愛に満たない金の皿(途中)あなたから見れば僕は赤子も同然で、僕はあなたの手によって安心な乳を与えられ、安全な揺籠へと抱かれて、賢者の魔法使いとなりました。私は教団で身寄りのない子どもとして、選ばれし使徒としてこの世に生を受けました。そして、あの日、僕はあなたによって、あなた方のもとで生まれ落ちたのです。リケ・オルティスと名づけられた子どもに、魔法舎は第二の生を与えました。教団という卵殻の割られた世界で、僕は、ここでも守られていました。あなたは僕の教えのとおり聖なる食べものだけを皿の上に並べてくれ、賤しい食べものを差し出すような真似はしませんでした。教義と規則にしたがって朝と昼と夜を過ごす僕のたいせつな生活が脅かされることはありませんでした。
歳月は私に秩序の正しさと正義を孕んだ矛盾の甚大なるを思い知らせ、しばしば私を無知愚昧の魔境へと突き落としました。たとえば、そう。あなたが僕たちと知り合った一年目に画策したあの謀略について、魔法舎の——賢者の魔法使いたちの見解はご覧のとおりです。あなた方は、生きている。二百年経ったいまも、賢者の魔法使いの証たる紋章が僕たちを絶えず繋いでいます。あなた方が、あなたが、どのような思いで二百年を過ごしてきたのか、想像もつきません。傍目に見るあなたたちは、何も変わっていないように見えるから。
そして、僕自身、答えを出していません。赦すも赦さないも僕の自由だと伝えたあなたの真心と不実への反抗として。僕は、まだ。
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「ずるいひと」
「へ?」
ネロはぽかんとリケを見た。手元のフライパンには溶いた卵が入れられようとしていた。
「……僕にとってムルはずるいひとではありません。ですが、シャイロックにとってはずるいひとなのだと聞かされて、はじめは意味がわかりませんでした」
ああ、ムルとシャイロックの話か、とネロは火元に向き直る。
「まあ、あいつらの仲は難解っつーか藪蛇っつーか、あんま関わりたくねえよな」
卵液がひらひら踊る。リケは知っている。あの薄ひらな衣が端からあっという間に固まってしまうこと、まんべんなくかき混ぜようとしても追い立てられ、焦げ目がついて、ひっくり返そうとするとぐちゃぐちゃに崩れてしまうこと。つるりとしたふかふかの黄色いオムレツは、ネロの腕が生み出すとびきりの魔法であること。
リケは毎年雨の街にあるネロの店を訪ねている。相変わらずこの世界に近づいてくる厄災を押し返して、皆がそれぞれの居場所に帰ったり、旅に戻ったりするなかで、ほとんど同じ目線になったネロについて行く。
魔法舎で暮らす習慣が失われたのは、それを提案した賢者が居なくなってから程なくしてのことだ。厄災に起因する依頼書の束が目減りして、書記官の来訪が激減し、誰もが異変の収束を予感したころ、スノウとホワイトが囚人を元いた場所に収監したことをきっかけに、魔法舎は解散を迎えた。
はじめに立ち去ったのはミチルだった。リケと同じように背丈の伸びた青年を止める人は、どこにもいなかった。一人旅を選んで、僕を置いて行くと言ったミチル。何せ、リケだけがミチルの決意を知っていた。二人でさんざん言い争いをした。ずっと一緒にいるって言ったのに、一緒に旅をするって言ったのに。……まるで、子どもに戻ったかのように傷つけあって、めちゃくちゃな喧嘩をした。だけど「スノウ様と、ホワイト様のようにはなりたくないです」と泣いたミチルに、リケは何も言えなかった。だったら、どうして!僕との別れを選んでるのはミチルなのに!そう叫びたかったのに、もう声にはならなかった。折れたとか、諦めたとか、負けたとか、さまざまな言葉が浮かんでは、ぴったり嵌るパズルのピースにはならなかった。心は言葉にすることを拒んでいた。だから、リケも一緒に泣いた。離れ離れになることを選んだミチルと離れ離れになりたくなかったリケとでは涙の理由は違うけれど、かけがえのない友人のために流す涙は同じ色で、泣きはらして朝を迎えた時に、二人の祝福となった。
それから、クロエとラスティカも旅に出た。失われた花嫁を探す旅ではなく、世界一のデザイナーとなる夢を叶えるための旅。二人並んだ箒の見えなくなるようすに寂しさと羨ましさを覚えながら、リケも旅支度を整えた。外の世界を一人で見聞して明るく道を照らすこと、さ迷える者に導きの灯火を与えること、そのどちらともがリケの負うべき——やっていきたい役目だった。使命と大義を負った魔法使いは国と支援者と、さまざまな困難に立ち向かうための武器と伝手を求めて、魔法舎を飛び出していく。元いた居場所に帰る魔法使いが増えた頃、ミスラとオーエンを見かけることもなくなった。それぞれの魔法使いたちの心に何かを溶かし込みながら、魔法舎の日々は砂糖菓子のように崩れていく。一年ぶりに顔を合わせる魔法使いが増えていく。閑散とした魔法舎を見届けたのは先生役の魔法使いたちで、彼らが出て行く日にも料理を作っていたのはネロだった。
最後まで居残った先生はファウストとシャイロックで、貸切状態のバーでさよならの儀式でもするように慎ましくお酒を飲んだ。翌日の朝一番にファウストが魔法舎を後にした。シャイロックは昼過ぎに起きて「そろそろ、ベネットの酒場にも顔を出そうと思います」と言い残して行った。
