処女と酒場 お酒というものは、本当に恐ろしいものです。私がまだ雛鳥のように幼かったころ、道端で
「嬢ちゃん、大きくなっても酒なんて飲むもんじゃねぇぞ」
と酔っぱらったオジサマに話しかけられてお酒の恐ろしさをたっぷりとご教授いただいたことがありました。忌々し気に彼のおっしゃるには、お酒は心地よい気分だけではなく、頭痛に吐き気、歩行困難に人間関係のもつれをも引き起こすとか。感情は昂り、いつもはしないような行動をしてしまうのだと地を這うような声で話す彼の語り口に、最初は興味津々で聞いていた私もついには震えあがってしまいました。なんと恐ろしい飲み物なのでしょう。
……語り終えて満足そうなオジサマが屈強な警察官に、まるで童謡に出てくる子牛のように引きずられていく光景を見ながら、私は幼いながらも心に誓ったのです。
決して、かの恐ろしき『お酒』は飲まない、と。
そんな昔の、うろ覚えではっきりした輪郭を持たない記憶がふと浮かんだのは家路の途中、知り合って3年目になるキャンパスの正門から徒歩数分もかからない交差点で青信号を待っているときでした。そんなこともあった、でもまだ何かを忘れているような、とその記憶をこねくり回していると、ふとある考えが心に湧いてきました。あの幼き日から比べて、私は様々なことを学び、体も成長しました。もしかして、今なら恐ろしき『お酒』にも太刀打ちできるのではないでしょうか?
お酒を、飲んでみたいと思ったのです。
私は自分の考えに、すっかり心を奪われてしまいました。なんて挑戦的で、魅力的で、素敵な考え! 高校時代の片隅に置いていかれて埃をかぶった冒険心はどこからか顔を出し、膨らみ、頭の大半を占めてしまいました。偶然にも、交差点を家に背を向けまっすぐ進むと居酒屋に酒屋、イカガワシイお店の溢れる繁華街です。日の暮れて暗くなる中、赤色の光を放つ提灯や桃色に誘うように輝く看板たちは、好奇心の塊と化した私の足をそちらへ向かわせるには十分でした。今にも暴れだしそうな心臓を手で落ち着かせ、私は右足を家路とは反対方向へと踏み出しました。
かくして、私の記念すべき初めてのお酒の世界は、こっそりと幕を開けたのです。
数十分後。私は、ワイワイと賑やかな繁華街を肩を落としながら歩いていました。体には、話に聞いた頭痛も吐き気も、心地よい感覚さえもありませんでした。簡単な話です、いまだお酒を飲めていないだけなのですから。
前述のとおり、私は鮮やかな色彩の誘惑に負け、繁華街へと足を進めました。絢爛豪華な建物に囲まれ、その時までは心に一抹の不安も無く、『私はお酒を飲むのだ』という野望で一色に染まっていました。きらきらと輝く世界で、私も、広大な世界への一歩を意気揚々と踏み出そうとしていたのです。今まで恐ろしくて何の知識も得ていなかった、読んで字のごとく未知である、お酒の世界への。
……そう、お察しの通り、私はお酒について何も知らないのです。アルコールの成分や体に及ぼす影響はしっかりと学びましたが、お酒の種類も、飲みやすいお酒も一切知らぬことをきれいに忘れて、私はお酒を飲むのだと勇ましく交差点を進んでいたのでした。この事実に気付いたとき、私は『これは少し困ったことになった』とヒヤヒヤしながらも表向きだけは堂々と、胸を張って輝く街並みを進んでいました。私はまだ信じていたのです。颯爽と現れ、おすすめのお酒を教えてくれるかつてのオジサマのような存在が、きっとどこかにいるのだと。
さらに数十分後。私はふらふらと、一切の元気もなく歩いていました。酔いのせいではなく、疲れのせいでした。……結局、街にあるどんな酒場を訪れてもあのオジサマはいらっしゃらなかったのです。流石の私も、この状況には完全にノックアウトされてしまいました。
やはり、私がお酒を飲むのはまだ早かったのでしょうか。二十歳も超えたのに、情けないことです。肩はずん、と重しを積まれたかのように沈み、あれほどあった勇気も穴の開いた風船のようにしゅるしゅるとしぼみ始めていました。
……もう、帰った方がいいのでしょうか。さっきまでの威勢が嘘のように、私はそんな気弱なことすらも考え始めているのでした。私ははぁ、と大きなため息をついて来た道を引き返そうとしました。ですがちょうどその時、背の高いビルに挟まれた路地の奥から、仄かな光が漏れていることに気付いたのです。橙色と黄色のちょうど中間のような色の、温かな光が。
街灯に群がる蛾のように、ふらふらとした足取りのまま私は光の漏れるその方向に吸い寄せられてゆきました。疲れてもなお旺盛な私の好奇心が足を一歩、また一歩と路地裏に向かわせたのでした。
路地裏の入り口からそっと覗くと、そこには素朴な、レンガ造りの可愛らしい建物が一軒、小さなランプを灯して建っていました。ランプに柔らかく照らされた看板には、カフェ&バー ミゼットという名前が、不格好なおじいさんのイラストと共に書かれていました。
こんな所にバーが、という驚きと共に、無くしていた希望がじわじわと、また心に戻ってきました。もしかしたら、まだ諦めなくてもいいのでしょうか。大人になることを……お酒を飲むことを!
