戸沢滋英の場合 恋人の茉莉が風呂に入り始めたので手持ち無沙汰になり、滋英は何ヶ月かぶりにエマに連絡した。ドライな姉なので滋英から連絡しなければ滅多に彼女からアクションが来ることは無い。……サプライズのような形で、エマの大事な人から連絡が来たことはあるけれど。
メッセージアプリに軽く会話を投げたらすぐに返事が来たので、ラリーが切れないうちに通話を始めた。タイミングを逃すとこの人はまた数ヶ月捕まらないのだ。
「エマ、久しぶり!」
「最近話したばかりよ」
「あれ春じゃん、とっくに季節変わったよ。ね、あの後どうだった?」
「素敵な一日になったわ。美味しいお料理をご馳走様」
「へへ、よかった。所長さんはどうしてる?」
「いつも通りよ。何も変わらない」
僅かに上擦った声に隠そうとしてもバレバレなエマの恋心を変わらず感じ取って、電話越しなのをいいことに滋英はにやにやした。
「そっかあ、相変わらず仲良しかあ」
「それで。わざわざ電話してきたのはどうして?」
「あっ、大した用じゃないんだけど…… 海外行くならどっちがいいかなあ? 二択で決めかねてるんだ、イギリスかイタリア。申込期限迫ってて」
机の上に置いてあるパンフレットを手に取りながら、滋英はカレンダーに目を走らせた。今週末のところに茉莉の可愛らしい字で『行先どっちか決める!』と書かれている。
実家暮らしの滋英は茉莉の部屋に泊まることが多いが、レストランから少し遠いのがネックだ。いっそ二人で住むために家を借りたいが、プロポーズの予定もないのに同棲を持ちかけるのは不誠実な気がして踏ん切りがつかないでいる。
もう少し貯金を増やしてから、なんて思いながら海外旅行を計画しているあたり自分は思った以上に腰が重たいらしい。茉莉を愛しているのは間違いないし、一生となりにいるのはこの人だという謎の自信だってある。なのに、プロポーズの指輪を買えそうな金額で旅行を計画してしまった。結婚したくないわけではない。決してそうではないはずなのに、どう見ても逃げ腰だ。
茉莉はもしかしたら、今回の旅行にプロポーズを期待しているのかもしれない。そう思うといたたまれない。
この辺りのことは今まで相方にも言えずに来たが、エマに相談してもいい気がしてきた。
「うーん、その二択なら英語圏じゃないかしら?」
エマの声で考え事を中断する。この人は滋英の返答が止まったらサクッと電話を切りかねないので、レスポンスに遅延を生じさせてはいけない。
「あ、やっぱ魅力だよね言葉。けどご飯が美味しそうなのイタリアかなあって」
「あら、あなたフレンチのシェフなのに。フランスは除外なの?」
くすくす笑うエマの声を聞いて、確かにそう思われて仕方ないなと思う。候補に上がらなかったわけではないのだが、事情があって除外した。
「先に相方が休みとるんだ。そんであいつ、ホームステイしてたプロヴァンスに久々に行くっていうからさ」
「なるほどね。被りたくないんだ」
「そう! せっかくオーナーふたり居るんだから、手分けして世界のおいしさ取り入れた方が効率よくない?」
「熱心なのね」
「へへっ、まあね」
パンフレットを毎晩見比べて唸っているがどちらも良くて決めきれず、決定打の無さに困っていたところだ。
レストランの質だけでいうなら大都会のニューヨークだっていいし、北欧の魚料理も魅力的だ。エスニックをフレンチに落とし込むのだって面白そうだ。
何とか二択まで絞り込んだのは観光重視の茉莉の意向によるところが大きいが、茉莉もイタリアとイギリスの観光地を交互に見て揺れている。
楽しい悩みだ。何も苦くなる要素は無い。……プロポーズ問題を脇に置いておけば。
「シェフ視点ならやっぱイタリアにすべきかな」
考え事を振り払うために声を出す。エマは電話の向こうで小さく笑う。
「イギリスのお食事も言うほど悪くないわ、量は多かったけど」
