藤一郎の長い日－１－『藤一郎の長い日―１―』

　自分は、今日この日で死ぬ運命だったのだろうか。
　雨を降らせる分厚い雲を見上げる。視界の端が赤く滲んでいて、見たことのない空が広がっていた。先程刃物で切り付けられた頬から流れる血液が、景色を赤く染めているのだと、芦見藤一郎はぼんやりと思った。
「オーイ、おっさん！もうくたばっちゃったのかな？」
「だっせーな！さっきの威勢のいい説教はもう終わりかなー？」
　耳障りな笑い声を響かせながら数人の男達の声が頭上から聞こえる。自分は地面に仰向けに寝転んでいた。それを覗き込むようにして、いかにもワルですという面持ちの男達が私を見下ろしてくる。
　体の感覚は既に無く、口を動かそうにも、手を動かそうにも、それが動いているのかも自分ではもはや分からない。視界はいよいよ霞んで来て、耳だけが音を拾っている。死ぬ間際でも、聴覚だけが最後まで生きている、という話は本当なのだなと、今考える状況ではない事ばかりが頭の中を巡る。

―――……

　今日は、一日雨になりそうだなと、どんよりとした空を見て考えながら、取引先から銀行へ戻るために傘を広げて歩き出す。今回の取引先との案件が長引いてしまったことと、振り続ける雨のせいもあって、自然と足早になる。磨かれた革靴が、泥水を被って鈍い水滴がいくつも付いている。明日が休日で良かった。そろそろ靴を新調した方がいいかもしれない。持ち物や身だしなみには常に気を付けるように、という、支部長の口癖を思い出す。
　この後、会社に戻ってから報告書をまとめて、来週頭には支部長へ提出できるように書類を整理しないといけない。既に定時を過ぎているため、少しでも早く戻りたかった。ので、普段は通らない近道を使うことにした。大通りから一本裏に入った路地で、自動車が通るには困難だが、人が通行するには十分な道である。
　しばらく歩くと、狭い道を我が物顔でたむろするガラの悪い青年達が見えてくる。近頃はこの近辺でも物騒な事が多いようで、良くニュースでも取り上げられている。会社の後輩が言うには、この辺りを牛耳っているヤクザが、他のヤクザと揉めているんだとか。それに釣られてなのか何なのかは自分には分からないが、こういったチンピラも良く見かけるようになった。昔から真面目に物事を考える癖があるからか、周りの事を考えないような、そもそも迷惑だとかそういった言葉等知らないかのような輩が嫌いだ。いくら近道だからと言えど、裏道を使わない理由はこれだ。大通りは通行人が行き交い、道路を走る車やバイクが排気ガスをまき散らしているが、裏道は治安が悪くこのような輩が集会を開いていることが多いのだ。
　青年達は未だたむろしたままだが、横を通り過ぎる程度の幅はある。足早に通り過ぎてしまおうと考えていると、青年の一人が煙草の吸い殻を、火も消さずに投げ捨てた。青年の手を離れた煙草は、雨で濡れたアスファルトに落ちるとジュッと音を立てて火が消える。それを見てしまったからには黙って横を通り過ぎる訳にはいかなかった。投げ捨てられた煙草の吸殻を拾い上げると、投げ捨てた本人の目の前に差し出す。
「あ？何？おっさん」
「ポイ捨ては見過ごせないですね」
「はあ？」
「そもそも、道路を塞いでしまっては通行人にも迷惑になると、少し考えたら分かりませんか？」
　始めは苛立ったように声を荒らげていた青年達だったが、こちらの言葉を聞いて黙る。見た目よりも物分かりがいいのか、煙草を捨てた青年が、差し出された煙草に手を伸ばしてくる。
「注意されたくないのなら最初から―――っ！？」
　差し出した煙草が男の手に渡ることはなく、代わりに腹部へ激痛を感じ、強烈な吐き気を催した後、意識がフッと遠のく。煙草の吸殻は再びアスファルトに落とされ、水を吸ってふやけていった。