緊張と期待で痛いほどに鳴る心音を聞きながら、私は震える手でオープンと書かれたボードのかかるドアをノックし、ノブを回しました。徐々に開くドアの隙間から、黄色がかった白の光が私を包んでいきました。
恐る恐る足を踏み入れたそこは、私の想像していたいわゆる『ムーディー』なバーとはまるで違い、黄色がかった温かい光を放つ蛍光灯が周囲を余すところなく照らしている、明るい落ち着いた雰囲気の空間でした。ヘーゼルブラウンの木材でできたカウンターには、大小さまざまな瓶がカラフルな光を反射させながら静かに出番を待っているように立っていて、その奥には一人の男性が、慌ただしそうに食器を拭いていました。どうやら店主の方のようです。カウンターに似たヘーゼルブラウンの髪が、食器を手にとるたびにひょこひょこと揺れているのが犬のしっぽのようだな、とドアを閉めながら考えていると男性はやっとこちらに気付いたようで振り返り
「こんばんは。いらっしゃいませ、バー ミゼットへ。ごゆるりとおくつろぎください」
と柔らかに微笑みながら挨拶してくださいました。
「その、おすすめのお酒を教えていただけないでしょうか。お酒を飲むのが初めてで」
と私が遠慮がちに聞くと、男性は優しく
「もちろん、あなたに合うお酒と出会えるよう、一緒に探していきましょう」
と快く応えてくれました。そこから、二人三脚のお酒探しが始まったのです。
「まずは情報収集です、あなたのお話を聞かせてください」
「は、はい。私に話せる事なら!」
「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ、簡単な質問だけです」
と言って男性……マスターはいろいろな質問を私にし始めました。何故お酒を飲みたくなったのか、今日はどんな気分か、どんな食べ物が好きか嫌いか……本当にこれで私にぴったりのお酒が見つかるのかなと疑問に思いつつも質問にオジサマの話や今日は歩き回ってつかれたこと、好きなお菓子や果物の話をしているとマスターは顎に手を当てながらふむと考え込み、
「なるほど、ではシャルトリューズなんてどうでしょう?」
と閃いたようにつぶやきました。
「シャルトリューズ、というのは?」
「教会で生まれたリキュールの女王です、薬っぽい独特の風味があって通向けですが、飲みやすくするような秘密兵器があるんですよ、確かこの辺に」
と冷蔵庫の扉を開け、手にしたのは私も普段目にするような、背の高い紙パックの
「それ……林檎ジュース、ですか?」
思わずそう口にすると、にっこりと笑って
「正解!これでシャルトリューズを割るとフルーティーで美味しくなるんですよ」
そう言って、マスターは機嫌よく黄色の瓶をカウンターから手に取り、グラスに少し注いだ後紙パックの蓋を開けて薄い黄色のジュースを同じグラスに注ぎ込んでいきます。鮮やかな手さばきに思わず目を奪われているとどうやらもう完成したらしく、
「お待ちどうさまです、さあ召し上がれ!」
という声とともに、黄金色の飲み物が目の前に差し出されました。恐る恐るグラスに口をつけ、中の液体を喉に流し込みます。
美味しい! それが一番初めに出た感想でした。飲み親しんだ林檎の風味の中に、先ほど聞いた薬のようなハーブの香りが加わり、華やかな味が口の中にふわぁ、と広がります。軽やかなそれは飲んだ後も口の中にほんのりと漂っていて、何だか体の内側から楽しさが沸き上がるようなそんな味でした。最初は遠慮しながら一口ずつ飲んでいましたが、飲んでいるうちにペースが上がってきて、ついには全部飲んでしまいました。空になったグラスを見つめながら、私は風呂から上がった時のような温かい多幸感にぼんやりとしながら、今日の目標を達成した、という満足感に口角を緩めていました。これがほろ酔いというやつなのでしょうか。お酒の危険性について説いてくださったあのオジサマがあの時お酒を飲んでいたのも、この心地よい気分が味わえるからだったのだろうなと夢見心地で考えながら、会計を済ませてバーのドアノブを回しました。
「ご来店ありがとうございました、またお越しくださいね」
「ありがとうございました!また来ますねぇ!」
と互いに手を振り合って、私は軽やかな足取りで繁華街を、家へ向かって歩き出しました。
お酒というのは、とても恐ろしいものです。そう教えられた私の、好奇心に任せた短い冒険は、かくして幕を閉じたのでした。