「あれ? エマ、イギリス行ったことあるんだっけ」
「ええ」
初耳だ。プロポーズ問題のことがすっかり頭から吹っ飛んだ。
子供の頃に家族で出かけたのはアメリカだった。エマの修学旅行先はニュージーランドだったと聞いている。滋英が把握しているのはこの2回だけだし、大学は怪我で中退してしまって旅行どころではなかったはずだ。
「実家出てからだよね? いつの間に」
「先月の初めにね」
「は!? 言ってよ!」
「なんでよ」
「ついていくに決まってるだろ!? おひとり様で海外なんて! 心配すぎるよ!」
エマには一緒に海外に行くほど親しい友達はいないと把握している。
かといって同居人の屋敷所長は、誕生日のディナーで花を贈ることすら躊躇うような慎重な人だ。たとえエマが誘ったとしても、断るに違いない。
そうなるとこの基本行動が大体おひとり様な姉は、はるばるヨーロッパまで独りで行ってしまったと考える他ないのだ。
肝が冷える。彼女が特別な武道や護身術を身につけていないことなんて家族だからよく知っている。そのくせ気が強いから、何かトラブルに巻き込まれた時にうまくかわしているビジョンが見えない。
「ふふ」
「ちょっとエマ、笑い事じゃないからね! 大丈夫だったの?」
「大丈夫よ、大袈裟ね。まあアクシデントはあったけれど…… あれは、むしろ役得だったというか」
「ああもう。昔からそうだけどさ、時々捨て身なの心臓に悪いからもうよしてよ」
ともすれば、命の危機すらさっくり諦めてしまいそうな所のある姉だ。ひょっこり出かけた先で帰らぬ人になるなんてことが、有り得てしまいそうで怖い。
日本国内にいたって事故や事件に巻き込まれることはあるのだから、海外なんて以ての外だ。どうしてもおひとりさまを決行したいなら俺を倒してからにしろ、という気持ちでため息をつく。
姉は相変わらず、上品にくすくす笑っていた。
「ねえ滋英。私、ひとり旅をしたなんて一言でも言ったかしら」
「え?」
「まあいいわ。そもそも滋英、デートなら可愛い彼女の意向を気にしなさいよ。彼女も決めかねて悩んでいるのかしら」
誰と! と聞こうとして先手を打たれた。どうして知っているんだろう。
「えっ、俺、茉莉のこと話したっけ?」
「見てたらわかるわよ。あのウェイトレスの子でしょ」
「当たり…… さすが探偵の助手、よく見てるんだな」
「滋英もあの子も分かりやすいんだもの」
「エマに言われたくないよ!」
友達とも彼氏ともドライに過ごしてきたエマの、あんな目は初めて見たのだ。街で見かけたときもレストランに来た時も、所長を見上げるエマの目つきは完全に恋する女の子のそれだった。
エマは小さく笑って滋英の言葉を流し、軽く咳払いする。
「可愛い子じゃない、マリさん」
「……だろ? 振り向いてもらうの大変だったんだから」
「そう。滋英でもそんなふうに思うのね」
「茉莉、最初の頃は全然俺に興味なくてさ。普通に好きなタイプ年上って言われて。やんわりフラれたとこからスタートして、頑張ったんだよここまで」
「まあ。でも今、上手くいってるのよね。彼女のおうちでしょ」
「え!? なんでわかったの!?」
「生活音がしないから。お母さんいつもこの時間に食洗機をかけるじゃない」
「エマすっげー…… そうだよ、茉莉いまお風呂」
くすくす笑われ、彼女が出てくるならそろそろ切るわねと言われたので慌てて引き止める。危ない、このまま有耶無耶になるところだった。
「待って! イギリス! 誰といったの?」
「ご想像にお任せするわ」
「いやもう答え一択じゃん。所長さんでしょ!?」
「そうね」
エマは澄ました声でそう言った。あのエマが誰かと旅行に、それも泊まりがけで行くなんてなんだか信じがたかった。