「……ネロは、どうするのですか?」
「何、おまえさんが気にすることじゃない」
リケの気遣わしげなまなざしを躱すようにネロは言った。リケは失敗したと思ったが、顔には出さないで、子供っぽく唇を尖らせた。
「僕が心配しなくて済むようにしてください」
リケに叱られたとわかったネロは目を丸くして、生返事をした。
「ネロ」
「はい……」
——店、開けるしかねえよな。
人を疎むのに人が恋しいひとは、観念したようにぽそりと言った。
雨の街で厨房に立つネロの姿は魔法舎にいた頃と変わらない。ラフな気負いのない格好で、髪の毛を無造作に束ねて、エプロンの結び目はきつく締めて。いつだって、温かい料理を作ってくれる。
ただ、今はカウンター越しにネロを見つめている。
……僕にとってはあなたが難解です、ネロ。
と、口にはしなかった。リケは目配せをする。秘めた言葉が伝わったかのようにネロは顔を上げた。リケの真っ直ぐなまなざしを受けて半開きの口を緩ませる。
「お待ちどうさん。腹が減ってたのか?」
「ネロには僕が待ちきれないように見えたんですね」
「違ったか」
「違わないですよ。お腹を空かせてきましたから」
澄まし顔でリケが言うと、ネロは緩んだ口元をもっとだらしなくさせて喜んだ。
「魔法舎を出て、色々な国をまわって、たくさんの美味しいものを知りましたが、僕はネロの料理が一番好きです」
「はは、料理人冥利に尽きるねえ」
「ネロのことも好きですよ」
「そうか、ありがとな」
まっすぐ伸びた手がリケの頭を撫でてから、はたと固まった。
「あ、わり、リケだって大きくなったのに」
「いいですよ」
「えっ」
「僕はもう子どもではありませんが、あなたに触れられることは嫌ではありません。シャイロックも、たまにムルの頭や顎を撫でたりしてました」
「やっぱり教育に悪いんじゃねえか、あの二人……」
ばつの悪そうな顔で、ネロが言う。
襲撃計画を立てていたことなんて、なかったかのような顔で。
「……美味しい」
できたての温かいオムレツを掬って食べる。
リケのいる世界は、聖人と悪人、信者とさ迷える者、勤勉な者と怠惰な者、怖いひと優しいひと、といったふうに予め切り分けられてなどいない。
スプーンのつま先がオムレツを崩すように自らが選り分けて、舌先で味わうように自らの思考と感覚で判断して、世界と向き合っている。
きれいなオムレツをぐちゃぐちゃにすることを拒むように、味わえないことを恐れるかのように、ネロと向き合わないことを選んでいるかもしれない。
ネロはまるで皿の上にある料理みたいにリケの前に自分を差し出している。食べるも食べないも、きっとリケの自由だった。だから、ネロはリケの前で変わらない。リケが求める限り、リケが求めるままにネロでいてくれている。
(……僕が食べたいと思う前に差し出すのは、勝手でしょう)
そう思ったところで、皿に横たわるネロは困ったように笑うだけだ。
リケは、ネロが好きだった。
好きだから赦すべきなのか、好きだから赦すべきでないのか。
好きだから赦したいのか、好きだから赦したくないのか。
そうではない、とリケは思う。
ミチルと喧嘩をした時や一緒に涙を流した時のように心は鮮烈でなく、ナイフのように鋭い光を放つことを拒んでいた。
ネロは、切り刻まれることを願っている気がする。
それが、どんな形でも。
大切なひとの願いに応えないことは悪いことだろう。
だけど、正しいことと悪いことに仕分けなくてもいいことをリケは知っている。
それを教えたのも、ネロだった。
食事を終えた後、リケはネロの店の仕込みの手伝いをする。
店を貸切にしてもらったお礼ということになっている。
ネロの店は四、五十年おきに所在を変えた。数年待たずして退去することもあれば、十数年後に突然店仕舞いをすることもなかったわけではないが、この店もリケが訪ねるのは三十回目を迎えている。
だから店の常連客や近隣に住むひとびとはネロが魔法使いだと知っている。知らないはずがない。知っていて、知らん振りをする。ネロも自分が魔法使いだとは言っていない。だけど、通報されない限り、揉め事が起きない限り、同じ場所に店を構え続ける。
見えない綱渡りをするような駆け引きだった。
あるいは、契約書のない取引。
魔法使いの数は減る一方で、いまさら法典が書き換えられることはないだろうが、東の国の辺境を治める魔法使いの領主の名は雨の街でも囁かれる。賢者の魔法使い兼魔法騎士団長を引き連れた中央の国の使節が城を訪ねたことは新聞で報じられた。世界的な魔法使いのデザイナーに影響を受けた服も店頭に並び、北の国でしか採れない薬草で作られた難病の特効薬はこの国の医院でも処方されている。
そういう大小さまざまなことがネロの店の奇妙な関係を成り立たせているようだった。
「次はどの国に行くんだっけ」
「しばらくは中央の国を回るつもりですが、北の国に寄るつもりです」
「ミチルか?」
「はい。今年は来てほしいと、直接言われました」
「仲が良くて安心するよ」
「僕たちは、親友ですから」
ネロはリケを一瞥した。
今は目線が同じだから、わかる。
厄災の日を迎えて一年ごとに顔を合わせて、ネロの店を貸し切って料理を食べる。
二百回目の儀式も安全だった。
もう二百年、同じことを繰り返している。
僕たちの関係は、なんて呼ぶだろう?