　そして再びの激痛で目を開けると、自分は先程の青年二人に両脇を羽交い絞めにされており、目の前には煙草を投げ捨てた男がニヤニヤと笑いながら立っていた。腹部と左側の頬に、これまで生きてきた中で経験したことのない痛みが押し寄せている。口の中では鉄の味が広がっており、口内のどこかが切れて出血しているようだ。痛みに苛まれる中、何とか顔を上げ周りを見渡すと、先程まで居た場所から更に奥へ入った先にある空地だった。以前ここには公園があったが、寂れてしまい利用する住人も少なかったため、役所はここ最近整備をしておらず、壊れた遊具と錆びついた土管が放置されている。
　ぬかるんだ地面には、自分のものと思われる吐瀉物が飛び散っている。気を失う前に嘔吐感に襲われたことを思い出させられる。先程は無意識に堪えた筈であったがどうやらそれは上手くいかなかったようだ。泥水を被った革靴にもかかっている。明日が休日で本当に良かった。仕事用のスーツや靴、鞄を新調しよう。支部長からの小言は増やしたくない。自分で防衛出来る分はやっておいて損はないだろう。自分の置かれた状況は薄々感づいてはいて、そんなことを考えている余裕はないはずなのだが、だからこそ思考が乱れていく。現実逃避というやつだ。
「おっさんさあ、弱い癖に俺らに説教とかマジすごいよ、尊敬する～」
「ははは！言えてる。大体さあ、俺らみたいなのが、はいそうですかって、そんなこと言うような人間に見えてた訳？仕事のしすぎで疲れてるのかなー？」
「おいおい、それ自分で言うかぁ？」
　男達の笑い声が三種類。いや、確かあの時四人居たはず。と思ったところで、横からまた別の男の声がする。
「おい見ろよ、あし、みとういちろう？やっべえ銀行マンだってよ！金も結構入ってたわ～しばらく遊べそうだぜ」
　四人目の言葉を聞いた他の三人は、まじ？やったぜ！と、ゲラゲラと下品に笑い合う。取引先の情報の入ったファイルは漁られていないようで安心する。支部長の怒鳴り声を聞かなくて済むのだ。それどころか、そちらを見られてしまっては、解雇も免れられないが自分の金が取られるくらいであれば問題ない。
「後は、もう少しおっさんと遊んで飲みに行くとしますか！」
　目の前に立つ男がそう言うと同時に私の腹部に蹴りを入れてくる。自分の声にならない声と同時に胃から込み上げたものが出てくる。ビシャッと、濡れた地面に落ちたそれには固形物はほとんど含まれておらず、代わりに少量の血液が混じっていた。大して鍛えてもいない、更に身構えていた訳でもない体が悲鳴を上げるのは不思議ではなかったなと、どうしてだが笑えてきてしまう。腹を蹴った男が「汚ねえな～」と一歩後ずさる。
「うえ、ちょっと踏んじまったじゃねぇか……あ、そういえば」
　おもむろに自分のジーンズのポケットに手を入れた目の前の男は「じゃーん！」と言って小振りのナイフを取り出した。それを私の前で揺らしてとても楽しそうに笑っている。まるで子供が、手に入れたおもちゃを友達に自慢しているかのようだ。
「これ、最近買ったヤツでさ～。おっさんの緩々の口、少し締めてあげるよ」
　雨なのか汗なのか、背中を一筋の冷たい雫が伝い落ちる。ナイフを持った男がこちらの顎をきつく押さえる。それに釣られるように両脇を固める二人の男の腕も、更に力が加わる。
「動くなよー、おっさん。動くとどこ切っちゃうか分からないから、さ！」
「―――！！いっ、ぐ……」
　条件反射で思わず顔を背けると、男のナイフは私の頬から鼻にかけてを滑っていった。熱いような痛みの後、頬からボタボタと鮮血が流れる。
「あ～動くなって言ったのに動くから。手元が狂っちゃったじゃん」
「どれどれ！どんな感じ？」
　私の両脇を押さえていた二人もそれをやめると、こちらの前に移動してその光景を確認すると口笛を鳴らして「うわ、痛そ～」と好き勝手言っている。
　恐る恐るそこに解放された手を這わすと、温かく滑った血液で汚れる。右手が赤く染まり、すぐに雨によって滲んで落ちていく。吹き出る血液と、自分の血の気が引いていく感覚が繋がっているように思えて眩暈を覚える。出血は衰える様子がなく、動いてしまったことが仇となり余計に深く傷つけられたようだ。
「さて、おっさん。休むにはまだ早いよ」
　ナイフを持った男の蹴りが、再び脇腹の辺りを目指して飛んでくる。咄嗟に腕で庇うが、骨の軋む音が体を通して聞こえる。そのままの勢いで地面に吹き飛ばされ、すかさず、今度こそ腹部を蹴り上げられる。
　相手が一人であれば、何とかやり過ごすことも出来たかもしれないが、複数人相手で、しかも一人は武器を持っていてはこちらに勝ち目はなかった。こういった場合、こちらへの興味が薄れれば早く解放されるかもしれない。
　そこからは、代わる代わる四人の男達に殴られ、蹴られ、殴られ、蹴られを繰り返され、男達の良いようにされ、現在に至る。
　苦痛を訴えるこちらの声も無くなってきた辺りからつまらなくなったのか、地面に転がされ、足で軽く頭を蹴られる。その力に任されるまま横を見ると少し離れた先に、高級そうな革靴と、使い込まれたようなスニーカーを履いた二つの人影があった。男達の仲間が増えてしまったか。そう思った私はそのまま瞼を下ろす。早くこの今が終わればいいと思った。

