは確かに感じ取った。“深淵”を。底のない美への渇望。覗き込めば引き摺り込まれるような芸術への愛が、彼の中に黒く渦巻いている。しかし、それだけではなかった。彼の中の弱きを助ける暖かさ、何者にも折ることのできない確かな芯をも彼の瞳の中に見たのだ。
     頬を伝う涙を優しく拭う。戸惑いながらもシャレムはされるがまま、その手のひらに頬を寄せた。相変わらず指先は冷たいが、紅茶の温度が移ったおかげか、僅かに温もりがある。
    「…君は、あの闇の中にいて、それでも己の中に確かな芯を持ち続けている。これこそ、純粋と言わずして何と言うのだろうか」
    「もう、この話はやめましょう。何か別の話題を———」
     頬に触れていた手で、不意に顔を引き寄せられる。シャレムは視界を覆っているのがルシアンの顔であることを遅れて理解した。続いて、唇に触れているのがルシアンの唇だということも。
     驚いて僅かに口を開いた瞬間を逃さず、ルシアンはより深く唇を交わらせた。噛みつくような口付けに、この状況から抜け出そうと巡らせた思考は次第にふやかされ、やがてやってきた多幸感にシャレムは目を瞑った。何度も角度を変えて交わされる口付けの、その下で、手探りで繋いだ手がティーカップに当たり紅茶が僅かにソーサーに溢れた。
     本当はずっとこうしたかったのだと、二人は理解した。名残惜しむようにゆっくりとどちらともなく離れていく。
    「……あなたの口付けは…紅茶の味がしますね…」
    「… お互い様だ」
    「こんなに甘いとは、思いませんでした…」
     しっとりと濡れる唇にそっと指を沿わせ、シャレムは茫然としていた。キスシーンの練習など数えきれないほどしてきた。今更キスなどどうという感想はないと思っていた。彼とのキスも想像したことがないわけではない。だが、こんなに甘く、溶けるような幸福感がやってくるとは。シャレムは体の奥からじわじわとやってくる熱が、顔に、耳に集まってくるのを感じて、自分の頬に両手で触れた。
    「…………」
    「……この感情を表現できる言葉など存在しないのだろう。何を伝えても少しずつ真意とはずれていく。歌でも歌えれば良いがそれももはや叶わない。だが、これまでに演じてきた者たちの言葉を借りるのであれば…………君を、愛している」
    「!」
     なぜ彼はどこまでも美しいのだろうか。純粋だから。それだけではやはり説明が足りない。何か他に、自らの内から湧き上がる黒く熱い感情がそう思わせるのだ。それはあまりにも禍々しく、ともすれば殺してしまいかねないほどの狂気をはらみ、自我すらも失わせる。しかしそれすら美しい彼を前にすれば酷く甘い苦痛であり、その痛みに陶酔してしまえばどんな地獄も楽園へと変わる。こんなものを恋と呼ぶのは躊躇われた。それとも、恋とは初めからこんなにも美醜を併せ持つものだったのだろうか?
     『恋』——そう捉えた瞬間、彼に口付けていた。まるでそうすることが決まっていたかのように。
    「……美しい君を見ていると、私の中で誰かが、君を殺してしまえば永遠に私のものだと囁くのだ」
    「それでいらした途端に首を…口説き文句としては些か過激すぎますね」
    「…すまなかった」
     わかりやすく耳を下げて謝る目の前のフェリーンに、シャレムは柔らかく笑う。
    「ええ、私も、きっとあなたを愛しているのでしょう。ルシアン。あなたの意思に関係なく、美しいあなたを奪ってしまいたいほどに。でなければ、この顔の火照りをどう説明しろと?」
     今度はルシアンが僅かに表情を柔らかくした。舞台の上ではその表情を意のままに操る彼だが、スポットライトから外れ、緞帳裏の影に溶け込んだ途端にその表情はまるで糸が切れたように止まってしまう。シャレムはそんな彼の僅かな変化も読み取れるほど、ルシアンをよく理解している。彼もまた、クリムゾンソリティアを見つめ続けるうちの一人なのだ。
    「しかし、私たちは近づき過ぎれば破滅の運命を辿るでしょう。そういった未来が見えます。この感情こそ命を終える時まで隠して遠くに捨て置くべきだったのに、あなたは暴いてしまったのですね」
    「どんな結末にせよ、君と共にあることで齎されるならば喜んで受け入れよう。例え悲劇だろうとそれすらも美しいだろう」
     そう口にしたルシアンを見遣り、シャレムはふと息をつく。薄く色づいた唇が弧を描いて、そして試すように問う。その目は今までになく挑発的だ。
    「それはルシアン、あなたのお考えですか?それともクリムゾンソリティア?」
     彼が顔色を変えることはない。
    「そう言う君は、本当はどちらだ?」
    「さあ…。ですが、奇遇ですね。私も同じことを考えていました」


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