けれどあの二人の距離感を見るに、エマにとってやっとパーソナルスペースに入れていいと思える相手が出来たのだと感じられて心底安堵してもいる。そのままにしておいたらジェーン・マープルよろしくハツラツと老後もおひとりさまを貫きそうな姉だ。それは決して悪いことでは無いけれど、やはり信頼出来る誰かと背中を預けあって暮らしてもらったほうが弟としては色々と心配にならない。
「そっか、デートでイギリスにね」
「デート…… みたいだったわね、うん」
ふふ、と小さく笑う声。とうとうエマの恋が叶ったのかと思うと、自分の事のように嬉しくて口角が上がる。
「エマおめでとう! ホントおめでとう! よかったね、すっごいお似合い!」
「違うわ滋英、ただの慰安旅行よ。お付き合いとかそういう感じには至ってないの、まだ」
海外旅行に出かけておいて? と言いかけたが、思わず頬が緩む。……まだ。いずれそうなりたいと、彼女が意志を表示したことが嬉しい。
「だから所長の前では普通にしてなさいよ、滋英」
「任せといて、後方見守り隊は得意!」
「どうかしら。茉莉さんに聞いてみたいわね」
ふふ、と笑い合う。一瞬の間ができて、それから直ぐにエマが電話を切ろうとする。
「それじゃ滋英、また」
「あっ、待って、まだ色々話したい」
「ダメよ、洗濯物畳まなきゃ」
家事があるなら仕方ない。こちらもいつの間にかシャワーの音が止んでいるから、茉莉がそろそろ戻ってくるだろう。
「……次の旅行は、私たちもデートになるといいのだけど」
「え?」
「それじゃ」
「あー!!! 待って!」
所長のことも聞きたいし茉莉へのプロポーズの件も相談したい。けれどエマはサクッと通話を終えてしまい、あとはいくらメッセージを送っても既読がつかなかった。相変わらずのエマだった。
言い逃げした姉との通話記録を呆然と眺めた。これまで頑なに気持ちを認めなかった姉が、とうとう誤魔化すのをやめた。これは大きな進展だ。近いうちに滋英のレストランを二次会で貸し切ることになるかもしれない。いや、流石にそれはまだ早いか。
茉莉のベッドに腰かけて、にまにましながらパンフレットを眺める。相方がフランス、エマがイギリスを選んだのであれば滋英たちはイタリアにしよう。イギリスのことは、エマと想い人の二人だけの思い出にしておいて欲しい。
そしてこれから茉莉と作る思い出も、ほかの人たちと被らない方が嬉しいと滋英は思う。後ろ向きなことだって色々考えるがやはり滋英は茉莉が好きで、茉莉だってこんな弱腰の滋英を仕方ないなと言いつつ愛してくれているのだ。
「滋英、おまたせ」
「おかえり茉莉、イタリアいこう!」
「え!?」
急な決断に驚く茉莉と寄り添ってパンフレットを眺める。シチリアの美味しいパスタを食べよう。リモンチェッロで乾杯しよう。ヴェネツィアにもフィレンツェにも行こう。楽しみだ。
「シチリア島は外せないよな」
「ローマも行きたい! 広場でアイスクリーム食べよう」
「いいね、ローマの休日」
「でもどうして急にイタリアに絞ったの? お風呂入るまで悩んでたのに」
「二人きりの思い出にしたいからだよ」
「……そう? よくわかんないけど、わかった……」
照れた横顔が可愛くて、頬にキスすれば茉莉はさらに赤くなった。押せば押すほど照れて可愛いのでつい素直に想いを伝えてばかりいるが、それで悪いことなんか起きた試しがない。
珍しくエマから既読と返事が来ていることに気づかないまま、滋英は茉莉と旅程を組む。旅行代理店には明後日行こう。秋の終わりが楽しみだ。
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ワトソンの嫁=メアリー・モースタンなので彼女の名前は須田茉里ちゃん。
backnumberの花束みたいな二人じゃないかなと思う。
絶対滋英モテるし社交的だし浮気するだろうなって思って「年上が好き」ってかわしてた茉莉ちゃん、熱烈なアプローチに折れて今ではすっかり滋英にベタ惚れ。料理人の顔して厨房で仕事する姿をこっそり見てはドキドキしている。