「オイオイ、穏やかじゃないね」
「？誰だおっさん、ガキなんか連れて首突っ込むことじゃねえぞ」
「そうかねえ？テメェのシマで暴れてる奴を見過ごす程、俺は優しくないんだよ」
「はあ？」
　どうしたのかは分からないが瞼を開ける気にはならず、ぼんやりとした意識の中で会話だけが聞こえる。仲間割れか？何だっていいが、このままここに捨て置かれてしまったら本当に死んでしまうかもしれない。男達が素直に救急車等呼ぶ筈も無いのだから、望み薄である。せめて平穏な週末を過ごしてから死にたかった。
「親父、今は繊細な時だ、見てる奴が居なくともあっちの奴ら黙っていないんじゃないのか？」
「大丈夫、だってこいつらただのチンピラだし」
「はあ……俺は知らないからな」
「さっきから聞いてりゃ訳の分からないことを―――」
「おい！やべえぞ、このおっさん、例のこの辺りを仕切ってるっていうヤクザの……」
　八剱組だ。とチンピラの一人の怯えた声が聞こえる。気になって瞼を開けると、スーツ姿の男が咥え煙草のままパシャパシャと軽快に地面を駆けてくる。男が持っていたのか、開かれた傘が地面にそのまま転がっている。走るスーツの男の少し後ろには、中学、いや高校生ぐらいだろうか、金髪の少年が傘を差して立っている。傘を持つ反対の手で器用に携帯電話を操作し、誰かと電話している。
　スーツの男は、走る途中で煙草を口から吐き出し、拳を鳴らした後、私の方へは来ずにチンピラ達の方へ向かっていく。「ま、待て、やめろ！」と、チンピラの怯えた声が聞こえたが、スーツの男は走る勢いをそのままに楽しそうに笑った後。
「せいか～い！」
　と、笑顔のままチンピラの一人を殴り飛ばした。
「うーん。思ってたより元気がないな若者諸君」
「ひっ……か、金は返すから、見逃してくれ」
「金は要らないなあ。嫌なら最初からうちのシマで悪さするなよって話だよな」
　男が自分の仲間を拳一つで気絶させたのも目の当たりにした他のチンピラ達は、すっかり怯え切ってしまったようで、私と対峙していた時の威勢は消え失せていた。
　男が再び水溜りを駆けていき、鈍い音がすると同時にチンピラの呻き声が聞こえ、ドサッと地面に倒れていく。自棄になったナイフの男が叫び声を上げながら走っていきナイフを振り上げる。が、スーツの男はその腕を掴んで引き寄せると頭突きをお見舞いする。
「弱っちいな！もっと本気出せ！」
　と、男の楽し気な声と、チンピラの呻き声が断続的に続きやがて静かになる。

「っは～すっきりした！っと。あ、聖、組のモンとセンセイに連絡した？」
「してある」
　スーツの男は、少年に話しかけながら自分の傘を拾うと、新しい煙草に火をつける。今度はゆっくりと水音を立てる革靴がこちらに近づいてくるが、そろそろこちらも限界のようだ、瞼が閉じていく。人間の寿命は何とも呆気ないものだ。まだまだやりたいことはたくさんあった筈なのに。
　地面に倒れた私の上から傘を差しているのだろうか、降り注ぐ雨が感じられない。それともただ、死に向かっていっているだけだろうか。
「おーい、お前、生きてるか？」
　そろそろ死ぬのだと思っていた私は、男の問いかけに首を横に振った。
「生きてるな。よし、お前、まだ生きたいか？」
　頬に温かなものを感じる。死後の世界は本当にあるのかもしれない。しかしもう少し生きていたかったと、薄れゆく意識の中願った私は首を縦に振るのだった。

「分かった。何とかしてやる」



※登場する人物、団体は架空のものであり、フィクションです。
※本作における暴力行為を推奨するものではありません。